爪切り

みさき 様 作



「 …っ」
  微かに息を呑んだ声がした。 

  如月は、ちらりと店の方に視線を向ける。
  そこには、余ったアイテムを処分に来たついでに、仲間の装備を物色していた彼の主が居るはずだった。

  案の定、今の声は彼の発したものだったらしい。自分の指先と、持っていた短刀を、額に皺を寄せて見比べている。
  少し驚いた表情はしているが、怪我をしたようではない。
  短刀も鞘から抜かれた様子はなかった。
  そう見て取って、如月は龍麻には聞こえぬようにほっと息を吐いた。
「 どうしたんだい。何か声が聞こえたようだったが。…まさか君、何か壊したんじゃないだろうね」
  一瞬の心配を隠して、わざとそっけない言い方をする。
  自分が、どれ程彼を大事に思っているかを、龍麻自身に知らせるつもりなどないのだ。
  …本当は、かすり傷ひとつだって胸が痛むのだけれど。

  だがそれを彼に言うことはしない。
  理由の一つは、彼が黄龍だからだ。
  玄武である自分は、彼を護りつつも闘いの中へ導かねばならない。それは彼にしか出来ない事で、個人の感情だけで彼を安全に囲い込むことは許されない。
  そうしたいという衝動をふり払うように、軽くかぶりを振って店へ下りる。
  龍麻は、如月の邪険とも取れる態度には頓着せず、くすくすと笑って言った。
「 そんなに心配しなくても大丈夫だよ、何も壊してないから。この象嵌のとこにちょっと指先引っ掛けただけで、俺のほうも爪の先が欠けただけだし。…あ、でもこの端っこは切っといた方がいいかも」
  親指で爪の先を撫でながら聞いてくる。
「 翡翠ー。売り物じゃない爪切りある〜?有ったら無料で貸してー」
  …言いたくない理由のもう一つは、彼のこの言い草だ。



  全く、人をそこまで見境いの無い守銭奴だとでも思っているのだろうか。
  別に商売人としての経済感覚を否定などしないが、蓬莱寺辺りにならともかく、こと彼に関する限り、実際そんな真似をした事など一度もない自信がある。例え口では何と言おうと。
「 …爪切りのひとつぐらいあるよ。君じゃあるまいし」
  やや憮然として、引き出しから小さな爪切りを出してやる。
無かったら自分の爪だって切れないだろうと言うと
「 え!翡翠も爪とか普通に伸びるんだ!」
「 ……君は一体、僕の事を何だと思ってるんだ?」
「 やーごめんごめん、翡翠の事だから、爪くらい自分の意思でのびないように出来るかと思ってた。ほら忍者だし」
  …どうも世の人の頭の中には忍者に関して多大な誤解が蔓延っているようだ。どこかの金髪バンドマンだけじゃ無かったらしい。
  流石に本気で憮然とした様子が伝わったのか龍麻は慌てて話を逸らした。
「 そ、そう言えばさ。今って夕方かな、夜かな」
「 さあ…今の時期だと明るいから微妙だけど、時刻としてはそろそろ夜かな。…ところで、何でそんなこと聞くんだい」
「 え、だって夜中に爪切りすると親が死ぬ、とか言わなかったっけ」
  微妙に違う。
「 ま、俺にはどっちでも関係ないんだけどさー。親とっくに死んでるし」
  龍麻は何がおかしいのかそう言っていつもの様に笑った。

  彼が、何故そこで笑えるのかは判らなかったが、元より深く突っ込むつもりはない。
  龍麻の両親の死を招いた一連の事件に付いて、如月はそれ程詳しくはなかった。
  だが、彼の母が菩薩眼で、彼らの息子が黄龍の器でなければ、全く違う展開を迎えていただろう事位はよく判っていた。

  だがそれを告げるのは恐らく自分の役割ではない。
  いずれは知らねばならぬだろうその事実を、今の龍麻が知っているのかどうかは定かではなかったが ――― 。

  …多分、知らないのだろうと如月は思った。
  事実上の父親代わりとして見守ってきた鳴滝らの顔を思い浮かべても、そんな事を不用意に龍麻の耳に入れるとは思いがたい。恐らくはその辺りの事情すらも、未だ彼は知らされていない。

  龍麻にとって実の両親とは、人の話に聞かされるだけの繋がりのない『他人』であり、恐らく感覚的には絆の薄いと聞いている養父母よりも、遥かに遠い存在に過ぎないのだ。



「 …それを言うなら『夜爪を切ると、親の死に目に会えない』だよ」
  疲れた様子を装って訂正する。
「 何だよ、そんなに違わないだろ?」
「 大いに違う!…大体、それじゃ意味が通らないだろう」
  思わず本気で眉間に皺が寄った。
「 え?何だよ意味って。これって単に迷信とかじゃなかったのか? ―― あ、まさか呪術とか!」
  …君との会話はいつも新鮮だよ、龍麻 ―― 。
  如月は、溜息を吐きつつ説明を始めた。



