一度はやってみたいかも?
高級住宅街に位置する小綺麗な家のインターホンを鳴らすと、軽やかなチャイム音と共に「はあい」と、何とも可愛らしい声が聞こえてきた。その相手の声に、セールスマン・如月翡翠は一瞬眉をひそめた。
「 どなたですか?」
訊くと同時に無防備にドアを開いたその家の住人は、「警戒する」という事を知らないらしかった。大荷物を抱えた見知らぬ男・如月をキラキラした瞳で見つめる。
「 あ…」
常に「無」の境地を目指し、どんな相手にも自らの商品を高値で売りつける事で名を馳せているトップセールスマン・如月翡翠は、しかしこの時不覚にもすぐに第一声を出す事ができなかった。
この目の前の青年にすっかり目を奪われてしまった為に。
「 えと、何か御用ですか?」
相手は不思議そうな顔をしてきょとんと首をかしげた。如月はそんな相手の所作だけでくらりと目眩を感じたが、努めてそれは顔に出さないようにし、わざとらしく咳き込んだ。
「 ……家の人はいるかな」
「 僕、家の人です」
「 ……お父さんかお母さんは?」
「 旦那さんならいるけど」
「 !!!」
このどう見ても十代にしか見えない青年の口から「旦那」という言葉を聞き、如月は言葉では言い表せないほどの大ショックを受けた。しかしそこは普段から修行を積んでいるセールスマン・如月。何とか平静を保つ事に成功した。
「 だ…旦那さんと言う事は…君は奥さんなのかい」
「 うん。男だけど奥さん」
「 何故…」
「 僕ね、産まれたすぐ後にお父さんもお母さんも死んじゃっていなくて。他所のおうちに貰われて行ったんだけど、その家もとても貧乏だったの。そしたら、僕のお父さんの親友だって言う冬吾のおじさんが僕がかわいそうだからって引き取ってくれたの」
「 ち、父親の親友って事は…年は……」
「 ええ、幾つだろ。40歳くらいかなあ?」
「 ………ッ!」
如月はにこにことそんな事を笑って言うこの青年が信じられず、また顔も知らないがきっとむっつりすけべえに違いないオヤジが許せず、無意識のうちに身体を震わせた。最早何の為にここに来たのかその目的すら忘れそうになりながら、しかし如月は何とか自分に鞭打って冷静な顔をすると、改めて相手の事をじっと見据えた。
「 奥さん、という呼び方は現代では差別と取る人もいるようだから、君の名前を教えてもらえないかな?」
「 え? 僕は別に奥さんでいいよ」
「 でも一応教えてくれないか」←一応って何だよ
「 いいよ。僕ね、龍麻って言うんだ」
「 龍麻……」
「 貴方は?」
「 如月翡翠。翡翠と呼んでくれ、龍麻」
「 翡翠。えへへ…何だか僕、同じ年くらいの人とこうして話すの、久しぶりだ」
「 !!! そ、それは……?」
「 というか、人と話すのが久しぶりなんだけどね。えとね、最近冬吾のおじさん、僕の事家から出してくれなかったんだ。お仕事でおじさんがいない時も、誰かお手伝いさんを家に置いて、僕こうやってお客さんとお話する事もできなくて。でも、さっきお手伝いさんが何か買い物し忘れたっていなくなってね」
「 …………」
「 ? 翡翠、どうかした?」
「 ……いや」
何という幸運。
何という好機。
何という運命の巡り合わせ!!
