異郷



  いつだったかは思い出せない。
  それでも龍麻は学校のない土曜日に、わざわざ如月の家の前にまで来て手を振り言った。
「 俺、故郷に帰ってみる」
  荷物は小さなボストンバッグ1つ。元々着の身着のままで東京に来た事は知っていたが、それでも久しぶりに帰る郷里なのだから、土産の1つも持って帰ればよいだろうに。
  そう思ったが、龍麻がただにこにことひどく嬉しそうな顔をしていたので、如月も何ともなしに手を振り、見送った。
  けれど、その日の夜に帰ってきた龍麻は。
  如月の店先に突っ立ったまま「何故入ってこないんだ」と訝る如月に無理して口の端を上げ、へへと空気の抜けたような笑いを見せた。
  そうして。
「 ただいま」
  縋るようにそう言われ、如月は反射的に「お帰り」と返した。
  その時の龍麻はとても哀しそうで、それでいて決して泣かないという目をしていた。
  それ以来、龍麻は故郷の話を一切しなくなった。





  そしてまた、いつもの土曜日。
  やっとやってきた休みの日に何をしていたいと訊くと、龍麻は大抵「翡翠の傍にいたい」と言うので。
  今日も黙って2人、いつもの和室でめいめいが好きな事をして時間を過ごしていた。
  龍麻は自分と一緒にたいと言う割には、この部屋にいると早々に寝てしまう事が多いので、如月自身はもっぱら読書に興じることが多かった。偶にすやすやと安眠を貪る龍麻を見ているだけで陽が暮れてしまうなどという事もあるが、それでもそういう自分を情けないとは如月は自身で思えないでいる。
「 はあ…ッ…」
「 ん…」
  その時、ふと。
  いつものように昼寝をしている龍麻がやや苦しげに寝返りを打った。
「 龍麻?」
  怪訝に思って声をかけたが目覚める様子はない。それでも、嫌な夢でも見ているのだろうか、龍麻はやたらと息を荒くし、何事かをぽつりとつぶやきながら、再びごろりと体勢を変えた。
「 ……大丈夫か?」
  この部屋ではよく眠れる、余計な夢も見なくて済むんだ。
  龍麻はいつも目覚めた後、嬉しそうにそう言ってくれる。多少は龍麻の安心できる居場所でいられるのだろうかと誇らしい気持ちでいた自分。
  如月は目の前でいよいよ青い顔をしてきた龍麻の胸元に触れ、軽く揺さぶってみた。
「 龍麻…龍麻」
「 んぅ……」
  口元で苦しそうな声を出す龍麻。
  逸る思いがして、如月は今度は強く揺さぶった。
  すると。
「 ああ…」
  龍麻はようやく薄っすらと目を開き、夢から覚めたような顔をしてぼんやりと目の前に座る如月の顔を凝視してきた。
「 すまない、起こしてしまった。龍麻があまりにも苦しそうだったから」
「 ………はあ」
  事態が飲み込めていないのか、龍麻はため息とも吐息とも取れる声を出した後、ぐいと額の汗を手の甲で拭き、それからもう片方の手でぎゅっと如月の和装の裾を握り締めた。
  如月が黙ったままそんな龍麻を見つめていると、龍麻はやがて口を開いた。
「 俺……帰れる場所を持ったら…弱くなるって……」
「 何?」
「 昔、言われたことがあるんだ。もっともな話だと思っていたから、俺はあの故郷を切り捨てたし……いや、忘れることはできないけど、でも帰るなって言われたら、帰らないでいられるって」
「 龍麻?」
  意味が飲み込めずに問い返すと、龍麻は不意にぽろりと涙を流して如月を見つめた。
「 でも、お前がいなくなるのは……困るよ」
「 龍麻」
「 俺はこの土地でお前と会ってしまったから…。この異郷は俺を受け入れてはくれないけど、それでいいけど、でもお前は」
「 僕はここにいる」
「 うん…」
  裾を握る手に力が入ったと思った途端、しかしそれはすぐにぽたりと放された。
「 どうしよう…どんどん…お前を、好きになる」
  龍麻はそう言うとはらはらと泣いた。
  ただ無造作に涙をこぼした。
「 好きになる度にこんな気持ちになるのは嫌だ」
「 馬鹿な…」
  僕だってこんなに君が好きだ。
  いつだったか何度もそう言ったのに。最初に好きだと言ったのはこちらの方だと言うのに。
  如月はただ声を押し殺して泣く龍麻を愛しいと思う一方で、この時はひどく憎らしく思った。痛いほどにその手を握ると、龍麻は唇を噛んだまま息を飲んだ。こちらの怒りが通じたのだろうと思った。
  だから迷わずに言った。
「 この縛られた土地で…僕の方こそ君をずっと待っていたのに」
「 ………」
「 聞いているのか、龍麻」
「 ………どうしてこんなに苦しいんだ」
  もう一度、はあと大きく息を吐き出して龍麻は言った。
  うう、と喉の奥で苦しそうな音も漏れた。如月はそんな龍麻を見つめたまま、固く目を閉じると突き刺すように言い捨てた。
「 君は…本当に馬鹿だ」
  それでも向かった手の先はゆっくりと龍麻の髪の毛に触れ、撫でていた。
  龍麻はまたハアと1つ息を吐いた。
「 翡翠…」
  そして龍麻は再び如月に縋るように手を差し出した。絶対に放すなと暗に示されたその指先に、如月は当然だと答えるようにそのままその手を握り締めた。
  そして後は龍麻のその手の甲に。
  如月はそっと自らの唇を押し当てた。



<完>





■後記…最後に暗いのってどういう事ですか。このタイトルで違うパターンの話も考えていたのに〜。