瀬能俊史の憂鬱2
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歩遊に触れられないなんて、気が狂ってしまいそうだ。 俊史は悶々とした気持ちで参考書のページを意味もなくめくった。 先刻からぱらぱらとページを手繰っては閉じ、開いてはまためくりの繰り返し。その作業には何の意味もない。本当は最近サボりがちの教科があるから、時間の空いているこういう時に少しでも手をつけておかねばならぬ事くらい分かっているのに。2年になって大学を意識し勉強に励む奴等も増えたし、うかうかしていたらすぐに首位の座など奪われてしまう。以前はてんで下位にいた戸辺も、最近ではめきめきと頭角を表しているから気が抜けない。 歩遊にとって「凄い俊史」でい続ける為には、一度たりともトップの座から降りるわけにはいかない。俊史はいつでも1番で、いつでも歩遊より断然先に進んでいる存在でなくてはならないのだ。 「くそ…っ」 それなのに、まるで駄目だ。集中出来ず、遂に俊史は参考書もノートも閉じると、椅子の背に身体を寄りかからせて身体を仰け反らした。それから片腕だけで両の目を隠し、ふうと息をつく。 いつでも歩遊の事ばかりが頭を占めて仕方がない。情けないと思うのに、最近は特に酷かった。 俊史の父親である貴史が来たあの日。あれからおかしくなったと思う。実の父親に嫉妬するなんて我ながら情けないとは分かっているけれど、以前からあの男は歩遊を猫可愛がりしていたし、肉親だとか何だとかはもう関係なしに、俊史は「あいつはアヤシイ」と半ば本気で危機感を抱いていた。 そんな苛立ちの中で起きた先日の「凶行」である。あんな風に並んでソファに座り、触れ合って。貴史の馴れ馴れしさにも我慢がならなかったが、何よりされるがままの歩遊にも頭にきた。 だから俊史も理性の糸をあっさりと切ってしまった。もう鈍い歩遊をいつまでも待つのはやめてしまおう、直接身体で自分を求めるようにさせてしまえばいい―…、これまでの忍耐を全て取っ払って、俊史はカッとなった頭でそんな事を考えたりもした。 けれど、やはり早急に過ぎたのだ。 歩遊はあれ以来、あからさまに俊史に対しびくついた視線を向けるようになり、ほんの少しの接近にも過剰に反応してくるようになった。 元々歩遊は「そういう方面」には疎い。俊史自身がそう仕向けて育ててきたところがあるけれど、それでも、たったあれだけの愛撫でああも怯えられ泣かれた事はショックだった。 「集中出来ねえ…」 目を覆ったままの状態で俊史はぽつりと呟いた。 もうすぐ約束していたクリスマスだ。今年も、歩遊の方は知らないが、少なくとも俊史の両親は仕事でどうしても帰ってこられないと言っていた。いつもはちゃらんぽらんのあの父でさえ、仕事柄年末は多忙を極める。帰ってこない事は薄々予測していたが、だからこそ今年のクリスマスは歩遊とゆったりとした、またいつもとは違う時間を過ごしたいとも思っていた。 そのはずだったのに。 「……歩遊」 思わず、その名を呼んでしまった。ほんの少し離れているだけでこんなに恋しいのだから本当に始末に負えない。 「何?」 「……?」 「俊ちゃん?」 「わっ!」 「えっ!?」 けれど、驚いたのはその直後だ。 何気なく呟いただけのその呼びかけに返答があったから。俊史は危く椅子から転げ落ちそうになった。それを何とか踏ん張って体勢を起こし振り返ると、そこにはびくびくとした歩遊の顔があって、胸にはノートと教科書が抱えられていた。 未だ身体を傾かせた状態のまま、俊史はボー然とした声を出した。 「び…びっくり、するだろうが。突然現れんな」 あんな風に歩遊の名を呟いているところを見られた。内心赤面ものだった俊史は、誤魔化すように怒った声を上げた。 