誕生日と歯医者



  ただの噂を如何にも「本当っぽい」と感じてしまう。


「戸辺君のあのベタベタ具合はタダゴトじゃないよ」
  それは期末テストも終了し、夏休みを数日後に控えた、ある日の放課後だった。
「もう一線越しちゃってんのかな?」
「そうじゃない? うぅー! 何かすっごく興奮する!!」
  クラスメイトの女子達がしきりと黄色い歓声をあげる中、教室の隅で帰り支度をしていた歩遊は、ぴたりと動きを止めたまま身動きが取れなくなった。もういい加減聞き慣れた話題のはずなのに、どうしても気になって意識がそちらへ向いてしまう。
  彼女たちが噂しているのは俊史と戸辺優の「恋人関係」について。

  事の始まりは“戸辺の誕生日”だ。

  どうやら今週の土曜がその記念すべき祝日らしいのだが、それに際して《優くん公式ファンクラブ》の面々が「お祝いパーティを開きたい」と申し出たのに、戸辺がこれを無碍に断ったというから、話は大事になった。
  曰く、「その日は俊と2人きりで過ごしたいから」という事で。
「そりゃあ、自分の誕生日は好きな人と一緒にいたいよね」
「彼氏さえいれば後はいらないもんね」
「あぁいいなあ。いいよねえ、あの2人。何でああやって並んでる姿が、ああも絵になるんだろうねぇ」
「やっぱ男は顔だよね!」
「あの2人は顔だけじゃないじゃん! 他もカンペキじゃん!」
  キャーキャーと再び意味もなく舞い上がる嬉しそうな叫び声。
「………」
  歩遊はやや青褪めながら、それでも女子たちのお喋りから耳を塞ぐ事も出来ず、ただぐっと唇を噛みしめた。
  俊史と戸辺が付き合っている。
  そんな事はもうとっくに知っている「噂」だ。そして、それが仮に「真実」だったとしても―…歩遊にとってそれは「仕方がない」事だった。
  だって女子たちが言う通り、2人の並ぶ姿は本当に絵になる。
  俊史も戸辺も周りの誰もが認める美形だし、成績優秀で学園の生徒会役員で。
  それに比べて、歩遊は誰もが認める地味で冴えない、駄目な奴。

(そもそもそんな比較すること自体、バカなんだ。別に…いいじゃないか、俊ちゃんが誰と付き合ってたって)

  俊史が誰と付き合おうが、歩遊が俊史の幼馴染である事に変わりはない。幼い頃から共に過ごしてきた時間や、それに伴い築いてきた関係は、たとえこの先俊史に特別な人が出来たとしても、決して消す事の出来ない事実なのだ。
  だから歩遊はそれだけで満足している。否、満足しなくてはいけないと思っている。
  歩遊は俊史の「幼馴染」だけれど…それ以外の何者でもないのだから。
  それ以上の事を望むのは大それた事、とんでもない事だ。

(でもきっと…会える時間は少なくなるんだろうな)

  はっと小さく溜息をつき、歩遊は女子生徒らを視界に入れないようにして席を立った。





「歩遊」
  昇降口で俊史に呼び止められた時は「運が悪い」と思った。
  もう生徒会室へ入っただろうと見越していただけに、意表をつかれた。歩遊はその予想外の声に思い切りたじろぎ、手にしていた靴をぼとりと足元へ落としてしまった。
  必要以上に動揺していた。
「何、先に帰ろうとしてんだよ」
  そんな歩遊を不審な目で見る俊史は、それでもまずは歩遊が自分を待たずに帰ろうとしている事を咎め、眉をひそめた。
  不思議な青年シュウの事は俊史と歩遊だけの秘密だが、あの事件があって以降、俊史が歩遊に対してより過保護になったのは間違いがない。「お前が勝手に磯城山に行かないように」と、俊史はいつも歩遊を図書室で待たせ、自分と一緒に帰るようにと「命令」していた。
  歩遊としても俊史を待っている間に宿題を済ませたり本を読んだり、何より俊史と一緒に帰れる時間は嬉しかったから、待つ事が苦痛だと感じた事はなかった。
  けれど今日は。
  何となく待てない気分だったのだ。
「シカトしてんじゃねェよ」
  何も言わない歩遊に畳み掛けるように俊史が再度声を出した。
「何で帰ろうとしてんだよ。待ってろよ。それとも、今日、何かあるのか」
「え……」
「先に帰りたい理由でもあるのかって言ってんだよ。お前がいつも見てる、くだらないテレビとか」
「ち、違うよ。ただ――」

