呼ばれた後
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「あんなのはファーストキスじゃないからな」と言われていたけれど、歩遊が初めて俊史からキスされたのは小学2年の時だ。その日はいつものように俊史と彼のシンパのような同級生ら数人とで磯城山を駆け回り遊んでいたのだが、途中歩遊だけが逸れて、いつもの事とは言え「孤独」を感じて泣いてしまった。 多分、その頃から薄々勘付いてはいたのだ。幾ら「ミンナ」で遊んでいても、その「ミンナ」が遊びたいと思っているのは俊史唯一人。何をしても愚図でノロマな歩遊は俊史の単なるおまけか、ハッキリ言ってしまえば邪魔者でしかない事を。 「う…うぅ…。俊、ちゃん……」 だから一緒にいても、いつの間にか独りにされる。ミンナはさっさと何処かへ行ってしまい、歩遊を探してもくれない。思い出してもくれない。 「歩遊。もう泣くなよ」 自分が惨めで可哀想で。 だからその日の歩遊は今までになく酷く泣き続けた。大体は俊史がいつもの大木の根元に来てくれれば安心出来たし、涙もすぐに引っ込める事が出来た。俊史から「泣くな」と言われればすぐにぴたりと泣き止めた。俊史はすぐに怒るから怖いし……それに何より大好きだったから、歩遊は俊史の言う事なら何でも聞きたいと思っていた。 要は歩遊にとっても俊史という存在は仲間たちが感じるのと同じように絶対的なものだったわけだが。 「歩遊。いい加減にしないと、俺、怒るぞ」 「う…っ。ひっ、ひっ……」 「歩遊!」 それでも歩遊はなかなか嗚咽を止められなかった。何故なのかハッキリとは分からなかったけれど、恐らくは天気も悪かったし俊史の迎えもいつもより少しだけ遅かったし。 この場所に俊史以外の友達が誰一人迎えに来ないという事に気づいた日でもあったから。 自分が「嫌われている」と思い知るには十分だった。 「何でそんな泣いてんだよ……」 うずくまる歩遊の前に立ち尽くしたまま、俊史がウンザリしたように言った。これ以上泣いたら俊史にまで嫌われてしまう、早く泣き止まなければと思ったが、それでも歩遊はそれが出来なくて「どうしよう」と泣きながら言った。 「何が『どうしよう』なんだよ」 それを素早く拾って俊史が聞き返した。歩遊は素直に「わかんない」と言った。 「わかんない、じゃないだろ。泣いてんのはお前だろ。もう帰るぞ。立てよ」 「う……う、うん……っ」 「立てって言ってんだろ。顔上げろ、歩遊!」 「……っ」 びくりとして歩遊は咄嗟に顔を上げた。その瞬間、ぼたぼたとみっともなく落ちていた涙の粒が、パッと水飛沫のように辺りに舞い散った。涙ってこんな風に飛ぶものなのかと驚いたけれど、それよりも今はただ怒った俊史に「どうしよう」と思っただけだった。 「……?」 けれどその時目が合った俊史の顔に、歩遊を怒っている色は感じられなかった。 「俊…ちゃん…?」 涙で視界がぼやけていたせいではっきりとは見えなかった。けれど俊史が歩遊の顔を見て明らかに驚いたのは分かった。泣き顔なんていつも見られているし、大して珍しくもないはずなのに。何が俊史をそんなに途惑わせたのか分からなかった。 「何で、そんな……」 けれど俊史はぽつりとそう呟くと、どこかオロオロしたようになりながら歩遊の前にしゃがみこんだ。それから強引にぐいぐいと歩遊のほっぺたを指先で拭うと、何度も何度も「もう泣くな」と繰り返した。 何だか泣いているのは俊史の方に思えたほどだ。 「ご、ごめんね……」 だから歩遊は謝った。思えば俊史は心配して、こうしてちゃんと迎えに来てくれた、たった一人の味方だ。