「勝手に入ってくんなよっ!」 「ごっ…ごめん!」 歩遊の方はといえば、俊史の恫喝に案の定びびってすぐ謝り、じりと一歩後退した。別に距離を取れとは言っていない。その微妙な間にはむっとして、俊史は今度こそ椅子をくるりと歩遊の方へ向けて「何だよ」とぶっきらぼうに言った。 「人ん家勝手に入ってきやがって。大体…っ、ノックぐらい、しろ!」 「え、えっと…。し、したんだ、けど…」 でも返事がなくてとぼそぼそ答える歩遊に俊史は思い切り舌打ちした。 落ち着かない。先刻まで歩遊の事ばかり考えていたし、ここ数日ロクな会話をかわしていない。歩遊が避けていると感じてしまっていたから尚の事自分も手が出せなかったわけだが、だからこそこんな風に歩遊から来るなんて思わない。 それでも夕食の時は普通にしていたつもりだが。何かヘマをしていなかったか…。 「ど、どうかしたの…? 具合、悪いとか?」 何も発せず何やら考えに耽っているような俊史に歩遊が訊いた。その距離は未だ遠いままだ。 イライラとして俊史はキッと形の良い眉を吊り上げた。 「あぁ!? 別に、何でもねえよ!」 「…っ」 乱暴な声色に歩遊はますます萎縮して、自分は無言のまま唇を戦慄かせた。 そうして青褪めた顔のままさっと踵を返し部屋を出て行こうとする。 「待っ…!」 それに危く「情けない」声が出そうになり、俊史はぐっと一旦息を飲み込んだ後、「待てよ」と改めて低い声を出した。 「何だよ。用があるから来たんだろ」 「う、うん…」 ぴたりと足を止めた歩遊がちらりと振り返り、そっと頷いた。 俊史はそんな歩遊をじっと見つめやったまま尚も厳しい口調で続けた。 「だったら黙って出て行くな、感じ悪ィな。大体、今何時だよ? 用があるなら携帯に掛けてから来いっていつも言ってるだろ」 「ご、ごめん」 掛けたんだけど、と言う歩遊は、自分はちっとも悪くないのにしゅんとして項垂れた。なるほど、ふと傍の携帯を見やると、チカチカと着信を告げるランプが灯っている。何気なくそれをスライドさせて目を落とすと、歩遊はメールも送ってきていて、宿題で分からない所があるから訊きに行ってもいいか、という文章が遠慮がちに打たれていた。 「……何だよ」 まるで気づかなかった。 本来、俊史は歩遊の家で食事を取った後、歩遊の宿題を見てやりながら自分も自分の課題をこなす。…だがここ数日の互いのぎこちなさから、俊史は夕食はぎりぎり共にするものの、その後は何だか居た堪れなくて早々自宅に引き返し、歩遊の宿題は見ていなかった。歩遊も何も言ってこなかったし。 迂闊だった。 俊史はもう一度軽く舌を打った後、手を差し出した。 「見せろよ。どこだ?」 「あ…平気?」 「平気じゃなかったら諦めんのか。明日困るのはお前だろ」 「う、うん…」 俊史の強い口調に押されるようになりながら歩遊はノートを恐る恐る差し出した。 俊史はそれをちらりと眺めた後、「そっち」と偉そうに顎でしゃくって壁に立てかけてある折りたたみ式のローテーブルを指し示した。 歩遊はそれに勝手知ったるという感じで頷くと、すぐに自らそのテーブルを部屋の中央に持ってきてセッティングした。その間、俊史は何気なく見ていた歩遊のノートに改めて目を落とした。 「……な」 何だ、これは? 「……歩遊」 「え? あ、俊ちゃん、クッション一個しかないけど…」 「――あぁ、今カバー洗ってるから。お前それ使え。それより、これ何だよ」 「何って? あ、いいの、クッション…。僕、別にいいから俊ちゃん…」 「いいから、それ敷いて、そこ座れ!」 「う、うんっ」 俊史の恫喝にも近いその「親切」に歩遊は飛び上がり、急いで言う通りそこに腰をおろした。