「蝉噪」
玖葉瑞紀 様 作



  それは偶然とも必然とも呼べる、とても曖昧としたものだった。


  ひどく暑い夏だった。
  気象庁は毎日のように観測史上過去最高気温だと告げ、空梅雨の名残か、湿度が高く蒸している。記録的だと言われる連日の熱帯夜。誰もが安眠できないまま朝を迎え、疲れのとれない体を引きずって、炎天下へと足を踏み出す。
  八月に入り、熱さは最高潮に達しようとしている。世間的には夏期休暇と称される日、龍麻は重い足取りで図書館へと向かう。
  空調の効いたマンションを出れば、熱気が渦になって彼を襲い、湿った空気が肌にまとわりつく。シャツの袖口から、裾から、隙をついて入り込んでくる。
  正午前だというのに、太陽は十分に高い。容赦ない陽射しを放って彼の頭頂部を灼く。露出した皮膚を焦がし、血を沸かせる。息を上げる彼は、にじみ出る額の汗を拭い、ハンカチではなくタオルを持ってくるべきだったことを悟った。
  本能に従って日影を選んで歩いていても、湿気からは逃れられない。直射日光だけはわずかに遮られるものの、蒸し暑さは変わらず、気休めに過ぎない。
  木陰は高温多湿を餌にしているような虫のすみかで、けたたましい鳴き声が降りそそぐ。自然、彼の不快さも助長される。
  そんな夏だ。
  坂の上のある図書館へ向かって、龍麻はゆっくりと歩いていく。この暑さのせいで、実際以上に傾斜がきつく感じられ、足が重い。焼けたアスファルトを靴底でこするような足取りで、坂を登っていく。
  こんな日に出歩くのは酔狂で、人気は少ない。日傘を差した初老の女性が、レースのハンカチで額を押さえながら、彼とすれ違う。ガードレールの向こう、トラックが暑苦しい排気ガスを撒き散らして通り過ぎる。

  敷地を取り囲む塀に沿って歩く段になって、彼はほっと息をつく。
  歩道の両側から巨木の枝が伸びて、トンネルのように長い影を作っている。街路の桜並木の向かい、塀の内側からも欅がせり出している。欅の枝葉は桜にかぶさって、二重の影は厚い。隙間がほとんどなく、足下の樹影には光のちらつきも見られない。
  光合成のせいか、太陽光線を遮るだけでなく、木陰の空気は澄んでいる。かすかに緑の香りがする。生あたたかい風が枝を揺らし、涼しげな音が響く。束の間、暑気を払って涼を運ぶ。
  風を合図のように、一斉に虫が鳴き始め、彼は足を止める。鳴き声に耳を傾ける名目で、しばらく体を休める。数歩先の角で街路樹は切れており、あの陽射しを思うと、影から出るのは気が重い。彼は目を伏せ、力なく両腕を下ろして塀にもたれる。
  辺りはひっそりと静まり、車さえ通らず、およそ虫以外に生の気配がない。佇む彼に不審の目を向ける者もおらず、枝葉と蝉の声に包まれて風を待つ。
  呼吸が落ち着き、上昇していた体温が平熱近くまで戻る頃、龍麻は一つの影が木陰に入ってきたのに気がつく。
  小脇に抱えたファイルケースが汗で滑り、慌てて持ち替えながら、何の気なしにそちらを見上げた。