  今日は一緒に帰りたくなくて。

「ただ? ただ何だよ」
「………何でもない」
  けれど、そんな事言えるわけもない。
「何でも……」
  歩遊はゆっくりとかぶりを振った後、のろのろとした動作で靴を下駄箱に戻し、俊史を待つべく図書室へ向かおうとした。
「待てよ」
  けれどそれをそのまま見送る俊史でもない。歩遊の様子がおかしいといよいよ怪訝に思ったのだろう、その肩先を痛いくらいに掴み、俊史はさっと怖い顔をして歩遊を睨み据えた。
「どこか具合でも悪いのか。熱でもあるのか」
「な、いよ…」
「けど、平気って面でもないだろ。……何かあったのか」
「……ううん」
  あったと言えばあったのだが、それも言えるわけがない。
  女子たちの噂を聞いて何となく気分が落ち込んだ。戸辺の誕生日に彼と2人きりで過ごすだろう俊史を思い、寂しい気持ちがしたなどと―…言えるわけがないのだ。
「……具合悪いなら、先帰ってもいいぞ」
「え」
  ふと紡がれたその言葉に驚いて顔を上げると、俊史は未だ不機嫌そうな声ながらも表情はどこか気遣うような感じで歩遊を見下ろしていた。
「寄り道とかするなよ」
「先帰っても…いいの?」
  歩遊の掠れた声に俊史はあからさま嘆息した。
「やっぱり具合悪いのかよ…。それなら仕方ないだろ。俺だって鬼じゃないんだぜ、無理して待たれて熱でも出されたら気分悪いしな」
「……うん」
  俊史を避けて帰りたいと思ってはいたものの、実際に当人からその許可を得られると複雑なものだ。
  それでも俊史が心配してそう言ってくれたのだろうと思い、歩遊は素直に「ありがとう」と言った。
「俊。まーたそんなところで油売ってる」
「!」
  その時、廊下の向こうからスタスタと戸辺が早足でやって来て、歩遊たちがいる昇降口へとやってきた。いつものように歩遊の事はちらとだけ見て特に声は掛けず、それどころかどこか意地の悪い笑みを閃かせて、これみよがしに俊史の傍に寄り添う。
「俊が来ないと始まらないんだからさ。早く行こうよ」
「分かってる」
  強引に腕を引っ張られる動作にも俊史は別段嫌がる様子を見せない。
  歩遊の顔はたちまち暗くどんよりと曇った。
  もし歩遊が戸辺のようにべたべたしようものなら、俊史は「馴れ馴れしくするな」と怒るに違いない。普段から歩遊がぐずぐずしたり、やる事なす事スムーズに出来ないと、「世話焼かせるな」だとか「本当にお前は面倒だ」などと文句を言う。
  俊史はいつでも厳しい。
  俊史にとって歩遊はあくまでも「腐れ縁」であり、だから「仕方なく」傍に置いているだけなのだ。
  俊史は誰かから必要以上に馴れ合われたり親し気に近づかれたりするのを極端に嫌う。人当たりは良いけれど、それは彼が賢く器用だから出来ているだけで、基本は人間嫌い、一匹狼なところがある。少なくとも歩遊はそう感じている(恐らくは俊史が普段からあまりにも怒りっぽく、陰では他人に毒舌だから)。
  つまり。
  俊史がこうまで己の懐の中に入れて良しとしているのは、幼馴染の歩遊を除けば、この戸辺優が初めてなのだ。
「歩遊」
  居た堪れず俯いていると、不意に俊史が呼んだ。
「何ぼうっとしてんだ。早く帰れよ。そんで、さっさと寝ろ」
「……うん」
「もし欲しい物あったらメールしとけよ。帰りに買ってってやるから」
「何? この人、風邪引いてんの?」
  俊史の言葉に戸辺が急に横槍を入れた。俊史はそれで急にむっとした顔をしたものの、「行くぞ」と言って踵を返した。
  それでも否応なく2人の会話は聞こえてくるのだけれど。
「ふふふ。やっぱり俊は優しいね」
「具合悪いって言ってんだから、これくらい普通だろ」
「いやいや、普通はそういう事しないから。妬けちゃうなぁ」
「煩ェな。寝込まれると俺が後で大変だからだよっ」
「あはは、そうかそうか。うん、僕の誕生日に俊を取られたら堪んないからね!」
  ちらり、と。
  そう言った戸辺が、ふと振り返ってニヤリとした笑みを向けるのを歩遊はその目でしっかと見た。
  見てしまった。
(な、何だよ……)
  それは本当に悪意のある目で、「俊史は僕のなんだから、必要以上に近づかないでよ?」と言外に訴えているように思えた。
「怖いよ……あの人……」
  思わず声に出して言ってしまい、直後歩遊は逃げるように、振り切るようにしてその場を駆け去った。
  俊史の投げ遣りなあの台詞の事も振り払いたかったし、何より2人が並んでいるその姿を脳裏から全て消し去ってしまいたかった。