俊史は何も悪くない。それなのに俊史の前でだけこんな風に駄々をこねて泣くのは迷惑以外の何でもないだろうと歩遊は焦った。 「ごめん、俊ちゃん。も、もう僕、泣かない…っ」 「……うん」 「泣かな……」 けれど歩遊が「泣かない」をしつこく繰り返し、「もう大丈夫」だと告げようとした時だった。 「歩遊」 俊史がおもむろに顔を近づけてきて、物凄く真面目な顔をしながら歩遊の唇をそっと塞いだ。歩遊は何が起きたのか全く分からず、涙で濡れた瞳を見開いたまま、ただボー然としてそれを受け入れた。抵抗も何もない、「これ」が何なのかすらもよく分からなかった。 実際、そのキスはほんの数秒に過ぎないものだったし。 「……こんなの」 やがて唇を外した俊史が視線を逸らしながらバツの悪い顔をして言った。 「こんなの、何でもないんだからな。他の奴に言うなよ!? お前が泣いてるからっ! だからしてやったんだから!!」 「俊ちゃん……?」 「いいなっ。他の奴に言うなよ! 絶対!」 「う、うんっ。言わないっ」 唇に手を当てながら歩遊は慌ててぶんぶんと首を縦に振った。俊史が急に怒り出した事が怖かったし、俊史が言うなと言うならば絶対に言わないと思った事に間違いはなかったから。 「僕…誰にも言わない…!」 そして、そう誓って既に約10年。 歩遊はその約束を今もずっと頑なに守り続けている。 「ん……」 息が出来ない、どうしようと焦ったが、そう思った瞬間に唇が離されて、歩遊は「ぷはぁ」と大きく息を出した。 「バカ」 すると俊史はそれを嘲った後、また間髪入れずに歩遊の唇を塞いだ。 「んっ」 歩遊は慌ててそんな俊史の腕を掴んだが、逃がしてもらえる気配はない。そのキスは角度を変え、何度も重ねては離されて、それは長いものだった。既に紅く色づいた唇を痛い程にきつく吸われ、息苦しさに薄く口を開けばすかさずその中へ舌を捻じ込まれる。今日のキスは本当にしつこくて長いと感じてしまう。 「んっ…んんっ」 舌を入れられると眩暈が酷くなるし、身体がじんと痺れて「変」になるから少し苦手だった。 「俊…ッ」 歩遊は緩い抵抗を示すように身体を揺らし、俊史の名を呼びかけて眉をひそめた。 「ん! ん、ふっ…んん…!」 けれど俊史はそんな歩遊の行為を諌めるように途端きゅっと拘束の手を強め、片手で歩遊の後頭部をぐいと押して、より自分の方へと向かわせた。 そうして暗に「お前も舌を差し出せ」と訴えてきた。 「ふぁ…、ん、ふ…」 先日も歩遊があまりに受身だったせいか、「ちゃんと口開けよ」と怒られた。 そもそも、毎日こんな行為をし続けている事自体がおかしいはずなのに。 そう、おかしいのだ。おかしいのに。 最近、歩遊は俊史と毎日のようにキスをしている。 家でも学校でも、時には外ででも。 「俊ちゃ……っ」 また息が止まると思って、歩遊はいよいよじたばたと暴れた。俊史はそれで仕方がないという風に今度こそ歩遊を解放したが、多少息を吐いた後はまた「バカ」と罵って形の良い眉を吊り上げた。 「だから、息できないなら鼻ですればいいだろーが。ずっと止めてるから保たないんだろ」 「だって…っ…。だ、だって、そんなの…っ」 そんな器用な真似は出来ないと言いたかったが、ゼエゼエと息を吐いてそれどころではなく、結局言えなかった。半ば涙交じりの目で歩遊は恐る恐る俊史の顔を覗き見、ソファの上で向かい合っている自分たちを意識してカアッと顔を赤くした。 学校から帰って、何となくここに2人で座ると、いつでもこうしてキスが始まる。 それは夏休みに入ってからも同じ事だ。