1つしかないクッションを自分が使う事にいつまでも恐縮している様子ではあったが、それでも俊史の怒りの出所が分からないのか、不思議そうに顔を上げる。 「どうしたの…?」 「これが今日の宿題かよ…?」 俊史の質問に歩遊は怪訝な顔をしつつ頷いた。 「そうだけど…」 「…このラストの大問だけ分からなかったのか? 後はやってあるもんな」 「うん。前半は今までの復習みたいなものだったし、後の問題も前に何回か問題集でやった事あったから分かったんだ。でも、最後のそこだけはどうしても分からなくて」 「………」 「けっ、結構…。色々調べて、類似問題とかもないかって、持ってる問題集とかでも見てみたんだけど。なくてっ」 歩遊はいつも俊史にすぐ質問しているわけではない。俊史からは常に「きちんと調べて、それでも分からなかったら質問しろ」と躾けられているせいもあり、そう何でも「あれ教えて、これが分からない」などという事はしない。 それでも今日持ち込んできた数学は勿論、その他も常に赤点ぎりぎりを彷徨っていた歩遊だから、どうしても質問の量は多く、俊史としてもそれでかなりの時間を歩遊の為に消費していた。 それが今回はたったの1問。 しかもこのラストの大問は――。 「本当に西野がこの問題もやれって言ったのかよ? こんな課題、うちのクラスには出てねェけど」 「あ…ううん、これは冬休み中の自由問題なんだ。出来たらやってみろって言われただけだから、やらなくても怒られはしないと思うんだけど。でも、折角だから」 「………」 「しゅ、俊ちゃん…? 分かる…?」 「は!? 分かるに決まってんだろッ!」 「ひっ、ごめん!!」 俊史のギンと怒りに満ちた睨みに背筋をシャンと伸ばし、歩遊は正座をしたまま深く謝った。 「……ったく」 俊史はそんな歩遊の仕草にハアと深く溜息をつきながら、ようやっと手にしていたノートと共に歩遊の斜め向かいの場所に腰を下ろした。 「……分かるけど。別にこれ、授業でやるレベルじゃないだろ。前、これと似たような問題やった事あるけど、国立理系の二次問題だぞ」 「そ、そうなの…?」 「相変わらず、アホだろ西野は」 西野とは俊史たちの学年で数学を教えている教師の名だが、いつも授業スピードが速い上に授業でもテストでもふとした時に高度な問題をほいほいと出してくるので、数学が苦手な生徒たちにはすこぶる評判が悪かった。おまけに毎度たくさんの宿題を出しては、忘れた者には更に過剰なペナルティを課してくるから、少し前の歩遊はいつでもこの西野の宿題には泣かされていた。 けれど、今は。 「…とにかく、こんなレベル、今のお前に必要ねェよ。他の事やった方が有意義だし」 「うん…。でも、折角だから解き方教えて」 「は……? 何で?」 数学など大嫌いなはずの歩遊なのに。俊史が内心で酷く驚いていると、歩遊は照れたようにはにかむと、ノートを見つめながら答えた。 「あのさ、最近何か凄く数学面白くなってきたから。この間のテストもちょっと良かったでしょ? あ、も、勿論、別に調子に乗ってはいないよ!? まだまだだけどさっ。でも、西野先生も誉めてくれたんだ、『最近凄く頑張ってるな』って。あのいっつも怖い西野先生がだよ? だ、だからさ。もうちょっと頑張ってみようかなって」 「………」 ふわりと笑う歩遊の顔は大好きだけれど。 こんな時はいつでも複雑な気持ちになる俊史である。 勉強を頑張れと言っていつも厳しく促していたのは俊史だし、別に歩遊のこの態度は間違っていない。それどころか前向きに勉強に取り組む姿勢が出て来た。嫌々やっていた以前と比べたら大成長だ。 それでも俊史は。 こういう「ちゃんとした歩遊」「前向きな歩遊」に、言い表しようのない苛立ちを感じてしまう。 こんな歩遊は「嫌だ」と思ってしまう。 「あの…俊ちゃん…?」 