如月は心の中でそんな事を思いつつ、素早く龍麻を押しやって玄関先に入り込むと、ドアを閉めて硬く頑丈な水の結界を扉にかけた。それから何が起きたのかまるで分かっていないような龍麻を前に向き直り、にこりと笑んで見せた。
「 龍麻。僕はね、夢を売る商売をしているんだ」
「 夢?」
「 ああそうさ。普段はこうやって目に見える物を売ったり買ったりしているんだけどね。ほら、例えばこの猫の置物」
「 わあ、可愛い♪」
「 そう言う君が何百倍も可愛いんだが…」
「 わ、これは亀の置物? これも可愛いねえ。これって高いの?」
いつの間にか玄関先にちゃっかりと座り込んで品物を並べる如月に、龍麻は自分も嬉しそうに座り込むと、無防備な姿で熱心にそれらを眺め始めた。
如月はそんな龍麻に心の中でふっと微笑んだ。
「 ねえ翡翠ってば。これ、高い?」
「 ん…そうだね。どの品物にも歴史や作り手の強い想いが込められているからね。安くはないよ」
「 これ可愛いなあ。これ、欲しい」
そう言って龍麻は小さなミドリ亀の置物を手に取った。如月はそんな龍麻の手をさり気なく包むように握ると、そっと囁くように言った。
「 龍麻…何故君がこれに惹かれたのか、当ててみせようか」
「 え? だってこの亀、可愛い―」
「 龍麻。君はこの亀の置物に自分の夢を託したのさ。この亀の背中に乗って自由な大海原に飛び出したいというね…」
「 え? 何、それどういう意味?」
「 ごまかさなくていいんだ、龍麻。僕が君のその夢を叶えてあげるよ」
「 え? え? 僕、どんな夢あるの?」
いきなり押せ押せな如月に、龍麻は訳も分からずただただ戸惑って困ったような顔をした。けれど如月はそんな龍麻の手を更に強く握りしめると熱っぽく言った。
「 この家から逃げ出したいんだろう。君は自由を欲しているんだ」
「 え………」
「 違うかい」
龍麻は如月に握られた手と自分の手の中に収まっている亀を見つめ、しばし沈黙した。
この突然現れた如月翡翠と名乗る同年代の青年は、何故こうも自分の事を分かっているという風に自信たっぷりに話すのだろう。自分がこの家から逃げ出したい。そんな風に考えていたとは全く気づかなかったのだが。龍麻はただ困惑し、如月を見つめた。
「 龍麻。どうかした?」
「 あ……」
何も答えない龍麻に如月が問う。龍麻は焦ったようになり、それから無理やり如月の手を解くとそろそろと座ったまま後ずさりをし、俯きつつぽつりと言った。
「 …でも…でも僕、勝手に外に出たら冬吾おじさんに怒られちゃうから…」
「 怒られない遠い世界へ僕が連れて行ってあげるよ」
「 遠い世界…?」
「 どうだい、龍麻」
「 どうして翡翠がそこまでしてくれるの?」
心底分からないという風に訊ねる龍麻に、如月は今はもう余裕たっぷりになって笑って見せた。そうして、すっくと立ち上がると龍麻に片手を差し伸べた。
「 僕は君が欲しがったその亀…そのものだからだよ」
「 え?」
「 分からなくても構わない。僕も今の今まで気づかなかったのだから。だけど僕は…ずっと探していたんだよ」
「 翡翠…?」
「 さあ、おいで。僕が君を護ってあげる。僕はその為に生まれてきたのだから」
「 え…っ」
龍麻は驚きながらも、けれどもうそんな如月の手を拒む事ができなかった。
恐る恐るとだがゆっくりと近づき、如月のその手をそっと握った。
「 龍麻。さあ、邪悪な旦那さんが帰って来る前にここを出よう」
「 で、でも何処へ行くの…? 僕、もう随分と長い間ここを出ていないから……」
「 大丈夫」
そう言って如月は更に龍麻をぐいと自分の方に引き寄せると、その腰を抱き、それから甘い口付けをした。
「 ん!」
急な所作に驚いた龍麻が一瞬暴れるように腕を振ったが、如月はそれを簡単に片手で抑えつけてふっと笑うと、更に額にもキスをした。
「 ひ、翡翠…?」
「 龍麻。嫌かい?」
「 う、ううん……。冬吾おじさんのより、すっとしている感じ」
「 ……油ぎったオヤジのキスなど、僕が全部洗い流してあげるよ」
