カタコト



 如月が真神学園の門をくぐったのは夕暮れ時。「早く来い」と呼ばれたところで、如月にも学校があるし、店での仕事がある。いくら仲間になったとは言え、「あまり気安くしないでくれ」――とは、思わず口をついて出そうになった本音である。
 それを一歩留めて言わなかったのは……もちろん、彼らの傍には龍麻がいるから。

「何だって?」

 後から知った「宿星」とか「黄龍」とか。そういうものを全て抜きにして、如月は龍麻のことがただ「好き」だった。人付き合いなんて煩わしいと思っていたし、今とてその気持ちに変わりはない。
 でも、龍麻だけは別格。
 気に食わないのは、「そう」思っているのが如月だけではないということ。こうやって平日の夕方、急に召集されても、ほぼ全員が集まってくるのがその良い証拠だ。
「だから」
 そしてその仲間を呼び付けた張本人、赤髪の剣士などはその筆頭だろう。相も変わらず手にした木刀を肩先に載せた格好で、その剣士―蓬莱寺京一―は、改めて皆を集めた理由を言った。
 ―――……を、するぞ。
 それに対し、如月は露骨に眉をひそめた。
 旧校舎ではなく、龍麻たちの教室に連れてこられた時から、おかしな予感はしていたのだ。すでに集っていた仲間たちも微妙に緊張しているし。皆を仕切る蓬莱寺の側の美里や桜井、醍醐も、一様にどこか力んでいる風に見えた。
 そしてその空気を祓うように、蓬莱寺は再度如月に向けて言い放った。
「だから、ジャンケンだよ、ジャンケン。ジャンケンすんだよ。ちょうど如月、お前で最後だ。これ以上遅刻してきた奴に、この闘いに参加する権利はねえ」
「しっかし京一、お前もエグいよな。そもそも皆に通達したの、ギリギリだったろ? 俺サマは近いから間に合ったけど、後で来られなかった連中がこれ聞いたら、キレるぜ?」
 こう言って肩を竦めたのは、最近、如月にもやたら馴れ馴れしい態度を取る雨紋という下級生だった。案の定、雨紋は教室の入口近くに立ち尽くす如月に、「良かったッスね、如月サン! 間に合って!」と立て続け声をかけてきた。
「蓬莱寺」
 しかしそれを軽く無視して、如月は尚問いただした。
「もう一度訊くが……本気で言っているのか?」
「ああ? 本気じゃなきゃ何なんだよ。大体、こんなつまんねェ冗談言うわけねェだろ。俺だって本当はごめんなんだからな、何が悲しくてこんな貴重な任務をジャンケンなんかで決めなきゃならねェんだ」
「任務」
「そうだな、任務だな、これは。最早」
「そうだね!」
 これには醍醐と桜井も同意という風に力強く頷いた。
 そしてそれを付け加えるように美里が言う。
「だって龍麻を護りたいという気持ちは、みんな同じですもの。でも1人しかダメというのなら…公平な道はジャンケンしかないと思うのよ」
「龍麻、どうして1人しかダメなんだ」
 そこで如月はここで初めて龍麻に向かって声をかけた。
 大勢の仲間が3−Cの教室に一同介す中、龍麻はまるで他人事のように、独り、窓際の席でぼうっとしていた。いつもながらに呑気な顔である。戦闘の時は誰よりも隙なく驚くほどの鋭さを見せるのに、こと、こういう時の龍麻は完全なる抜け殻なのだ。何を考えているのか分からない、空を仰ぐその横顔は、この世との繋がりを全く感じさせない儚さがあった。
「龍麻」
 だからこの時の龍麻も如月の言葉にすぐ反応しなかった。2回呼ばれてようやく「え」となり、顔を動かす。視線がやっとやってきて、それからにこっと害のない笑みが零れた。
 不覚にも如月はそれだけで眩暈を感じたのだが――そこは何とか平静を保ちつつ、改めて尋ねた。
「この状況を君はいったいどう思っているんだい」
「ん?」
 少しだけ小首をかしげたが、龍麻は素直に答えた。
「なんか、京一たちが俺の部屋に来るって言うから、それは嫌だって言ったの」