「…っ」 それでも、それをいつでも表に出すべきでない事も分かっている。 俊史は曖昧に返答した後、仕方なく歩遊の要望通り、やらなくても何ら差し支えのない問題の解き方を懇切丁寧に教えてやった。歩遊は熱心に聞き入り、自分でも何度か合いの手を入れたりしながら、最後にはバカ丁寧に全部の式と答えをノートにもう一度書いてみせて、「やった」と満足そうに笑った。 俊史はそんな歩遊の顔をちらりと眺めてから、また意味もなく胸の奥をちりちりと燻らせた。 「良かった、出来て。ありがとう、俊ちゃん」 「別に…」 「あ、あのさ…。本当は俊ちゃんも勉強してたんでしょ? ご、ごめん、いつも」 「別にいい」 いつもならこんな風に殊勝に謝り、こちらを気遣う歩遊には嬉しさすらこみ上げてくるのに、今日は何だかそんな気分でもなかった。何しろ、ここまで無防備なくせに、今はこの歩遊に触れる事が出来ない。はっきり言って拷問だ。 俊史はふいと視線を逸らした後、自分はさっさと元の机に戻ってから「お前、もう帰れよ」とぶっきらぼうに言った。今夜はもう歩遊の顔を見ていたくなかった。 「あ、あのさ…。俊ちゃん」 それでも何故か歩遊の方はそれに素直に従わず、オズオズとしながらも声を掛けてきた。 「今度のさ…クリスマスの事なんだけど」 「あ…?」 椅子を回して歩遊を振り返ると、歩遊は心なしか少しだけ嬉しそうな顔をしていた。思わずその顔に魅入っていると、歩遊はそんな俊史をちらと見上げて言った。 「お父さんたち、帰ってくるって。今年のクリスマスは一緒にいられるって、電話があって」 「……ふうん」 何だ、そんな事か。 興味のなさそうな俊史に歩遊は何故か慌てたようになって口を継いだ。 「そ、それで、お母さんたち、どこか外で食べようって言ってて。俊ちゃんも勿論来るよね?」 「俺…?」 「や、約束、したよね? 今年も一緒に過ごそうって」 「……約束」 「し、したよね? あの…駅の近くの公園で」 「………」 歩遊はどうしてこんな顔をしてこんな事を言うのだろう。俊史としては単純に不思議だった。 何でも言う事をきく、キスはさせる、でもそれ以上だと「あんな風」になって泣いてしまう。あからさまに怯えて避ける素振りすら見せる。 でも、一緒にクリスマスは過ごしたいと言って、こちらの機嫌を窺ってくる。 お前は一体何がしたいんだ? 「俊ちゃん…? あの…」 「久々に親が帰ってくるっていうなら、家族水入らずがいいんじゃないのか」 「え…」 フンと歩遊から視線を逸らし、俊史は半ばヤケのように答えた。誤魔化すように元あった自分のノートと参考書に手を触れたけれど、当然の事ながらそれを開く気にはなれないし、目を通す気もない。 ただ歩遊から目を逸らして意味もなく早口でまくしたてる。 「偶には3人で過ごせよ。俺は俺で適当にやるし」 「て、適当って…?」 「知らねえよ。とにかく、適当」 「と、……」 「あ…?」 歩遊が何か言いかけて飲み込んだのを不審に思い、再度振り返ると、歩遊はどうしようと迷った顔をしていたものの、下を向いたままぽつりと言った。 「戸辺君と…過ごすの?」 「……はぁ? ……だったら、何なんだよ……」 眉をひそめて聞き返すと、歩遊はびくんと肩を揺らした後、黙りこくった。ぎゅっと膝の上で拳を作り、何かを言いたいのに言えないという風だ。歩遊はいつでもそうだった。ずっと一緒に過ごしてきたのに、幼馴染の俊史に対して言いたい事の半分以上は黙って胸にしまってしまう。 そうして俊史のいいようにしてしまう。 ただ肝心なところでは俊史にブレーキを掛けさせるのも、この歩遊だと思うのだけれど。 「……歩遊」 考えるだに腹が立ってきて、俊史は自分の勝手さも全て棚に上げて歩遊の前に座り込み、厳しい目を向けた。 「何なのお前」 「え…」 「何なんだよ。