  戸辺はこのところ歩遊に「さり気なく」関わってくる回数が格段に増えた。
  特にたくさん話しかけてくるというわけではないのだが、以前太刀川から映画に誘われた時には無理矢理チケットを奪われたし、俊史が体調を崩して早退したと言った時にも、わざわざというのではなかったけれど、「学校終わったらお見舞いに行くから」と歩遊に俊史の不調を報せに来たりした。
  それらの接触は「苛め」とまではいかなかったが、お世辞にも「親切」の部類に入るものではなく、歩遊は彼の存在をどこか恐ろしいものに感じていた。何もかもを見透かしたような瞳は怖かったし、あの形の良い唇が悪意を持ち、意地悪く上がるのを見るのは単純に嫌だった。
(まぁ…当然、なんだけど)
  戸辺に嫌われるのも、ある程度は納得だ。
  本当に俊史と戸辺が付き合っている恋人同士ならば、確かに自分は邪魔な存在だろうと歩遊は思う。俊史は乱暴だし口も悪いが、何かと歩遊を気にして面倒を見ようとするあの姿・干渉具合は、同じ年齢の高校生男子にするものにしては少々度が過ぎている。歩遊はそれを「自分が駄目過ぎる人間だから」と解釈しているが、戸辺にしてみれば「いい加減、子どもみたいに俊史を頼るのは止めろ」となるだろう。そう思って当然だ。
「……俊ちゃん」
  自宅に帰り着き、リビングのソファにもたれかかった後、歩遊は何ともなしに俊史の名を呼んだ。
  太刀川と知り合うまでは友達という友達もおらず、歩遊の世界は俊史一色だった。他には誰もいなかった。
「俊ちゃん」
  本当に。
  俊史は戸辺の誕生日に戸辺と2人きりで過ごすのだろうか。
  どんなプレゼントを持って行くのだろう。
「………」
  何となくの動作で、歩遊は学校鞄を傍に引き寄せるとそこへ無造作に手を突っ込み、携帯を取り出した。
「可愛いな…」
  そこについている黒兎のストラップは、俊史がプレゼントしてくれた物の中で1番新しい。一緒に映画を観に行った数日後、俊史は「これが欲しかったんだろ」と言って、歩遊の1番のお気に入りキャラクターであるそれをひょいと投げてきた。
「これも…。あ、あとこれもそうだ」
  鞄の中をまさぐって、歩遊は次々とそういった俊史からの贈り物を取り出した。
  誕生日の時は勿論だが、歩遊はこれまで俊史から実に様々な物を貰ってきた。財布、筆入れ、時計と言った普段の生活必需品から、今いる部屋をぐるりと見渡しただけでも、コーヒーカップやらアンティークな小物やらゲームソフトまで。俊史は普段こそ学校一色の生活を送っているが、長期の休みや週末を利用しては何か短期のアルバイトをして、その収入から歩遊にこうしたプレゼントをしてくる。
  いつも「ついでに」と言いながら。
「甘え過ぎてる」
  思わず声が出て、歩遊はゆっくりと目を閉じた。
  本当にもうこう言った事はやめてもらった方がいい。俊史に迷惑だからというのは当たり前として、自分自身がいつか「引き返せない」所にまで行ってしまうのではと、歩遊はそれが怖かった。何がどうとははっきりしないまでも、少なくとも「俊史から離れられなくなってしまう」恐怖はいつもついて回っている気がした。
  俊史がいないと何も出来ない人間になってしまう。
  それはいけない事だ。
「ご飯…作ろうかな」
  ふいと台所を見やり、歩遊は呟いた。
  元々別々のクラスになった今年からは俊史に頼らず、独りでも大丈夫なようにならなければと思っていた。
  戸辺の誕生日はそれを実行するには良い機会なんじゃないか…手にしていた携帯をふっと放して、歩遊は何かに背中を押されるようにゆらりと立ち上がった。