  そもそも、物事を現代の東京を基準に考えるから判らなくなるのだ。
  ことわざ、故事成語などと言うものは、その言葉が成立した時代を背景にしてみなければその本当の意味は判りはしない。

  例えば―― そうだな。江戸時代の夜を想像してみたまえ。
  月や星は今より余程よく見えて明るいだろう。
  だが、電気はない。人に作れる唯一の明かりはただ火、のみだ。
 
  表を照らす人工の灯りとしては、手に入るのはまず提灯だろうな。
  もっと強い光が欲しければ篝火でも焚く以外にはない。一般の家の中でなら、行灯、油皿、蝋燭立てといったところか。
  …君は実際にそういう灯りを見た事があるかい? とにかく暗いんだ。明かりのすぐ側に居たとしたって、自分の手元だって怪しい。炎は少しの風でも揺らめくし、ふらふらと不安定極まりないものだよ。それに油の質も今より悪いからかなり煙るだろうしね。
  それから、爪を切る道具を考えてごらん。爪切りなんかない。あるのは小刀の類かいいとこ鋏だよ。
  それも、現在使っているような指を通せる鋏じゃない。あれはもっと後で外から入ってきた鋏だからね。
  当時使われていたのは和鋏 ―― ほら、これだ。掌に握って使うから握り鋏とも言う。
  如月は、U字形の先の尖った、内側にある鋭い刃で押し切るようになっている小さな鋏を持ち出した。
  …あ、これ。中学ん時の裁縫箱セットとかに入ってたな、確か。
  如月は頷いた。
  なら、知っているだろう?これは自由自在に何でも切れるというものじゃない。糸を切るにはいいが、固いものを線に沿って切る、などという作業には向かない。爪を切るには、かなり不適当な道具だ。…その癖結構切れ味はいい。
  こんなもので、暗い中爪を切ってみろ。代わりに指を切るのが落ちだよ。
  …指くらいと嘗めちゃいけない。抗生物質も血清もまだない世の中だ。水も殺菌されてる訳じゃない。夏なんかだったら傷はすぐ腐る。手は雑菌も入りやすい。
  壊疽や破傷風は、比喩じゃなく命取りなんだ。
  そういう状況で、自分の手元もよく見えないような夜中に、危険な道具を使って特にやる必要のない作業をしたがる奴の事を何て呼ぶかは…まあ君に判断を任せるがね。
  そんな事をする奴は、まず長生きできないで親より先に命を落とす。

「 親の死に目に会えないって言うのは、つまりそういう事だよ。当人が、先に死ぬからさ」
「 …そういう、意味だったんだ」
「 ああ。元々はちゃんと理由のある言葉なんだ。こんな、夜でも明るい世界ではその意味も失われてしまうけどね」
  そう何気なく告げて…いつもと相手の様子が違うのに気が付いた。


「 ―― 龍麻?」
  訝るように問い掛けた声に、龍麻は暫く応えなかった。
  親の死に目、か…。
  小さな声での呟き。
「 なあ…親の、死に目ってさ。そんなに会いたいもんかな」
「 え…?」
「 いや、子供が…親の死に目に会うってのが。そんなに大事なのかな、って…」
「 それは…まあ。親にしろ子にしろ、会えないよりは、会えた方がいい、と思うんじゃないか ―― 多分」
  実質的には実感の無かった反問に、迷いながらも何とか答えを捻り出す。
「 …そんな、ものかな」
「 龍麻…」

「 翡翠はさ、忘れられない事って、ある?」
「 え?」
「 ただ自分が忘れたくない、忘れられないだろうなって事じゃなくてさ。否応なしに記憶に刻み付けられて、忘れることが出来ない事」
「 …龍麻」
「 俺、覚えてるんだ」
  そう言って龍麻は小さく息を吐いた。


  ――― そう、覚えている。

  …今も感じ取ることができる。俺を産み落として息絶えた母親の最期の一息を。親父が遺した言葉が聞こえる。そんな筈はないのに。
  目前に鮮やかに浮かんだその情景を追い払えるかのように眼を閉じ、またすぐに開ける。
  見たこともない何かが『護れ』と言う。
  世界を。人を。この世にある大事なものを。
  それは、俺にしか出来ない事だ ―――― と。


「 龍麻。……君は」
  彼の口元に浮かぶ今までに見たこともない苦い笑み。
  その表情に、如月はかける言葉を失っていた。

  知っていたのだろうか。もしかしたら初めから。

  それが彼の為だと、傷付けるだろう事実から遠ざけた気でいた時にも。真実を自分の心の中にしまいこんで。
  たった一人で、君はいたのか?