「「あ……」」

  二人の声が面白いように重なる。そして揃って笑みをこぼす。
  高校卒業後、すぐに海外に渡った者の一人、村雨祇孔がそこにいた。
「 ───久しぶりだな」
「 あぁ」
  龍麻の言葉に頷いて、村雨は彼に並んだ。青々とした葉桜の低い枝を見やって、疲労のにじむ息を吐く。
「 いつ日本に?」
「 ついこの間だ」
「 ますます年齢不詳におなりになって」
「 そういう先生はどこぞのお坊ちゃんみてぇだな」
「 高校卒業すぐに高飛びしたヤツと違って、俺は真面目な大学院生だからな」
「 高飛びって……」
  おいおい……、と苦笑を浮かべる村雨の姿があの頃の彼とだぶる。思わず、目を逸らした。
「 それで、こんなところでどうした?あっちで借金でもつくって逃げてきたのか?」
「 んなわけねぇだろ」
「 じゃあ何だ?」
「 さぁてね」
  幹にはどれほどの蝉がとまっているのか、鳴き声に耳を塞ぎたくなるほどだ。
「 先生は?」
「 ん? 俺、が何?」
「 このクソ熱い中、何でこんなところにいるんだ?」
「 ああ……。俺は、これ」
  持っていたファイルケースを軽く掲げ、半透明の部分から本の表紙を村雨に見せる。
「 夏期休暇中の論文のためだよ」
「 真面目だな」
「 まぁな」
  両側からかぶさる木々の上で、蝉は騒々しく鳴き続けている。会話が途切れた彼らの間の沈黙をまぎらわせる。いや、逆に際立たせているのか。耳を聾せんばかりの鳴き声が頭上から降り注ぐ。限られた命を振り絞る迫力で、腕のように伸ばされた枝葉ともども蝉の声が彼らを包み込む。
  しかも鳴き声は、徐々に高まっていく。少数ながら、蜩の声も混じる。
  蜩には晩夏のイメージがあり、今年は随分早いと高枝を見上げる龍麻の耳の奥で、蝉と蜩の声が重なり合う。深い影を落とす木々に囲まれ、鼓膜の向こうで木霊する。
「 ……変わらねぇな」
  村雨を見上げると、その視線は龍麻に向けられていた。何に対してのことなのかそれで悟る。
「 同じ人間だからな」
  ふっと笑みを浮かべて言う。
「 連中とは連絡取ってんのか?」
「 まあたまにはな。お互い忙しいから頻繁には出来ないけど」
「 そうか……」
  呟き、胸ポケットから煙草を取り出す村雨を龍麻が制する。
「 この暑い中、火なんか見たくもない」
  心底嫌そうに告げる彼に、村雨は肩をすくめ煙草を戻した。蝉の声はまだ止まない。
「 まだ……」
「 え?」
「 まだやってんのか?」
  問いかけながらファイティングポーズをとる村雨に黙って首を振った。横に。
「 続けろと言われたけど……」
「 もったいねぇなぁ」
「 もう必要ないことだし」
「 ────」
  村雨は何かを言いかけ、口を閉じ、両手を頭の後ろで組んで塀に寄りかかった。
  燃え尽きる前の蝋燭にも似た蝉たちの声に耳鳴りがする。頭の奥に響く鳴き声に不快気に眉をひそめる。
「 ……変わったな」
「 ……あれから何年経ったと思ってんだよ」
  幾重にも音量を増していった虫の音は、しかし唐突に止まる。申し合わせたようなタイミングで、一瞬にして消える。後には残響が漂うばかりで、これには二人とも驚いた。同意を求めるように互いを見つめる。不穏な予感に辺りを見回す。
  周囲は相変わらず、人気がない。車一台通らず、虫の鳴きやんだ後は、何の気配も伺えない。風すら吹かず、太陽だけが燦々と光を放っている。耳に痛いほどの無音に、龍麻はなぜだかふと、埒もない考えが頭に浮かぶ。
  死に絶えた世界に、村雨と二人きりのような気分になる。
  馬鹿馬鹿しいと、自分に発想に苦笑する龍麻は、またファイルケースを持ち替えた。今まで持っていた腕がじっとりと汗ばんでいたのは決して気候のせいばかりではない。
「 ───じゃあ俺、そろそろ行くから」
  告げて、居心地のいい日影を後にする。

「 先生」

  背後で再び鳴き始めた蝉に重なって村雨の声が届いた。けれど龍麻は振り返らない。

「 俺はアンタに会いに来たんだ」

  ぴたり、とその歩調が止まる。

「 アンタに会うために帰ってきたんだ」

  ホントだぜ、と笑みを含めた声音で言う村雨は、きっとあの頃と変わらない表情をしている。
「 ……言うのが遅ぇよ、バーカ」
  けたたましい蝉の鳴き声に、その言葉が村雨に聞こえたのかは疑わしい。
「 じゃあ、またな」
  振り返らない龍麻の背に告げ、村雨は踵を返す。先ほど止められた煙草を取り出し火をつける。
  遠ざかる靴の音を聞きながら、龍麻はゆっくりと振り返った。


  蝉と蜩の声がわずらわしい夏。
  耳鳴りのする季節、どうしようもないほどの気怠い暑さにさらわれる予感がする。

  それは偶然でも必然でもなく、俺はそれを『運命』と呼びたかった。



<完>

管理人コメント
瑞紀さん、ありがとうです(涙)。あぁ〜いいなあ。私の理想の村主です。村雨はやっぱり「がー!」とひーに迫るタイプではないと思うのです。でもさり気なく熱いという。「アンタに会うために〜」……。ああ、めっちゃくちゃカッコいいです! でもってひーがこれまたかなり素敵だし。そして何にも増して、瑞紀さんのこの滑らかな文章が!じりじりとする夏の温度をも感じさせるではありませんかっ。
こちら、瑞紀さんのサイトで「キリ番取った」と言い張って戴いてしまった村主です。瑞紀さん、シビれる2人をどうもありがとうございましたー!