生徒会の仕事で休み中も前半はほぼ学校に通う毎日だという俊史に付き合って、何故か歩遊も毎日登校して休み中の宿題をこなす毎日なのだが……それは決して単調なものではなく、こうして2人で「不可解」な行為を繰り返しているので、歩遊には毎日がドキドキ緊張の連続なのだった。 あの日から。 戸辺の誕生日を前に2人が「初めて」キスをしてから、俊史は少し変わった。 「今日、何食いたい」 キスを終えると、俊史はいつもようやっと人心地ついたようになってここで初めて制服のネクタイを緩める。そうして歩遊から背を向けキッチンへ向かう姿はいつもどこか様になっていて、歩遊は素直に「格好いいなあ」と見惚れてしまう。 ただ、何故自分にこんな事をするのかだけが分からない。 「歩遊」 「あ…」 話しかけられて答えなかった自分に気づき、歩遊は慌てて顔を上げた。それから不審そうな顔をしている俊史に頼りないふにゃりとした笑みを向けた。誤魔化す時は、何にしても笑うに限った。 「僕…何でもいいよ」 「お前、いっつもそれな」 これも俊史のいつもの台詞だったが、「何でもいい」と言われてからでないと動く気がしないのか、俊史は多少苦笑いを浮かべながら「分かったよ」と背を向けたまま手を挙げてシンクへ向かった。 「………」 歩遊はその俊史の姿を認めた後、そっと濡れた唇に手を当ててハッと小さく嘆息した。 俊史にとっては、一度したらもう二度も三度も同じ事なのだろうか。 「歩遊」 大抵俊史は歩遊の名を呼び、それから身体を屈めて顔を近づけ、そっと差し出した指先で歩遊の頬に触れてくる。それから唇を寄せて、最後まで、まるで挑むように歩遊を見つめながらキスをする。そっと触れて終わる時もあるけれど、この頃は舌を絡める濃厚なものもするようになった。特に、眠る前にそれをされるとその後は大抵目が冴えて眠れなくなってしまうから、歩遊もほとほと困り果てている。 俊史が何を考えているか分からないから、どうして良いか分からないから、ただ黙って受け入れてはいるけれど。 この行為がさすがに「おかしい」とは歩遊にもよくよく分かっている。 「歩遊」 けれど「何故」と考える間もなく、それこそ朝起きた時や学校へ行く前、帰ってきた時、夜居間で寛いでいる時などなど…その他、学校でも外でも、俊史は人気のない隙をついては、すかさず歩遊にキスをしてくるものだから。 歩遊は何も言えない。逆らえない。 そして実際仕掛けてくる俊史の方でも、一切それについて言及しようとしない。 絶対的に、妙な事態だった。 「歩遊…こっち見ろよ」 ただ、キスの時は殆ど何も喋らない俊史が本当に時々歩遊に何かを要求した。息をちゃんと吸えとか俺にちゃんと掴まっていろとか。口を開けとか舌出せとか。それはその時々で違うのだけれど、そう声を出す時の俊史は大抵凄く熱っぽかった。 だから歩遊も余計にドキドキとして何も言う事が出来なくなった。ただ俊史の言う通りにするしかないと、ただそれだけを頑なに思うのみだった。 「お前さぁ、今日も太刀川のバカと話してただろ」 「え」 夕食後、俊史がソファに座って実に器用にするするとりんごを剥くのを隣で眺めていた歩遊は、突然そんな話を振られてすっかり面食らった。今日は一度も怒られていなかったのに、最後に大きいのがきてしまったと思った。 「う、うん…」 「あいつ。部活中のくせして、わざわざ図書室にまで上がってきて、何なの? マジうぜえ」 「ぼ……僕が、窓から、サッカー部の練習見てたから……」 「見てた事に気づいたのは向こうだろうが。それとも、お前が声に出してあいつを呼びでもしたのか」 「し、してないよ」 「なら、あいつが勝手に来たんだろ」 「………」 珍しく歩遊は責めずに太刀川だけを悪者にするように言って、俊史は四分の一に切ったりんごを歩遊にさっと差し出した。