俺が戸辺と過ごすのは嫌なのか? 何か文句あるのか?」 「な、ないよ…っ」 「じゃあ何でそんな顔するんだよ?」 「べ、別に…」 「べっ…!? 別にって事ないだろっ!?」 焦燥が最高潮に達し、俊史は歩遊の手をぐっと掴んだ。それに弾かれたように歩遊は顔を上げ、やはり怯えたような顔を向ける。むっとした。どうしてそんな風に恐ろしいものでも見るような顔をするのか。確かにそんなに優しい幼馴染ではないけれど、こんなに歩遊しかいないという風に過ごしてきた俺に向かって。 お前は俺の事が好きじゃないのかよ!? 以前は家族みたいだ、なんてふざけた事を言っていたけれど。 「なあ。最近、何で避けてんだよ」 「さ、避けて…ないよ…?」 「避けてんだろうがっ。俺が触ると、こうやってびくびくして、今にも泣きそうになるだろ!」 「そ……っ。それ、は…」 「それは? 何だよ?」 更にぐいと手首を捻り上げ、俊史は顔を近づけると歩遊に更に接近した。歩遊はぎゅっと目を瞑ってしまい、やはり逃げるように顔を逸らす。 それがまた俊史の神経を逆撫でした。 「何だよその態度は。おい歩遊。ちゃんとこっち向けよ!」 「う…だって」 「だって、何だよ…っ!」 「俊ちゃん…怒って…」 「怒ってねえよ!」 立派に怒っている声を出し、俊史は更に歩遊を自分の方へぐいと引っ張るとそのまま勢いで抱きしめた。歩遊は体勢を崩したまま俊史の胸に飛び込む形になり、焦った風に起き上がろうとしたが、俊史はそれを頑として阻んだ。 「しゅ…っ」 「煩い! 何なんだよお前! 避けてるくせに、こうやって近づいたり! クリスマスだ何だって言うくせに、それには親付きで!? けど、俺が戸辺といるのは嫌なんだろ!?」 「い、嫌なんて、言ってない…」 「なっ…煩ェ! 嫌なんだよ、お前は!」 「しゅ、俊ちゃんが…っ。怒るのが、嫌だよ…っ」 「お前が怒らせるような態度ばっか取るからだ!」 何が何だか分からなくなったまま、俊史は歩遊の髪の毛に噛み付くようなキスをした。歩遊はそれで「ひっ」と小さく悲鳴を上げると一層暴れるようになって俊史から離れようとした。 俊史も意地で放そうとはしなかったのだが。 「しゅ、俊ちゃん、離して! 離してよ!」 「煩ェ! 嫌なら何でわざわざこんな時間に部屋来んだよ! 矛盾してんだよ、お前は!」 「わ、わかんない、わかんないよ! 俊ちゃんの話は分からない!」 「何…何だと!」 珍しくヒステリックに叫ぶ歩遊に驚いて声が一瞬くぐもったものの、それでも歩遊を離しはしない。 ただ話を聞く気にはなって、俊史は怒りで速まった呼吸を整えるようにして大きく息を吐くと、じっと歩遊の頭を見つめた。 歩遊は俊史の胸の中で、やはり僅かに震えているようだった。 「僕…僕は、避けてない…。た、ただ俊ちゃん、怒ってるし…っ。こ、怖くて」 「何が怖いんだよ!?」 「こ、この前、から…。何か、怖くて」 「!」 あの日の事を言っているのだとはすぐに分かって俊史は動きを止めた。 じっと歩遊を見つめていると、その歩遊は俊史が静かになったのを感じて言葉が出しやすくなったのかぽつぽつと言葉を出してきた。 「あの時、凄く痛かった。胸が…痛くて」 「歩―……」 「わ、分からないけど…俊ちゃんのこと見てると…胸、痛くなった。あの時は特に凄くて。そ、その。俊ちゃん、変なとこ、いきなり触るし」 「……っ」 ぐっとなって依然として声を失っていると歩遊は構わず続けた。 「それから俊ちゃんはずっと怒ってるし…。ま、前はキ、キキ…キス、してたのに、しなくなったしっ。僕は、だから、俊ちゃん怒ってるって思って、そしたら余計俊ちゃんのこと見られなくなったしっ」 「お、お前が……あの時、泣いたから――」 「え?」 「お前が俺を避けるようにしてたから、だから、俺は!」 