「……何だこれは」
  ただ、思い立って実行した事がすぐにうまくいくとは限らない。
「お前ん家に俺が来たのって一ヶ月くらい前だったか。それとも、それよりずっと前か?」
「昨日も来たよ……」
  しゅんとして項垂れる歩遊に、俊史も暫し黙ってその場に立ち尽くしている。
  何を作ろうか考えて、多分素人でも何とかなるだろうと真っ先に思い浮かんだメニューがカレーだった。これなら家族でキャンプに行った時や学校の行事でも「手伝い」をした事があるし、要は「野菜を切って鍋で煮込んで、後はカレー粉を入れれば万事OK」な、誰でも作れる料理だろうと安易に考えたのだ。
  しかし、結果は大失敗。
「お前は、バカだろ」
  俊史のどこまでも冷たい声が歩遊の耳で木霊した。 
「これを片付けるのは誰だ? ったく…何でこんな余計な真似しようと思ったんだよ!?」
  段々と声が荒くなる俊史にぐうの音も出ず、歩遊はひたすら足元を見つめたまま「ごめん」と呟くのみだった。
  確かにキッチンの惨状には目を見張るものがあった。
  一体何人分作ろうと考えたのか、大量の野菜―人参、じゃがいも、たまねぎ、ピーマン。あとはキャベツに椎茸まで―が、幾つも無残に切り刻まれ、その皮や泥がシンクに無造作に散らばっている。出した皿は大小様々、レンジの上の大鍋も火をかけ過ぎたのかどことなく焦げ臭い。またその鍋の中には、カレー粉以外にも何かを混ぜたに違いない、カレールーと呼ぶにもおぞましい色をした物体が鍋の縁に汚くこびりつき…それは床にも飛び散っていた。
  加えて、電子ジャーの中にはおかゆのような白米。
  まあ幸いというか奇跡というかで、その状況を作り出した歩遊自身は無傷だったのだが。
「指とか切ってないだろうな」
  俊史もそれがまず第一に気になったようだ。はじめこそややフリーズ状態でその場に佇んでいたものの、あまりにションボリしている歩遊に怒鳴り散らす気も失せたのか、まずは本人が無事かとさっと近づき、その手を取った。
「き、切ってない…」
  強引に腕を引っ張られて指先を見られた歩遊は、少しだけ濡れたそれを気にしながら慌てて首を振った。ルーの溢れた鍋を掴もうとしてかなり熱い思いをしたが、火傷もしていないだろうと思う。
「大丈夫」
「とりあえず、こっち来い」
  歩遊はそれにやや逆らう所作を見せたが、俊史はきかない。ぐいぐいと歩遊を連れてリビングのソファへ行くと、そのままそこへ放り出すように歩遊の背をどんと押した。
  そうして自らもその隣に腰をおろし、じいと歩遊を観察するように見据えてくる。
「……ごめん」
  だから歩遊は謝った。俊史がこういう態度の時は、直後絶対に大きな雷が来るのだ。確かにここは歩遊の家だが、最近いつも夕飯を作ってくれている俊史に何も言わず、「あんな状態」にしてしまった事はただひたすら申し訳がない。勿論、片付けは自分一人でやるつもりではあるけれど。
「何があった。話せ」
「え…?」
  けれど俊史は怒鳴るでも責めるでもなく、まずそれを言った。
  歩遊が意表をつかれて顔をあげると、すぐ真横にいる俊史は更に顔を近づけて探るような目を向けてきた。
「今日は帰りから変だっただろ。何があったんだ」
「何って……別に……」
「嘘つくな。すぐ分かるんだよ、お前が考えてる事なんて」
「な…なら、言わなくても、分かるでしょ?」
「…っ! バカ! 細かく全部は分かるわけないだろ!」