  …傷付けない為に、護ってきたつもりでいた。争いを避けさせることは出来なくともせめてそれ以外ではと。
  心ない言葉も、やるせない事実も、彼に傷を刻まないように ―― ましてや自分自身の感情で彼を動揺させることなど。
  けれど。

  如月はぐっと唇を噛みしめた。
  今口を開けば答の解り切った問いを投げ付けてしまいそうだった。彼の気持ちも思いも斟酌することなく。
  だがその様子すら察したのか。龍麻は静かに告げた。

「 ずっと、判ってたんだよ。俺には何かしなければならない事があるんだって。俺は、その為に生まれた…いや、その為に ――― 世界に生み出された存在なんだってこと」


  ――― 龍麻。
「 君は…それで」
  何かを言おうとして。

  如月は、途中で言葉を見失って立ち竦んだ。
  初めから全てを知っていた彼に、何の役にも立てなかった自分が一体何を言えるというのか。
「 …翡翠の、言いたい事は判るよ」
  龍麻はそう言って、今度はいつもの顔でにっこりと笑った。
  …そういえば今まで、彼の笑った以外の表情を殆んど見た事はなかったなと今更ながらに思う。

  結局、心底の感情を表せる程には自分は頼りにならなかった ―― と言うことか。
  如月は、それ以上何を言う事も出来ずに口を閉じるしかなかった。

  …その場に重い、沈黙が落ちる。
  だがそれは、次の瞬間、あっさりと引き破られた。
  龍麻がいきなり噴き出したのだ。

「 っ…何だよその顔っ」
  そう叫んで笑い出した相手に、如月は今までの葛藤を一瞬忘れて呆然とした。
「 …翡翠ってやっぱ結構単純なー。そんな表情してたら、考えてる事まる判りだぞ?」
  龍麻はそう言って如月の顔を見てまた噴き出した。終いには腹を押えながらけたけたと笑う。

  …そうまで盛大に笑われては、流石に深刻になれはしないが。
  如月は溜め息を一つ付いた。
  それを聞きとがめたのか、龍麻は発作のような笑いを収めて言葉を発した。
「 …あのさぁ、さっきも言った通り翡翠の言いそうな事なんて大体判るけど。けど俺の考える事の方はお前にそんな溜め息つかせるような話じゃないし」
  実際、中味聞いたら気ぃ抜けて翡翠怒るかも…。
  あまりにも龍麻がいつもの調子で言うので、強ばっていた如月の口元にも思わず気の抜けた笑みが浮かぶ。正確に言えば微苦笑、とでもいったところだったが。
  あ、笑った、などと言いつつ、龍麻の方もまだ少し笑いながら目元を拭っている。
  如月は何気なくそちらに目を向けてから、思わずはっと見直した。
  その笑みがどこか普段とは違うものに思えたのだ。

  彼は確かにいつもよく笑うが、今の龍麻が浮かべているのはそれとは違う、ふんわりと包み込むような微笑みだった。
  独善と裁かれても仕方のない、自分の先走った思い違いすらも柔らかく受け止める。
  その毅さは、彼が母である菩薩眼の女性から受け継いだものなのかもしれないと如月はふと思った。
  ならば、秘めようとしても隠し切れない撓まぬ瞳は、父親譲りだろうか。
  そうして、若くして短い生を終えた両親の命もまた、彼の中に息づいている。
  恐らくは、彼らはけして不本意な命を強いられたわけではなかった。
  そしてそれは彼自身も同じ、ということ――― なのだろう。
  …自分の一方的な思い込みと思い上がりに本当に赤面する思いだった。無論それを顔に出しはしないが。

「 …杞憂、だったかな」
「 翡翠はいつも考えすぎなんだよ」
  呟くと、すぐさま答が返ってきた。
「 …俺はさ、別に気負うとかそういう事はなかったよ。例え俺がそういう存在でも、両親は俺をただ自分達の子供として愛してくれたんだって知ってたし。それに、一人じゃないって事も判ってた。俺が自分の役目を果たせるように助けてくれる人がちゃんといるんだって ―― いつか会えるって知ってたから」
  龍麻は、そこで一旦言葉を切った。
「 だから、翡翠に会った時すぐ判ったよ。ああ俺を助けてくれるのはこいつなんだな、って。……なのに翡翠そっけなくするしさー。俺よっぽどグレちゃおうかと思った」
  不満を訴えるような口調に反して龍麻の顔は笑っている。
  …けれど、信頼、されていない訳ではない。
  寧ろ、笑えない理由がないからなのだろう ―― 多分。
  そう思うと、如月は胸の裡の温度が上がるように感じる。
  その笑みの下にあるはずの、傷や痛みを知りたいという気持ちが消えた訳では、決してないと思うけれど。

