悪魔の甕 龍麻がその日何ともなしに【如月骨董品店】を訪れると、店の入り口に大きな甕がどんと訪問客を阻むようにして置かれていた。 「 翡翠?」 「 ……ああ、龍麻か」 大甕が気になって中に入れずに外から声を掛けると、店の奥から制服姿の如月がすぐに顔を出してきた。どうやら学校から帰宅してきたばかりのようだった。 「 翡翠、これ何? こんな物店の入り口に置いておいたら邪魔じゃないか?」 「 ああ…。だが、仕方ない。どかせないんだ」 「 え?」 如月の苦虫を潰したような顔に、龍麻は不思議そうな顔をして首をかしげた。如月は店の引き戸を思い切り開くと自分も外に出て龍麻の隣に並び、気難しげな顔で目の前の甕を睨みつけた。 「 今、知り合いの古物商が紹介してくれた自称・祈祷師とやらが来るのを待っているんだが。…ふう、しかし訳の分からないお祓いなどが効くのかどうか」 「 ……これ、何か怪しい甕なの?」 「 悪魔の甕だ」 「 あ…悪魔の?」 「 龍麻。とりあえずそれ以上近づかない方がいい。こいつは意思を持った甕なんだ。そして自分に近づく人間に、良からぬ物を見せる」 「 良からぬもの…?」 「 ……そうだ」 「 翡翠、何か見せられたの?」 「 …………ああ」 「 何を?」 「 …………」 しかし龍麻のその問いに、如月は何も答えなかった。そうして「表玄関から入りなよ」と言うと、もうその甕には目もくれずに先を歩き始めた。龍麻は後ろ髪を引かれる思いで怪しげな大甕を振り返り見ながら、それでも如月の後を追って家の中に入ろうとした。 しかし。 ノゾケ。 「 え……?」 龍麻は立ち止まり、声のした方に振り返った。 サワレ。 「 な、何…?」 声は、気配は、その甕からした。驚いて如月を呼ぼうとしたが、しかし彼は既に家の中に入ってしまった後だった。 「 き、気になる…」 甕の誘いにむざむざ乗ってしまう事になるのは分かっていた。けれど龍麻はもうそれを無視する事ができなくなってしまった。 恐る恐るそれに近づくと、龍麻は声のした甕に歩み寄り、その大きな器の一端にそっと触れて中を覗いてみた。 「 う……」 そうしてそのまま、龍麻はその甕の中から伸びてきた見知らぬ「手」に身体を引っ張られ、その場から姿を消した。 「 ……麻。龍麻!」 「 う…ん……?」 一体どのくらい気を失っていたのだろうか。 「 あれ……?」 目を覚ますと、そこは如月の家の客間だった。いつの間にか敷かれていたいつもの泊まり用の蒲団に横になり、龍麻はそこで意識を失ったように眠っていたらしかった。 「 翡翠……?」 目を開いた時には、いつもの和装姿をした如月がいて、龍麻はほっと安堵の息をついた。何やら記憶が曖昧ではあるが、いつものこの場所にいて、如月がいる。だから安心だと思った。 けれど目の前の如月はひどく不機嫌な顔をしてズバリと言った。 「 馴れ馴れしく人の名前を呼ぶな」 そして如月はガバリと勢いよく龍麻に掛けられていた布団をめくると、「一体いつの間に潜りこんだんだ?」と責めるような言葉を吐いた。 「 え…? い、いつの間にって…?」 それは自分自身が知りたい事だが、と思いつつ、しかし龍麻は何やら尋常ではない如月の態度に怯え、しばし声が出なかった。すると如月は余計に苛立ったような顔をして「いいから起きろ」と荒っぽい口調を発した。 「 随分な事をしてくれる。何か勘違いしているようだな。一度抱いてやったから調子に乗ったか。この僕に近づけたとでも思っているのか? たかが器の分際で」 「 だ…って、え…ええ…?」 あまりの事に龍麻はやはり声を失ってしまった。一体如月はどうしてしまったというのだろうか。 「 翡翠…?」 「 だから人の名を気安く呼ぶなと言っている」 如月は再びぴしゃりと言い放ち、すっくと立ち上がると傍に転がっていたらしい龍麻の学生鞄を荒っぽく投げて寄越した。