嘘のような青



  あの日は雲ひとつない晴天で、日差しの強さに僕は多少の目眩を感じていた。


「 参ったな…1時間後か…」
  やっとの思いで着いた無人駅は「駅」とは名ばかりで、線路とひび割れた石のホーム以外は何もない、四方全てを山に囲まれた小さな孤島だった。その孤島を日に何本か通るはずの1車両列車はまだ当分来ないようで、僕は特に座る所も日差しを避ける木陰もないホームに立ち尽くして、しばし茫然としていた。
  再び、軽い目眩を感じた。
  ここ数日、仕事が込み合っていてろくに眠る暇がなかったせいもあるだろう。品物の鑑定自体は僕も嫌いではないからそういった依頼は進んで受けるようにしているが、今回はやり過ぎだったかもしれない。東京を離れ、何を思ったのかこんな未開の土地にまで出向いて知り合いの老翁の世間話までも延々と聞いてしまったのだから。
  それでもどうしてか、僕はこの土地に来てしまった。学校などどうでも良かったし、店も毎日開いていなければならないというものでもなかった。東京にいなければならないという思いもどこかにはあった。けれどその一方で僕は僕でやりたいようにやる…という、どこか子供めいた我がままな気持ちも存在していた。誰かに縛られない、自分で選択した時間というものを過ごしたいと思っていたのかもしれない。
「 ねえ、君」
  だからだろうか。
「 ………?」
「 何処の人? 見ない顔だね」
  始め、そう言って「彼」に声を掛けられた時は、自分の時間に勝手に踏み入ってきた見知らぬ人物という事で、自然警戒したし不快な気持ちになった。
「 …………」
  加えて彼の接近に声を掛けられるまで気づかなかったという事にも、心の中で驚嘆していた。いつの間に。そう思い、けれどそれを表情には出さずに、僕は僕の数メートル横に立っている人物に視線をやった。
「 ……ああ、不躾に声を掛けてごめんね」
  僕が何も答えなかったからだろうか。彼は正面を向いてホーム上から錆びた線路を見やりながら、ふと気がついたようになってそう言った。それからちらとだけ視線をこちらにやり、薄っすらと笑む。長い前髪の奥からこっそりと覗いたその瞳に引き込まれてしまうような気がして、僕は再び身を固めた。
「 俺、緋勇と言うんだ。……この土地の人間だよ」
  未だ何も発しない僕に「緋勇」と名乗った彼は再度柔らかい口調で言うと、今度はようやく僕の方を向いてにこりと笑った。そこには何の害意もなかった。
  ただ、静かで綺麗な瞳があって。
「 ……僕は如月翡翠」
  遂に僕はそう口を開いて、彼と向き合った。
「 翡翠」
  すると彼は僕の名前をつぶやくように呼んでから、今度は実に嬉しそうに笑った。そうしてふっと身体を揺らして踵を返し、ホームから外れた背後の木陰を差して言った。
「 あそこで座って話しない? まだ当分電車は来ないから」
「 …………」
「 もし良ければ、だけど。ここは暑いから」
  彼がそう言って再度笑うと、不意に小さな風が吹いて彼の黒髪がさらりと揺れた。





「 今日はね。俺も珍しく電車に乗ろうと思ってここまで下りて来たんだ」
  彼は駅のすぐ傍にそそり立つ一本の橡の木の根元に腰を下ろすと、僕にも隣に座るよう目で合図した。彼が座った場所からは細い単線が臨めるから、日を避ける意味でも電車を待つ意味でもそこは良い場所と言えた。
「 ……家、この辺じゃないのかい」
  僕が荷物を横に置いてから素直に彼の傍に腰を下ろすと、彼はその様子を眺めながら「うん」と小さく頷いた。
「 ずっと山奥だよ。車がないと不便だね。…まあ、俺には必要ないけど」
「 ……何故だい?」
「 歩けるから」
  あっさりと彼は言った。
「 翡翠も、何かやるよね?」
「 ……何をだい?」
「 武術とか?」
「 …………」
「 ……言いたくないならいいけど、そういうのって分かるでしょう」
「 君は何かたしなんだりするのかい」
  正直、僕は彼が何かに秀でた人物には見えなかった。ただならぬ雰囲気を感じはしたが、所謂戦闘の達人から普段感じられるような殺気だとか洗練された氣だとかは 彼から見出す事はできなかった。
「 俺は自己流。……御祖父さんに時々相手をしてもらうけど」
「 …………」
「 その御祖父さんとは、血は繋がっていない」
「 …………」
「 翡翠の両親はどんな人?」
  一体彼が今日初めて会ったばかりの僕と何を話したいのか、何を考えているのか、正直僕には分からなかった。ただ、そんな彼との会話をどうでも良いとは思わなかった。いつもならこんな風に僕のことをずけずけと訊いてくる人間には冷たくあしらって終わりにするはずなのに、だ。
  だから僕は彼の方こそ見なかったが、目線を前にやったまま素直にその質問に答えた。
「 どんな人かは分からないな。父は僕が幼い頃から異国に行ったきりでちっとも顔を見せないし。母は他界しているから」
「 そうなんだ」
「 君のご両親はどうなんだい」
「 うん。俺は両親とも死んでいるし、それも俺の赤ん坊の頃の事だから。どんな人かは知らないんだ」
  何でもない事のように彼は言った。しかし彼は不意に両膝を抱え込むとそこに自らの顔をうずめ、ぽつぽつと続けた。
「 でも俺はそんな両親に引きずられてばかりだ。俺は俺、親は親、という考え方が許されない。いつでも親の影を引きずって俺は生きていかないといけない」
「 ……何故だい?」
「 それが宿命だから、だって」
「 …………」
「 御祖父さんはそう言うよ」