「ひっ…」
「な…にか、お前が隠しているって事は分かるって…そういう意味だよ」
  大きく深呼吸をした後、俊史はそう言った。どうやら今日はあくまでも「歩遊を怒鳴らない」方向でいこうと決めているようだ。
  それでも歩遊を逃がす気はないらしく、決して広くはないソファでどんどんと互いの距離を縮めるようにしながら、俊史は続けた。
「先に帰ろうとしたり…料理しようとしたり…。何なんだよ。何考えてるんだよ。言え」
「………」
「歩遊」
「!」
  怒鳴り声ではないけれど、黙秘する事は許さないと言った絶対的響きを持つ俊史の「命令」。
  歩遊はいつもの如く身体を震わせた後、ぼそりぼそりと声を漏らした。
「俊ちゃんに、頼る…のやめようと思って…」
「………」
  歩遊がこう言い出すのは何も今日が初めてではないので、俊史もすぐには驚かなかった。
  歩遊が自分で「いい年をして、未だ同じ年の俊史に頼っている」事を気にしているのは以前からだし、戸辺との仲を気にして、「自分は大丈夫だから戸辺君と」と言い出すのもまた、珍しい事ではない。
  だから俊史もすぐには何も言わなかった。
  だから歩遊も言い出しやすかった。
「別に部活もしてないし…委員会も何もしてないし。ひっ…暇なんだ。だったら、少しくらい家の事やろうと思ったし。カレーくらいなら作れると思った」
「先に帰ろうとしたのは?」
「え?」
  俊史のぴしゃりとした言い様に歩遊はいつのまにか下げていた顔を再び上げて、びくびくとした目線を向けた。
  俊史は何を考えているのか分からない顔をしていた。
「家の事をやるのはいい。…本当は迷惑だから止めて欲しいけどな、後始末が手間になるだけだし。けど、何で黙って帰ろうとしたんだよ? 具合が悪かったとしても一言くらい何か言ってくのが普通だろ」
「あ、後でメールしとこうと……」
「ふざけんな。そういうのが1番むかつく。何で同じ場所にいんのにいちいちメールなんだよ。ちょっと俺のクラスに寄って行っていけばいいだけの話だろ」
「………それは」
「何だよ」
「………」
「何で黙って帰ろうとしたんだって事を聞いてんだよ」
「………」
  ああ、結局俊史に隠し事など出来ないのだ―…歩遊はあっという間に白旗を掲げた。
  いつでも俊史には正直に生きてきたのだ、それをいきなり変える事は出来ない。
「俊ちゃんと一緒にいたくなかったんだ」
「なっ…」
  けれど歩遊のその台詞に俊史の方はあからさま動揺したようだった。まさか歩遊がはっきりとそんな言葉を投げつけてくるとは思わなかったらしい。近づけていた顔をいきなりバッと後退させ、俊史はやや青褪めた顔で歩遊を凝視した。
  歩遊自身はそんな俊史には気づかなかったのだけれど。
「一緒に帰るの…嫌だって思った。だって俊ちゃんが僕と一緒に帰るのは……め、面倒だけど、僕がまた磯城山に行ったりするのを心配してるからでしょ? 面倒だけど、し、仕方なく……仕方なく、付き合ってやらなきゃ危なかっしいから、でしょ…。前、そう言ってたし」
「だったら……どうだってんだよ……」
「だから…。ま、前は…『仕方ない』って思われてても、一緒に帰れるの嬉しかったから…だから、僕もそれで別にいいって思ってた。…でも…でも、やっぱり不釣合いだし」
「………何が」
「俊ちゃんは戸辺君と付き合ってるんでしょう?」
  以前にも何度も訊いた質問だ。