「それで」
「それで? でも、誰かは一緒じゃなきゃダメって言うから、なら1人だけならいいよって言った」
「………」
 如月が思わず黙りこむと、龍麻は少し困ったような顔をして苦笑した。
「俺はてっきり京一たちだけでジャンケンすると思ったんだけど」
「何言ってんのよ、そんなの許されるわけないでしょう!」
「そうだよう、ダーリン! 舞子たちだって、ダーリンのお部屋に入りたいもん! 京一クンたちだけでジャンケンなんて駄目ッ!」
「当然だね」
「OH、トーゼーン!」
 これにわいわいと手を挙げてそれぞれ発言したのは、藤崎や高見沢、雨紋、アランである。彼らの騒ぎに京一が頭を掻きながら、「こうなることが分かってたから、平等に全員呼ぶことにしたんだよ」とぼやいて見せた。
 如月はそれらの様子を一瞥してから、再度龍麻を見つめた。
「部屋に“何か”いるというのは?」
 そう、それがそもそもの原因。
 しかしその「事件」にも龍麻はあくまで他人事だった。
「いつものことだよ。俺は憑かれる性質だから、部屋にもよく何かが来る。別に平気だって言ったんだけどね」
「何を言うか、龍麻! その言い草、あまりに警戒感が足りないぞ。お前は皆にとって大切な存在なのだから、そういった懸念は早急に対処せねば!」
「そうだぞ、龍麻。……だから本来なら、せめて2人はつかせて欲しいものだが」
 暑苦しい図体をさらに暑苦しく燃やしたてて、紫暮と醍醐が龍麻に迫りつつそう言った。
 龍麻はそんな2人に「降参」とでも言うように、小さく両手を挙げて見せたが、それを見た如月にしてみれば、「君たちのような存在が、龍麻に1人だけと言わしめたんじゃないか」と思わざるを得なかった。
「とにかく! じゃあやるぞ!? いいな、お前ら! これ以上、他の連中がやって来ないうちにちゃっちゃとジャンケンしちまおうぜ!」
「負けても恨みっこなしだよ、みんな!?」
 京一と桜井が声を上げてそう言った。するとそれが合図のように、その場にいた全員がしっかと頷き、何故か腕まくりまでして握り拳を作り出した。
「…………」
 如月はそれらのテンションに今イチついていけなかった……が、要は、これは、龍麻の住むアパートに行って、龍麻と一晩共に過ごす「護衛」の選抜ジャンケンなのだ。彼らのように欲望剥き出しとはいかないまでも、「バカバカしい、僕は遠慮させてもらうよ」などと見栄を張れる類のものでもなかった。
 しかしそれで如月が自らの右手を、仲間の輪の中へ差し入れよとした、まさにその時。
「あのさぁ」
 突然龍麻が、すうっと通る声でその群れの輪を掻っ捌いた。
 そして、言った。
「ちょっと思ったんだけど。俺に選ぶ権利ってないの?」
 仲間たちはぐるんと一斉に龍麻を見つめ、それから再びぐるんと振り返って、今度は如月を見つめやった。
 何故って、発しながら指さす龍麻の見る先には、如月翡翠しかいなかったから。





「君の部屋にいるらしい“何か”と戦う前に、彼らに殺されるかと思ったよ」
「はははっ」
 如月のため息混じりの言葉に、龍麻はけらけらと笑って「ごめん」と軽く謝った。
 2人で校舎を出て駅へ向かう。
 途中で「公園寄って帰りたい」という龍麻の要望に沿って、如月たちは新宿中央公園に入ったのだが、すでに遅い時間ということもあってか、辺りは閑散として静かだった。
 如月は自分の横で涼しげな顔をしながら歩く龍麻をちらりと見やった。知り合ってからこの方、この男の考えることはとんと読めない。残酷なのか優しいのか。こういう時は特に思う。自分も含めて、何故誰も彼もが「こんな男」に惹かれてしまうのだろうか、と。
「彼らを振り回して、君は何とも思わないのかい」