  ねえ、翡翠。


  そして彼は顔を上げると僕の事をまじまじと見つめて真剣な口調で訊ねてきた。
「 君は宿命というものを信じる?」
「 …………」
「 君には生まれながらに定められた…何かがある?」
「 ……何故そんな事を訊くんだい」
  一拍置いて僕はようやくそれだけを言った。彼が僕の何を知っているとも思わなかったが、それでもその何事か察したような目に、僕はらしくもなく怯んでいた。
  そしてやはり彼の綺麗な瞳に、ただ力なく吸い寄せられていた。
「 翡翠から…俺と同じものを感じたから」
「 え………」
「 君を見た時、そのまま目を離せなくなったから」
「 …………」
  率直にそう言って僕の事をじっと見つめる彼に、僕は再度返す言葉を見つけられずその場に固まってしまった。そしてやはり僕を見つめる彼から、僕も目を離せなかった。
  じわじわと暑かったはずの気温を全く感じなくなったのはその時で、僕は大樹の根元でしばらくの間、誰もいない無人駅の傍でそうして彼と見詰め合っていた。
「 ………俺はね、この土地が好きなんだ」
  どのくらいそうしていたのだろうか、不意に彼が口を開いた。
「 人のいないこの山が好き。干渉する人の少ないこの町が好き。嘘みたいに真っ青な空のある…この土地が好き」
「 …………」
「 でも、もうすぐここにはいられなくなる。その宿命が俺を大好きなこの場所からいられなくするんだ」
「 分かるのかい?」
「 うん」
「 …………」
「 すごく寂しい。すごく悲しい」
  彼は淡々とそう言って、それからふっと僕から目を逸らし何もない線路へ顔を向けた。また風が吹いた。彼の柔らかそうな髪が再度揺れて、僕は無意識に自らの手をそんな彼の前髪に向けていた。
  どうしてか、彼のその黒髪に無性に触りたいと思った。
「 ………翡翠?」
  僕の所作に彼は驚いたようだったが、逆らいはしなかった。自分の髪の毛に触れてくる僕の手を払う事なく、彼は静かにこちらを向いた。
「 僕は」
  だから僕は声を出しやすかった。他人にこんなに惹かれた事がなかったから、本当はとても戸惑っていたのだけれど。
「 僕も自分の土地が好きだよ。時には腹の立つ人間にも出会うけどね」
「 …………」
「 宿命という言葉も嫌いじゃないよ。……好きでもないけど」
「 そうなんだ……」
「 意外だったかい」
「 うん。でもそうか…やっぱり翡翠は俺と同じなのかな」
「 そうかい?」
「 俺にも…腹の立つ人間はいるよ。押し付けられる宿命にも…壊してやりたいほどの嫌悪は感じない。まだそれが何なのかよく分かっていないせいかもしれないけど」
  そして彼は再びあの柔らかい笑みを向けると、自分の前髪に触れていた僕の手をすっと掴んだ。そうして握った僕の手を見つめてから、「いつか」とつぶやいた。
「 …いつか俺のこの手も、翡翠のこの手も真っ赤に染まる時が来るのかもしれない」
「 …………」
「 でも、その時が来ても…俺は今日の色を忘れたくないな」
  彼の言葉の意味がよく分からず、僕は一瞬怪訝な顔をした、と思う。けれど彼に誘われるようにして不意に見上げた雲一つないその空に、突如キンとした軽い頭痛を覚え、同時に心地よさを覚え…僕は思わず頷いていた。
「 そうだな…」
「 嘘みたいな青」
  そうして彼は僕から手を離し、不意に立ち上がるとその空を見上げて言った。すらりとしたその姿に僕は再度見惚れた。どうしてだろうか。初めて出会ったのに、彼の事を何も知らないのに、僕は彼とはもうずっと以前からの知り合いのような…何かで結ばれた者同士のような、そんな気がした。
「 緋勇……」
「 ん……」
  他人に興味を抱いた事などないのに。
「 名前…下の名前、何て言うんだい」
「 …………」
「 もし良ければ…」
「 龍麻、だよ」
「 龍麻」
「 うん」
  彼は、龍麻はすぐにそう教えてくれた。
  僕はそんな龍麻の傍に近づきたくて、自分も立ち上がると再び彼に視線をやった。龍麻の静かな何かを湛えた目は、真っ直ぐに僕に向けられていた。
  だから僕は安心した。
「 また…会えるね。きっと」
「 うん」
  何の根拠もないのに、僕はこの時龍麻が自分と同じ事を思っているだろう事を確信していた。僕はそんな彼にようやく微笑み返すと、思い出したように、やがて来るだろう、この町から離れる列車の途導をじっと見やった。
  自分の使命もあの街の喧騒も。
  だからだろうか、この時はひどく懐かしい気持ちがした。そして彼との再会が果たせるのなら、こんな自分の宿命も満更ではないなと思った。

「 もし、そういう運命なら……」

  言いかけた言葉は、けれど途中で空に消えた。彼も僕のその後の台詞には興味を示さず、ただ僕と同じ方向を見つめて微笑していた。
  だから僕は先刻まで感じていた、日差しの中で抱いた気だるさと目眩を、この時にはすっかり忘れてしまっていた。



<完>





■後記…この時龍麻、恐らく高校1年生。まだ明日香学園にもいない頃(という設定)です。龍麻の故郷は山に囲まれた海から離れた土地にあって、養父母とその父親(話に出てくる御祖父さん)と暮らしています。基本的に血の繋がらない家族は龍麻に親切ではないんだけど…まあその話はおいおい書いていきたいです。何だかラブでも何でもない話になってしまいました。