  それをまともに肯定された事はなかったけれど、否定された事もない。いつもなあなあで終わってしまって、それでも歩遊は「それで良かった」と思っていた。
  本当の答えを訊くのは怖かったから。
「付き合ってるんでしょ?」
  けれどもう、はっきりさせたい。戸辺の誕生日を前に、はっきりと噂ではなくて本人の口からその事実を聞いて、その上で「覚悟」したいのだ。
  もう俊史は自分に今までのように時間を割く事が出来ない場所にいる人間になったのだと。もう甘えてはいけないのだと。
「お前は」
  すると俊史もいつもと違う雰囲気を感じ取ったのか、不意にさっと真剣な顔つきになると、真っ直ぐに歩遊を見つめてきっぱりと訊いてきた。
「お前はそれでもいいのかよ。俺が誰かと付き合ってても」
「い……いい、とか、悪いとか。だって、それは俊ちゃんのことだし。僕は、」
「お前は何だよ」
  ぴしゃりと黙らせて俊史は言った。大きな声ではないけれど、そこには明らかに怒気が篭もっていた。
「俺が決める事だからお前には関係ないってのかよ? こんだけ一緒にいた俺の事だぜ。生まれた時からずっと一緒だった俺だぞ。誰よりお前の近くにいた、この俺の事なんだ。それなのにお前は……お前は、自分には関係のない事だって言うのか?」
「……関係、なくはない。なかったら、こんな気持ちにならない」
「どっ…どんな…気持ち、だよ?」
  歩遊の意外にも早い返答に、何故か俊史の方が珍しくどもった。歩遊はそれを不審に思ったものの、自分は自分で夢中だった為にその相手の反応には気づかずに続けた。
「俊ちゃんが誰かと付き合ったら、もうこんな風に一緒にいる時間も少なくなるし。…それを考えたら、普通に……嫌だって、思ったんだ。ご、ごめんっ。でも……寂しいって思った。ごめん」
「なっ…何度も謝ってんじゃねえッ! つまり、それってどういう意味なんだよ!?」
「え」
「え、じゃないだろっ!!」
「わっ」
  突然声を荒げた俊史に、歩遊はその波動だけでソファから転がり落ちそうになった……が、そこは俊史によって腕を捕まれ、事なきを得た。
  それでも修羅場はまだ終わらない。
  俊史は逃がしてくれそうになかった。
「言えよ歩遊。お前は一体俺の事をどういう風に思ってんだよ?」
「え?」
「だからっ。俺が他の奴と付き合ってもいいのかって訊いてんだ!」
「だ、だから、それは嫌なんだよ…。寂しいって。だって俊ちゃんは僕にとって家族より家族みたいなもんだし」
「はあぁ!?」
「ええっ!?」
  いきなり前のめりに倒れてきそうな勢いで叫び声のようなものを上げた俊史。
  それに歩遊も混乱しきったような大きな声を上げて、目を見開いてしまった。
  先に復活して声を出したのは俊史だ。
「か、か、家族…? 何、言ってんだよ、お前……」
「え? だ、だか…ごめんっ。でも、だから僕は、俊ちゃんに心配掛けないように…、僕が独りでも大丈夫だって見せられるように…」
「煩いっ」
「ひっ」
  短く悲鳴を上げたものの、俊史にはそれすらも掻き消されて、歩遊はそのままぎゅうと強く抱きしめられた。
「俊ちゃ…んんっ」
  抱き殺されるのではないかと思った刹那、それはあっという間に離されて、しかし直後唇を重ねられた。
「んっ…!」
  深く吸い付くようなそれに歩遊は目を閉じる事も出来ず、ただただ唖然として俊史の勢いだけの拙いキスを受け入れた。
  そうせざるを得なかったと言うべきか。