「 あ…っ。ひ、翡翠、くすぐった…」
「 ふふ…可愛いな、僕の龍麻……」
「 やっ…! ひ、翡翠…?」
…こうしてトップセールスマン亀こと如月翡翠は。
人様の若妻・龍麻をひょいと抱え上げると、玄関先に並べた品物はそのままに、さっさとその場を後にした。
後にその家の主、暗殺集団を率いる大ボス「冬吾おじさん」が死にもの狂いで妻・龍麻の奪還を図る事になるが、それはまた別のお話である。
(完)
「 龍麻」
「 はっ!!」
如月が自宅に帰ってきたのは、丁度昼下がりの刻。
得意先との約束があり、早々に学校を引き上げてきたわけだが、居間で何やらごそごそと書物を広げていた龍麻を見つけ、如月は顔には出さなかったものの少なからず驚いた。
「 ……来ていたんだな」
「 う、うん……!」
「 何を隠したんだ、今?」
龍麻は如月が音も立てずに部屋に入ってきた事で、明らかに動揺しているようだった。そして今まで熱心に目を落としていたらしい本を急いで背後に回し、あたふたとしている。
「 な、何でもないよ…! そ、それより早かったんだな、今日は」
「 君こそ、こんな時間に何だい。学校…休んだのかい」
「 え、と…気分が悪くてね」
「 ……どうだか」
如月は冷ややかな声でそう言った後、制服のネクタイを緩めながら、まだ何か探るような目で挙動不審の龍麻を見つめた。それから低い声でつぶやくように言う。
「 隠し事かい」
「 えっ!」
「 君は僕が君に何か言わない事があると怒るくせに、自分は平気で隠し事をするわけだ」
「 そ、そんなんじゃないよ…!」
「 じゃあ、その後ろ手にあるものを出したまえ」
「 だ、駄目! それだけは止めた方がいい!」
如月の台詞に再び尋常でなく慌てる龍麻。如月もいよいよ疑わしくなって首をかしげた。
「 何なんだい。何故、見せられない」
「 ……翡翠、卒倒する」
「 は?」
龍麻の怯えたような顔に如月は益々怪訝な顔をしてから、あからさまに不機嫌な態度を示してそっぽを向いた。
「 僕に見せたくない物なら、わざわざ僕の家で見ないでくれ」
「 ……だって」
「 君はそんな事をして僕が不快にならないとでも思っていたのか」
「 だって! さっき橘さんが置いていったんだ! 突然!」
「 橘さんが…?」
「 !!」
しまったという風に口を塞ぐ龍麻に如月もとうとう我慢ができなくなって、背後に隠されていた本をさっと取り上げた。
「 あ!」
「 ……何だこれは。『昼下がりの如主』。きさしゅって何だい?」
「 知らないっ。知らないよっ! 返して、翡翠!」
「 彼女が君にくれたのかい?」
「 そうだよっ。王蘭で流行ってるんだって! これ第一巻で、まだ続刊があるんだって!」
「 ……龍麻。それで君は何を赤くなっているんだ」
「 知らないよ! 翡翠が悪いんだろ!」
「 ……? 一体何の話―」
「 こんなの書かれて、知らないからな! 俺は知らない!!」
「 だから龍麻、一体何―」
「 翡翠、俺たちの事、橘さんに言ったんだろ! だからこんなの出ちゃったんだよ! 俺だってびっくりで嫌だけど…翡翠の事考えて隠してあげようと思ったのに、そんな風に俺を怒るなんてひどいよ!」
「 龍麻。そうわめかないでくれ、訳が分からない」
「 これ読めば分かるよ!」
龍麻はそう言うと如月が手にした本を自分も掴むと、ばんっと相手の胸に叩きつけた。
「 た、龍麻…?」
「 もう!」
それから龍麻は1人で憤慨し、また1人で再びかっと顔を赤らめると、それをごまかすように何度も如月の胸にその本をばんばんと叩き付けた。
しかし、それからしばらくして。
「 翡翠……」
「 ……?」
龍麻は、ぽつりと言った。
「 でもさ、翡翠…。こういうのも面白いかもな……」
「 ………こういうのって何だい?」
如月が龍麻のその言葉の意味を知るのは、このすぐ後の事である。
本当に完
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