龍麻が茫然としながらそれを胸で受け止めると、如月は冷たい眼をちらと向けてから素っ気無く言った。 「 今日は相手をしてやる気分じゃないんでね。さっさと出て行くといい」 「 出て行くって…?」 「 …………」 未だ要領を得ないような龍麻の困惑した顔に、如月はますます怪訝な顔をした。けれど特に何を言うでもなく、そのまま部屋から出て行ってしまった。 しんとした客間の中、未だ蒲団の中に座った状態で龍麻はしばし茫然としていた。 何かが起きている。 「 ここ…翡翠の家…だよな?」 しかし記憶は徐々にハッキリとはしてきていた。そういえば如月の家に着いた途端、店先にあったおかしな甕に目を奪われた。如月はこれはその人に「良からぬ物」を見せるから近づいてはいけないと言った。けれどその甕が何事か話しかけたものだから…。 「 そうだ、あの甕に何か引き寄せられるようになって…それじゃあ…俺は何かおかしくなってるのかな?」 龍麻は立ち上がるとそのまま急いで店内に行っただろう如月を追った。 「 ……まだいたのか」 如月はいつもの場所で帳簿をつけていたが、背後に立つ龍麻の気配を素早く感じ取ると、思い切り忌々しそうに言葉を出した。龍麻は自分にこんな態度を取る如月がやはり信じられなくて、そして胸の痛む思いがして、傍に屈み込むとじっとその顔を覗き込んだ。 「 ……鬱陶しい顔を近づけないでくれるか」 「 翡翠。今日、何年何月何日」 「 馴れ馴れしく名前を呼ぶなと言っているだろう」 「 何で!」 「 何で…?」 ここでようやく如月はぎっとなったような顔をして龍麻の方を睨みつけた。しかしまるで怯んだ様子のない龍麻に多少意外な気持ちがしたのか、怒りの表情をすっとしまうと静かな目を湛えたまま言った。 「 僕は君が嫌いだからだ」 「 どうして」 「 嫌いな人間にいちいち説明してやるほど、僕は親切じゃないよ」 「 でも俺の知っている翡翠はいつも親切で優しくて…厳しいところもあるけど、こんな態度を取る奴じゃない!」 「 ………君は」 如月は眉間にできた皺をより一層深くして、しかしじっと龍麻の顔を見やった。それから何を思ったのか、不意に龍麻の学ランのボタンをちぎるようにして縦に開くと、そのまま白いワイシャツにも手をかけた。 「 わ…っ! な、何するんだよ…!」 「 貴様…何者だ…!」 「 は…?」 「 お前は緋勇龍麻ではないな…!」 「 は、はあ…? 俺は…!」 しかし如月は龍麻のはだけた胸を見た途端、急に殺気立ったかと思うとがつりと傍にあった刀を取り、それをためらいもなく抜き取った。 「 ひ、翡翠…ッ!」 「 黙れ、龍麻を何処へやった!」 「 だから俺が龍麻だって!」 「 昨夜僕と共にいた龍麻ではない。身体を見れば分かる」 「 な…」 如月の言う意味を咄嗟に理解した龍麻はカッと赤面して後退したが、すぐに間合いを詰められて刀の切先を首先に向けられた。 「 今すぐ言わねばこのまま殺す」 躊躇なくそう言い放った如月にごくりと唾を飲み込んで、龍麻はぎゅっと目をつむった。思えば如月とはいつも顔を合わせているが、京一や壬生といった仲間たちと違い、互いに手合わせ等をした事はなかった。だからこんな風に戦いの顔を間近に見る事もなかったと思う。如月は戦いの時はいつも殺気を消しているので、気づいた時にはもう敵を倒し終わっているなどという事はザラだった。だからいざこうして自分を手にかけようとしている如月を目の前にしてしまうと、見事に身体が竦んだ。 そしてそれ以上に、憎まれている事が悲しかった。 「 何で…俺、龍麻なのに…」 「 まだ言うか…」 「 お前が分かってないんじゃないか…! 俺、龍麻…なんだ。それなのに何で…」 コロセ。 「 な…?」 その時、不意に何処からか声が聞こえたような気がして、龍麻は目を見開いた。目の前には、不意に驚いたような顔をした龍麻に意表をつかれたような如月の顔があった。 「 今の…何…?」 「 今の…?」 コロセ。 