  唇と唇が触れ合って、数秒。
  ただ、歩遊にはそれがもっと短い時の出来事に思えた。

「……もし」
  やがて唇を離した俊史は、やや憔悴したような声で言った。
「もし俺らが兄弟だったとして…こんな事しないだろうが、普通は」
「………俊っ…」
  至近距離でのその台詞に、歩遊は声を失った。
  俊史が何を言いたいのか、残念な事に歩遊にはさっぱり分からなかった。
  キスまでされても。されたのに、分からなかった。今までにも何度かそれに近い事をされてきたから耐性があったのか、それとも別の理由からか。
「独りでも大丈夫? お前が大丈夫なわけないだろ」
  それでも俊史はまくしたてるように言葉を出した。歩遊以上に、どこか俊史の方が気持ちを乱しているようだった。
「お前は俺がいなくちゃ駄目だろうが」
「………」
「聞いてんのかよ!」
「そ! き、聞いて……うん」
「何が『うん』なんだよ?」
「………」
「歩遊!」
「なにっ」
「だから、何じゃねえ! お前は俺がいなくちゃ駄目だろ!?」
「う、うん……。そう……思うけど。今は、まだ……」
  歩遊のたどたどしい言い様に俊史の眉がさっとつりあがった。
「今は、じゃねえんだよ! これからもそうなんだよ!」
  半ば強引に、それこそ脅しのようにそう吐き捨てて、俊史は自棄になったようにもう一度歩遊の唇にキスをした。それは最初ちゅっと触れるだけの軽いものだったのだけれど、やがてそれはしつこさを増して、角度を変え何度も重ねられ、息を吸うのもままならない程の深く長いものに変わっていった。
「んっ…ふ、んぅ…」
  俊史の肩先を掴んで無理に引き剥がそうとしたけれど駄目だった。それどころか逆にソファの上に押し倒されて、歩遊は俊史に雁字搦めにされた状態で上からじっと鋭い眼光を浴びせられた。
「俊ちゃん…?」
  自分の唇が濡れているのが分かった。微か口を開いて酸素を入れたけれど、ドキドキと胸が苦しくなり、歩遊はただ俊史に助けを求めるように自らも上からの視線に目を合わせた。
「歩遊」
  すると歩遊の上に乗って完全に動きを拘束していた俊史は、やや頬を上気させた状態でくぐもった声を出した。
「俺から言うつもりはないからな」
「え…?」
「お前が気づけ。お前から俺を……必要としろ。お前は俺がいないと駄目な、どうしようもない奴なんだから」
「そ…それは……。いつも、思ってる、けど」
「……そういう事じゃない」
  ハアと大きく溜息を降らせた俊史は、「どうしてお前は…」と何かを言いかけて、しかしぴたりと動きを止めて今度こそ厳しく睨みつけてきた。
「どうでもいいけど、お前冷蔵庫に入ってたエクレア食っただろ。口、すげー甘かった」
「あ…う、うん」
  はっとして口を閉ざしたがもう遅い。直接感じられてしまったのだから言い逃れは不可能だった。
  案の定俊史は「昨日も言っただろ」と呆れたような顔を見せた。
「あの最後のイッコはおばさん用だって。お前、まだ歯医者終わってないんだから、ちょっとは我慢しろよ。また削られる場所増えて泣いても知らないぞ」
「わ、分かってるよ」
「分かってねえ。今週もサボる気じゃないだろうな」
「ちゃ、ちゃんと行ってるってば」
  こんな状況でどうしていきなりそんな話になるのだろう。
  歩遊はたちまちむっとして、俊史から今度こそ脱出しようと身体を起き上がらせて上に乗っている俊史の胸を押した。俊史は意外にもすんなりと歩遊からどくと、その腕を何気なく捕らえた。
  そうして掴んだ歩遊の手を何度か意味もなく擦ってから、俊史は当然のようにのたまった。
「今度の土曜日だったよな。逃げられないようについてくからな」
「えっ…どこに…」
「はぁ? だから、お前の歯医者に決まってんだろ」
  人の話を聞いているのかと呟いて、俊史はまた歩遊の手をぎゅっと握った。
  それから努めて気を鎮めようと何度か息を吐き、続ける。
「暇だからな。行ってやるよ。どうせなら帰りに飯食おうぜ」
「………本当に?」
  それはとても嬉しい申し出だった。歩遊はたちまち顔を明るくさせて―…、けれど直後に「あの事」を思い出して表情を翳らせた。
「あ、でも…土曜日は用があるでしょ?」
「何で? 暇だって言っただろ」
「だって土曜日は――」
  女子たちが噂していた戸辺の誕生日。
「………」
「どうした、歩遊」
「う、ううん…。何でもない」

