夕刻前に帰ってきた俊史に歩遊は驚きながらも、台所から「お帰り」と小さな声で出迎えた。香月が帰った後もう一眠りし、ようやく動けるようになった為、せめて米研ぎくらいしようと台所に立ったばかりだった。 「今日…早いんだね。役員の仕事なかったの?」 「バカが来たのか」 「え…」 「あの香月のバカが来たのかって訊いてんだよ」 俊史は香月の予想通り、見事に機嫌が悪かった。携帯に連絡が入らなかった分、香月の思い過ごしで良かったと結論づけていた歩遊は思い切りたじろいでしまった。 けれど、そう。これも香月の言う通り。歩遊は俊史に嘘などつけない。 「き、来たよ。先輩…僕の事、心配して」 「中に入れたのか」 「………」 「どうなんだ、歩遊」 「…うん」 制服を脱ぐ事もせず、ただ歩遊の正面に立って詰問してくる俊史。互いの距離は何メートルもあったが、歩遊には息苦しくて仕方がなかった。 何故俊史は怒るのだろう。 まともに訊いた事はなかった。ただ、俊史は歩遊が俊史以外の人間と親しくすると猛烈に怒って、何があったのかしつこく訊く。香月や耀はそれを「異常なヤキモチ」だと言うけれど、歩遊自身はそれをそういう風に受け取った事は一度もなかった。物心ついた頃から掛けられていた「暗示」のせいもあるし、他にも理由は色々ある。 「歩遊」 はっとして顔を上げると、いつの間にか俊史がすぐ近くに来ていた。 そして考え込んでいたような歩遊を探るように見つめ、相も変わらず冷厳な声でぴしゃりと言った。 「お前って俺の言う事聞く気ないだろ」 「え…」 「あいつとはニ人きりで会うな。家にも入れるな。何回言った、俺は。お前に」 「……何回も」 ぼそりと答えると俊史は暫し沈黙した後、嘲笑うようにして踵を返した。 急に視線がなくなった事に安堵よりも危機感を覚え、歩遊はぎくりとしながらそんな俊史の背を見やった。 「俊ちゃん…?」 「バカとは口きけねえよ」 「え…」 「それとも、理解してて敢えて無視してんのか、お前は。俺の言う事を?」 「だ、だって」 「だって、何だよ」 「どうして…いけないの」 やっと勇気を振り絞りそう言うと、俊史は振り返ってそんな歩遊を見やってきた。 それにまたどきりと胸を鳴らした歩遊だったが、言うならば今しかないと、そして昼間香月に言われた事を胸に抱きながら、歩遊は精一杯大きなはっきりとした声で俊史に告げた。 「どうして先輩と二人で話しちゃいけないの」 「お前、話したいのか」 「は、話したいよ…。先輩は…優しいし…」 「好きなのか」 「す、好きだよ。勿論」 「………」 「で、でも!」 必死に顔を上げ、歩遊は真摯な表情で俊史に訴えた。 「勿論その好きは…俊ちゃんに向けて思う好きとは違うよ。僕は…僕は、俊ちゃんの事が一番…一番、好き…」 「……なら俺の言う事きけ」 「俊ちゃん…」 「お前があいつの事を何とも思ってなくても、あいつはどうだか分からないだろ。だから俺は言ってるんだよ。俺はお前の為に言ってやってんだ」 「そんな…そんなこと」 あるわけがないと言いたいのに、単純に俊史の早口についていけなくて歩遊は口ごもった。同時、昨晩あんなに怒っていたのは、もしかしなくても放課後図書室で俊史を待ちながら香月と談笑しているところを見られたからだろうかと思い至る。 あの時も「何回も言わせるな」と叱られた直後だった。 そう、言われたばかりだったのに、香月に会ったその瞬間、歩遊は俊史の言を忘れたのだ。図書室で一人待ち続けるのは退屈だったし、香月とのお喋りは嬉しくて楽しいものだったから。 でも…。 「お、おかしい…」 歩遊は思わず口に出して言っていた。 「何だよ」 俊史がさっと眉を吊り上げる。反射的にびくんと肩先が揺れたが、それでも歩遊はごくりと唾を飲み込んでからぐっと視線を上げた。 「どうして話しちゃいけないの」 「……しつこいぞ歩遊」 「だ、だって…っ。なら、耀君だって。香月先輩だけじゃなく、どうして耀君とも喋っちゃ駄目なの?」 「全く同じ理由だよ。何で分かんないんだよ、そんな事が」 「分からない…っ」 「……歩遊」 初めてしつこく抵抗する歩遊に、俊史もますます眉間に皺を寄せ、より一層の怒りを面に出し始めた。 それでも歩遊は止まらなかった。この一ヶ月で燻り続けていた事がここへ来て一気に表出してきたようだった。 「俊ちゃん…俊ちゃんは、僕を何だと思ってる…?」 「何だよそれは…」 「いつも怒って…いつもいばって…。僕を縛ってばっかりだ…っ。僕だって学校行きたい…! 耀君たちとだって仲良くしたいのに…!」 「……っ」 俊史が息を呑んだのが分かった。どこかたじろいだ風なその仕草に歩遊は心内で狼狽しつつ、それでもその勢いに乗って声を荒げた。こんな事は初めてだった。 「俊ちゃんばっかり! それで僕ばっかり怒って!」 「歩遊」 「どうして…どうしていつも怒って―」 「ああそうかよ! なら勝手にしろ!」 歩遊に逆らわれた事がないから、どう返して良いか分からなかったのだろう。 叩きつけるような怒鳴り声を上げると、俊史は手にしていた紙袋を思い切りその場に投げ捨てた。何かがぐしゃりと虚しい音を立てるのを歩遊は聞いた。 「ならもうお前には何も言わねーよ! お前は俺がいないと駄目なくせに! 俺が護ってやんなきゃ何も出来ねえ危なかっしい奴だから、だから構ってやってんのに! もうどうとでも好きにすればいいだろっ! 俺はもう一切知らないからな!」 「……っ」 「その代わり俺も好きにするからな! 文句言うなよ!」 俊史は今までとて好きにしていたくせに。 そんな反論の意もあったが、この数秒間で一生分のエネルギーを消費したせいか、この時歩遊は全身から血の気を失ったまま、何も言葉を出せなかった。 その上、もしや俊史に見捨てられてしまったのだろうかと、どっと後悔の念に晒される。俊史の過干渉は目に余るものがあるし、このままではいけない、絶対におかしいと頭では確信しているけれど、仮にそれが全くなくなるという事は、歩遊にとっては命綱がなくなるのと同じ事でもあった。 いつもいつも歩遊は俊史の言うように動いていたから。 それ以外の生き方を知らない。 「しゅ…俊、ちゃん…」 思わず、ごめんと。 そう言いそうになり、けれど歩遊はぐっとして堪えた。 いけない、これではまた同じになってしまう。 泣きそうになる想いを必死で我慢し、歩遊は荒っぽい足取りで二階へ駆け上がった俊史の足音だけをただ聞いていた。 リビングには俊史が買ってきてくれたらしい有名店のケーキの箱が袋の中で思い切り逆さまになって転がっていた。 |
「僕らの病は1週間で」より一部抜粋 |