「 また…!」 それは龍麻の脳にだけ直接響くような声だった。ひどく陰のこもった、それでいて引力のある声。 ソイツハニセモノダ。 声は龍麻が自分の声に反応していると知ると、更に大きな音を出してそう言った。 ヤラレルマエニヤレ。 「 ………」 声は唆すように更にそう言った。 「 何を呆けている…! 龍麻はどこに―」 「 ばかーッ!!」 「 !!」 訳の分からない声と如月の刀を向けたまま発せられる声が重なった時、龍麻は大声を上げていた。瞬間、何かが割れる音がして、同時に自分に覆い被さるようにしてこちらに向かっていた如月の仰天したような顔が飛び込んできた。 「 翡翠のバカっ! お前は俺が俺かどうかも分からないのか!」 「 な…何を…」 「 だから訳の分からない奴にヘンな事言われるんだ! お前こそ翡翠のニセモノだ! 本当の翡翠は何処へやった!」 「 ……この僕に随分な口を…いつもは謙った態度しか見せないくせに……」 「 そんなの知らない! じゃあ、俺はここの住人じゃないんだろ! お前の知っている龍麻と俺は違うって事だろ! だからお前も俺の知っている翡翠とは違う! でも…!」 龍麻は興奮したようになって如月の手にしていた刀を手で払うとそのまま胸倉を掴み、顔を近づけて怒鳴った。 「 たとえお前が…っ! ニセモノの翡翠だって、お前を殺すような真似するか! この俺が!」 「 龍……麻」 「 だって俺は翡翠のこと――!」 その瞬間。 パリンと。 更に何かがひび割れ、砕ける音がした。同時に何処か遠くの方で濁った声の断末魔も。 「 う……!」 そしてその衝撃は徐々に強くなっていき、龍麻は凄まじく身体を揺さぶられ、そしてまたそのまま意識を失ってしまった。 「 ……麻。龍麻」 ふと気づくと、そこはいつもの…如月邸の客間だった。 「 龍麻。大丈夫か」 「 …………」 うっすらと目を開くと、傍には如月の心配そうな顔があった。そうして気がついたような龍麻を見て、ほっとするように安堵の息をつくのが見えた。 「 ……翡翠」 「 近づくな、と言っただろう?」 「 ここ、何処?」 「 僕の家だよ」 「 翡翠は……」 「 ん……」 「 俺の、翡翠?」 「 ………良からぬもの…見えたのかい」 「 ………うん」 ゆっくりと頷いて、龍麻は身体を起こした。如月が片手で支えてくれ、龍麻はその腕に素直に甘えた。 「 ……あの甕は?」 「 あれかい?」 如月はすぐに答えてからすっと背後に目をやって、開いたままの襖越し、粉々になっている大甕のなれの果てを龍麻に顎で指し示した。 「 砕けたよ。龍麻の《力》に、さしもの悪魔の甕も太刀打ちできなかったようだね」 「 …………」 龍麻はふうと息を吐いてから、すっと如月の胸にもたれかかった。そうしてようやく落ち着いたようになって目をつむった。 「 お前…ひどい事言ったぞ、俺に」 「 ……甕が見せた幻だ。同時に、君が僕にそういう一面を疑った証拠でもある」 「 俺? あんな翡翠を想像した事…あったのかなあ……」 「 僕は…どんな奴だったんだい」 「 『たかが器の分際』…だってさ」 「 バカな…」 「 もういいよ」 龍麻はそう言ってから、再びはあと息を吐いてから如月の胸に強く顔をこすりつけた。そうして、先刻の質問を繰り返した。 「 翡翠は…俺の翡翠?」 「 …ああ」 「 ……うん」 あんな幻と幻聴に誤魔化されるような関係じゃないんだからな。 龍麻は心の中でそれだけをつぶやくと、改めてぎゅうと強く如月に抱きついたのだった。 |
<完> |
■後記…龍麻に素っ気無い如月というのを書きたかったんです。本当は大事なくせに邪険にしちゃうというか…。本当は幻とかじゃなくて本当の設定でやりたかったんですけど、どうも龍麻に優しい如月というイメージが固まり過ぎちゃって、そうなってしまいました。今度機会があったら是非に冷たい如月、悲しむ龍麻を書きたいと思います。 |