 だからつい、訊いてしまった。余計なことだ、言わない方が良いに決まっていることだったのに。
「あそこまで大騒ぎするのもどうかとは思うが…少なくとも、彼らは皆、君を心配して集まったんだ。それなのに、気を持たせるだけ持たせておいて、最後には自分に選ばせろというのはないのじゃないか」
 そうだろうか。言いながら、如月は全く反対のことも思っていた。
 確かに龍麻の言う通り、誰を自室に入れるかを選ぶ権利は、家主の龍麻にあってしかるべきだ。何故、ジャンケンなどというものの結果如何で、人のプライベート領域に入る権利を得られるのか。龍麻の主張も当然と言える。
 しかしそれならば、はじめからこうやって「如月に頼むから」と言えば良かった。
「最初からきっぱり断れば良かったんだ。無駄に皆を集める必要なんてなかった」
「うん」
 龍麻は如月を見ないまま相槌を打った。黙々と歩いている。景色を見ているのかいないのか。もっとも、薄暗い上に冷たい秋風の吹く都会の埃臭い公園に、見るべきものも然程あるわけではなかったが。
「最初から僕だけを呼べば良かっただろう」
 だから如月も特に何を見るでもなく、ただ前を向きながらそう言った。言いながら、柄にもなく心臓の鼓動が早まった。本音で言えば、龍麻が自分を選ぶなどとは露ほども想像していなかった。あの教室で何気なく指を差され、真っ直ぐの視線を向けられた時。瞬間、何かがきゅんと胸に突き刺さったかのような、仄かな痛みに襲われた。と同時に、如月の内には言い様のない喜びも湧いた。龍麻に「選ばれた」――。そのことが、思った以上に誇らしかった。
 けれどその想いとは裏腹に、つまらぬ「説教」が淡々と口をつく。
「何故すぐに連絡してこなかったんだ」
「何故って」
「部屋に何かが憑いたと知った時点で、何故すぐ僕を呼ばなかった」
「部屋に何かがいるのはいつものことだよ。それは俺の日常だから」
「日常」
 反射的におうむ返しをした如月に、龍麻はまた軽い調子で「うん」と返した。
 それからふと、何を見ているのか、或いは「フリ」か。龍麻はすっと指先を掲げると、空気中に浮かぶ「何か」をその爪先に留めるような所作を見せて薄く笑った。
 如月にその「何か」は見えない。
「こんなこと、俺にとっては世間話の一つに過ぎないよ。それなのに、皆が『それは大変だ』って。俺ん家に『泊まりこんで退治しなきゃ』って。そう言い出してさ……で、気づいた時にはもうああなってた」
「………」
「だから別に、ね。わざわざ連絡しようとは思わなかったよ。悪いでしょ、如月クンは、いつも忙しそうだし」
 知り合った当初、龍麻は如月のことを「如月君」と呼んでいた。同じ年だし、そもそもこの龍麻にそんな呼ばれ方をするのに違和感が強くて、如月から呼び捨てにして欲しいと頼んだ。本来なら、自分を誰がどう呼ぼうが、基本的に興味なんてない。それなのに、龍麻に対してはむしろムキになってそう言ったのだ。
 それから龍麻は如月のことを「翡翠」と呼ぶようになったのだけれど。
「そんな遠慮はいらない」
 だからむっとしながら如月はすぐにそう返したのだが、この時の龍麻はまた「でも如月クンは」と言った。
「俺が遠慮しなかったら大変だと思うよ」
「は…何故?」
「………」
 これには、龍麻は答えなかった。薄っすらと笑みを含んだ唇に動きはない。
 如月はそれにひどく急いた思いがして、自然、歩く足まで速めながら、まくしたてるように言った。
「じゃあ何故僕を選んだんだ? 迷惑だと思うなら、誰か別の人間に頼めば良いじゃないか。遠慮する気持ちがあって、あそこで僕を指名するのはおかしくないか」
 無論、如月は龍麻から選ばれて迷惑だなどとは考えていない。全く逆だ、天にも昇る想いで嬉しかった。
 ただ龍麻が腹の立つ言い方をするから、つい売り言葉に買い言葉で返しただけの台詞だった。