「 ――― ところで、さっきの話さ…俺なりに、考えたんだけど」
  龍麻は笑みを収めて口を開いた。
「 …さっきの話?」
「 うん、あの…親の死に目に、ってやつ」
「 ああ…」
  やや唐突な話題の転換に、まだ少し目の眩む想いで相槌を打つ。龍麻は静かな声で話を接いだ。
「 …親ってさ、多分子供にとって最後の砦なんだよな。他の人間に冷たく当たられてもさ。自分が世間に石を投げられる様な事をしてしまっても、それでも許してくれるだろう、味方になってくれるだろう、って思う人。最後の最後に逃げ込める場所。――― だって親なんだから。自分の存在、命を生み出して、生かしてくれた人なんだから。…この人だけは誰が見捨てても、自分の事を見捨てないだろう ―― 無条件にそう信じられる存在。逆に、この人に見捨てられたら俺はもう死ぬしかない、って心底から思うような…そういう相手」
  ……ま、今どきは、そうとばかりも言い切れない世の中だけどさ。
  龍麻は少し寂しそうに笑ってそう付け加える。
「 でも、その言葉が出来た時代はさ、まだそういう風に皆が思ってたような気がするんだよな。だから、その人の最後の一呼吸までを見届けたい、せめて最期は一緒にいたい、ってそう思ってたんじゃないかなって。親の方だってきっと、最期は側にいて欲しい、って思ってたんだろうし。…それを考えると俺は運がいいのかも」
  ―― だって、両親とも死に目にはバッチリ会えてるし。命を掛けてもらえる程大切に思われて、殆ど最期まで一緒に居られたんだからさ。
  そう言って、龍麻はまた笑った。 

  如月の内に、また、じわりと苦い想いがこみ上げる。
「 …何故、そこで笑うんだ」
  泣いたって構わない筈なのに。
「 っ…泣くなよ、翡翠」
「 別に、泣いてないだろう」
  ただ胸が痛むだけ、苦しいだけだ。
「 ―― 泣きそうな表情してる」
  龍麻はそう言って、困ったような顔をした。
  いつだって、困っているのはこちらの方だというのに。彼はいつも理不尽だ。

  そのまま視線を下ろして黙ったままでいると、ふいに龍麻は諦めたように勢いよく一つ息を吐いた。
  そして、その勢いを借りたように口を開く。
「 あのさ、翡翠。肉体的な保護を必要としなくなった後も、子供が親を求めるのは、無条件に信じられる相手が必要だから、って、さっき俺、言ったよな」
「 …ああ」
  龍麻はその後の言葉を珍しく言いにくそうに少し口ごもった。
「 だからさ…だから。もし、親じゃなくても、もしそういう相手がいれば。要らないんだよ、別に。…どうしても、それが親である必要は無いだろ? だから ――― いいんだよ」


  俺には翡翠がいるから。

  …囁くような小さな声で口早に言われた言葉だったが、それは不思議に如月の耳にはっきりと届いた。

  如月が顔を上げる前に、龍麻は後の方を向いてしまったので、その表情は読めなかった。だが彼の視線が不自然に斜め前方に固定されて動かないのは判る。
  一応、恥ずかしい台詞を吐いたという自覚はあるようだ。

  確かにかなり気恥ずかしい。真情が篭もっていればほど、言った方も言われた方も。
  …だから、頬に上った熱が収まるまで如月は少し待った。そして、いっそ素っ気無い程に何気なく告げてみせる。

「 ―― そうだな。僕も、君がいれば、それでもういいさ」
  そうして伏せていた視線を素早く上げる。

  耳を赤くしたまま慌てて振り返るだろう彼の、笑顔のその下を知りたくて。



<完>

■管理人コメント■
素敵な如主です。中でも龍麻がいいです。これなら皆に好かれてくっつかれ、ついて回られるのも分かろうというもの!う〜ん、確かに龍麻って親を早くに亡くしているから、一見カワイソウっぽく見えますけど(いや悲運なヒーローだとは思うけど)、確かに龍麻自身からしてみたらこんな風に思うかも。皆考え過ぎだよ、俺は平気だよって言うかもです。たとえ心の奥底で何を思っていようとも。そんな龍麻だからまた如月がぐぐっと惚れこんじゃうんだなあ、きっと。如月、一見龍麻を包んでいるようでいて、実は龍麻にめっちゃやられちゃってます【愛】。あと爪切りうんぬん話、親の死に目ってそういう意味があったのですね。龍麻と一緒にへーとか思ってしまった私なのでした。1つ賢くなれてこれまたお得な気持ちが(笑)。
こちら、何とわたくしの誕生日にとみさき様が下さった如主です!久しぶりに珠玉の逸品に出会えた感じ…!みさきょん、胸にくる理想的如主をどうもありがとうございました!