反射的にそれを受け取り、その3秒後、歩遊は慌てて「ありがとう」と言ってからそれにかぶりついた。甘酸っぱい、それはとても美味しいりんごだった。 「で? 何の用だったんだ」 「え?」 「太刀川のバカだよ」 「あ……よ、耀君、午後から紅白試合やるから、グラウンドまで観に来ないかって」 「………ふうん?」 「いっ…行かなかったけどっ」 「別に訊いてねえよ」 それは歩遊が観戦を断った事を事前に知っていたからに他ならないのだが、それでも俊史は回りこんで余計な勘繰りをした歩遊を嘲笑し、すっかり剥き終わったりんごを皿に乗せ、手の中のナイフはそのままに淡々と続けた。 「歩遊。あんまり何回も言わせるなよ。あのバカには極力近づくな」 「………」 「分かったな」 それは別段凄んでいるのでも、怒っている風でもなかった。 ただ凶器を手にしている分、いつもよりも迫力はあったかもしれない。歩遊はごくりと唾を飲み込んだ後、声には出さないまま黙って頷いた。最近の俊史は何故か太刀川をヒステリックに怒る事はなくなっていたのだけれど、どちらかというとこういう風に静かに窘められる方が慣れていないから、歩遊には怖いものだった。 「何見てんだよ」 それを俊史も素早く感じ取ったようだ。すっと表情を緩めて笑みを浮かべると、俊史はがしゃんと乱暴にナイフをテーブルの上に落とした。 「あ…っ」 それからおもむろに近づいて歩遊の唇をまた奪う。 意表をつかれて、歩遊は手にしていたりんごを落としてしまったが、俊史はそれを咎めるでもなくちゅっちゅっと啄ばむようなキスを繰り返した後、がばりとソファの上に歩遊を押し倒して、じっと突き刺すような視線を落としてきた。 「……俊ちゃん?」 何だか恐ろしくなって歩遊が不安そうに呼ぶと、俊史はすうと目を細めてから「バカ」とまた言った。 そして今度は、どことなく寂しそうな顔をした。 「お前は俺が何をすると思ってんだよ」 「え……」 「別に……取って食いやしないだろ」 「う…うん……?」 「キスしてるだけだろ」 「うん…」 急いたように出される言葉に歩遊も合わせるようにしてすぐ答えた。 すると俊史はぐいと顔を近づけてもう一度と言う風に、けれど今度は軽くない吸い付くようなキスをして、もう一度歩遊をじいっと見つめやった。 そして訊いた。 「嫌か? 俺にこうされるの」 「え……」 「嫌かよ?」 「い……う、ううん……」 別に脅されていると感じたからではなく、「本能」で歩遊はそう応答し、首を横に振った。ただその後の言葉を繋げようと口を開いたものの、何故かそこからは音が出ず、歩遊は困ったようにただ首を振り続けた。 「ふ……変な奴」 すると俊史はそんな歩遊を心底可笑しいという風に笑ってぐしゃぐしゃと髪の毛をかき回し、それから酷く優しい所作で歩遊の頭を撫でた。 「……俊ちゃん」 だから歩遊は、「それは凄く嬉しい。好きだ」と思った。 「俊ちゃん」 「ん…」 だから歩遊はその後は平気だった。 「僕…い、い、嫌じゃ、ないよ…?」 だからちゃんとそう答えられた…つもりだった。思ったよりも声が小さ過ぎて俊史にきちんと聞こえたのかは定かでなかったが。 「歩遊」 「うんっ…ん…ふ……」 けれど俊史がいつもと同じように歩遊を呼んで深い口づけを始めた事。しきりに頭を撫でてくれて、上気する頬もその冷たく大きな手のひらで包んでくれた事で。 歩遊は途惑うし「分からない」のだけれども、でも「平気」だし、「怖くない」と思った。 「俊ちゃ…俊ちゃん…っ」 分からないのだけれど、2人でするそれは「好きだ」と思った。 |
了 |