「ち、違うよ! 俊ちゃんが先に…僕に、触らなくなったよ…!」 「お前が先だ!」 「俊ちゃんだよ!?」 「………」 「………」 二人が黙りしんとなったところで、俊史は不意に情けなくじれったい気持ちと、一方で胸にぽっと灯る温かい何かを感じて、ぐっと唇を噛んだ。 「…歩遊」 それでもすぐに気を改めて、ゆっくりと歩遊の頬に触れ、撫でるような所作で後頭部に掌を当てた。 柔らかい。歩遊の髪の毛を撫でるのはいつだって大好きだった。 「俺は別に怒ってねえよ」 「……本当に?」 「お前こそ、俺のこと避けてたわけじゃないんだな?」 「さ、避けるわけないよ。ただ」 「た…ただ、何だよ?」 「…わかんない。わかんないんだよ、俊ちゃん…。だから、…っ」 どうしたら良いか訊きたかったのだと、歩遊はいつもの頼るような目で俊史を見上げた。 「……っ」 そんな顔で見るなと思ったけれど、俊史はただもうここ数日の鬱屈が凄くて、もう我慢が出来なくて。 「バカ」 それだけを言うと、歩遊の唇にちゅっと触れるだけのキスをした。 「しゅっ…」 「キスは…嫌じゃないんだろ?」 「い、嫌じゃ…でもっ」 「煩い」 許可を得られたらどんどん安心して、今度は吸い付くようなキスをした。歩遊の唇を思う存分堪能し、舌を探って小さなその口を開かせる。歩遊は面食らって俊史の服を引っぱったが全く意味のない動作だった。 「んっ…」 歩遊の鼻をくすぐるような声が愛しくて、身体をまさぐる。けれどそれには歩遊が極端な震えを示したので、仕方なく止めた。 ああ結局こいつはまだ準備が出来ていないのだ。 「歩遊」 「ん…」 それでも互いの唇が濡れるほどの口づけをし終えた後、俊史はキスだけでぼうとなっている歩遊の髪の毛を何度も何度も撫でつけた。 そして訊いた。 「クリスマス、何か欲しい物あるのかよ?」 「え…」 潤んだ瞳で見上げる歩遊にもう一度、両手でその頬を挟みながらゆっくりとした口づけをして、俊史は努めて優しい声で言った。 「買ってやるから。言ってみろよ。あ、言っておくけど、俺の親父からは本当何も貰うなよ? 絶対だぞ?」 「あ、あの…っ。じゃあ……」 「ん…何だよ?」 一度許されると、この数日のストレスが解放されて本当に限度を知らない。何かを言おうとしているのに歩遊の唇を奪って言葉を失わせ、俊史は何度となく歩遊にキスをし、それからようやっと「言えよ」と命令した。 「あの、クリスマス、一緒にご飯行ってくれる?」 「は…? 何だ、そんな事か」 「だ、だめ…?」 断られたらどうしようという顔で歩遊は俊史を見ている。たった今こんな風に互いに許しあってキスをした仲なのに、一体こいつの頭の中にはどういう方程式が成り立っているのかと俊史としては心底不思議になる。 それでも今は、歩遊が自分を「嫌っていなかった」事実にどうしても浮かれてしまう。 そう、正直ここ数日は本気でそんな心配をしていたのだから。 「まあ。お前の親にも世話になってるしな。行ってやるよ」 「本当!? 良かったっ」 ありがとう俊ちゃん、と歩遊は屈託なく笑った。 俊史はそんな歩遊を見つめてまた身体中に火がつく想いだったのだが、折角警戒を解いて懐いてきているだけに、先日の二の舞は絶対に避けたかった。 身体は、身体は本当に限界値に達しているのだけれど。 「はあ…」 それでも、まだキスが出来るようになっただけマシと思うべきか。 「たったそれだけの事」で満足してしまっている自分を情けないと思いながらも、俊史は歩遊の身体を改めてそっと引き寄せ、おままごとのような軽いキスをその額にそっと落とした。 結局はこうして慣れさせていくしかないのかなと、心内では大きな溜息をつきながら。 |
了 |
戻
あれ、何かまた振り出し(汗)?