  けれど歩遊は慌てて首を振った。
  結局それ以上訊く事が出来なかった。

「……何でも」
  そもそも先刻の「戸辺と付き合ってるのか」うんぬんの質問も流されたまま。
  けれど俊史は歩遊の歯医者に付き合うと言った。その後は食事に一緒に行こうとも言った。
  土曜は戸辺の誕生日なのに。
  それに、今は口づけまでして。
「………俊ちゃん」
「何だ」
「う……ううん。何でもない」
  それでも歩遊は「その結論」にまではどうあっても到達する事ができず、ただただゆるゆると首を振った。
  よく考えなくとも、歩遊にとってそれは初めてのキスだった。昔戯れで俊史とキスをした思い出ならあるが、そういうものはファーストキスには入らないからと俊史本人から言われていた。だから歩遊も「あれは違う」と知っていた。
  けれど結局、「そういう」ファーストキスの相手も俊史になったわけで。

(でも…何だか初めてって感じがしなかったな。やっぱり俊ちゃんは僕の1番身近な人なんだ…)

  何も言わない俊史に歩遊も心内をぐるぐるさせながら沈黙を続け、ただひたすらそんな益のない事を考え、取られた手元に視線を集めた。ちらりと垣間見た俊史の頬が赤かったので、もしかすると怒られるのかと余計に顔を上げられなかった。
「歩遊」
  けれどそれが幾らか続いた後。
  俊史が言った。

「くだらない事考えるなよ。―…もう、考えるな」
「……俊ちゃん?」
  そう言った俊史の声はどこか消耗していた。自分といると疲れるのだろうかと歩遊は案の定落ち込んだのだが、それでもそう言われたらもう逆らう事など出来なかった。
「うん…」
「………」
「分かった」
  だから歩遊は素直に頷き、未だ自分の手を握り続ける俊史にもう一度、「もう考えないよ」と答えた。仄かに優しかったキスの事だけはどうしても頭から離れなかったけれど、極力俊史の言う通りにしたかった。
  歩遊は俊史を「とても大切なんだ」と改めて確信していた。