「だって」
 すると龍麻の方は、そんな如月へ急にくぐもった声でぼそりと返した。
「だって、来てくれたから」
 同時、龍麻の足はぴたりと止まった。気づかず数歩先に行っていた如月は、はっとなってそんな龍麻を振り返った。口元に浮かんでいたはずの龍麻の笑みは、いつの間にか消えている。怒ってはいない、嘆いてもいない。けれどやはり、何を考えているのか分からない。
「龍――」
 それでもこの瞬間は龍麻の感情の機微が少しだけ読み取れた気がして、如月は仄かに心臓の鼓動を高くした。調子に乗るな、分を弁えろ――。脳内ではそんな想いが必死に駆け廻っている。
 けれどひたすらにこちらを見つめてくる龍麻のその目を、如月は最早かわすことなど出来なかった。
「もし僕が間に合わなかったら……君は、あの場をどうするつもりだったんだ?」
「選ばないよ」
 ここで龍麻は再び微笑んだ。如月がそれを訊いてくれてどこかしらほっとしている風でもあった。
「そしたら、誰も選ばない」
 その返答は実にクリアー。そして、挑むような眼差し。呑み込まれる、と。如月は咄嗟にそう思ったが、必死に平静を装ってその場に踏みとどまった。というのも、こんなにも強大で尊い力を秘めている龍麻が、一方でこんなにも心細そうな顔をするのか、と。こんなにもはっきりと主張しながら、それでいて、こんなにもたどたどしい、カタコトのような単語でしか表せないのか、と。
 そう思ったから。
「それならやはり、最初から僕を呼べば良かったんだ」
 もっと優しく言ってやりたいのに、出来ない。如月は自らの性を恨めしく思いながら、それでもそれを失くすことも出来ずに続けた。
「君は僕に命令できる立場なのだから」
「……だから、言ったでしょ。君がそんなだから、俺は遠慮深い人でいなくちゃいけない」
 龍麻は皮肉気な笑みを浮かべてそう言ってから、子どものような仕草で足下にあった小石をこつんと蹴った。それは数歩先にいた如月の所にまで転がって、ぴたりと止まった。
 如月はそれをじっと見つめながら、「龍麻」と呼んだ。
「僕のこういうところは、嫌か」
「もちろん」
「それでも……何かあった時はすぐに僕を呼んでくれ。そうしてくれなきゃ困る」
「如月クンが、玄武だから?」
「………」
「俺が黄龍の器様だから、かな」
「君だからだよ。僕にとって、君が大切な人だからだ」
「そう?」
「……時々は腹が立つけどね。君はひどい人だから」
「ふ。……うん」
 龍麻は素直に頷いて、それからふうとため息をついた。
 それでも次にはもう如月を見つめて。
「俺はいやな奴で、手に負えない主だと思うよ。でもその分、お前が望む仕事はしてあげようと思うし、皆の役にも立とうと思っているけどね」
 本当に、そう思っているけど、と。
 龍麻はぽつりとそう言って、それから下を向いたまますっと片手を差し出した。だらんと垂れたその指先に力はない。
「…………」
 けれど如月はそれに引き寄せられるまま歩み寄り、その手をさっと取ってから、龍麻の身体全部を抱きしめた。龍麻が逆らわないのを良いことに、勢いのまま、掻き抱いた頭髪に唇も当てた。額に2度のキスもした。
「僕は君のことが愛おしい」
 だから正直にその想いを告げた。
「ひどいなどと苛めてすまない。君を誰かに任せずに済んでほっとしたよ」
「俺も、翡翠が来てくれてほっとした」
 如月の胸に額を擦りつけながら龍麻は言った。
「あのさあ、翡翠」
 そしてそのまま小さな声で、龍麻は。
「俺の中を流れる時間はやたら速くて、恐ろしく遅い。だから、このペースについてこられる人間は、少なくともこの世にはいないと思うよ。それを考えるとさ……ちょっと、まぁちょっとだけ、怖いからさ……あんまり、物事深く考えたくないんだけど」
「……ああ」
「そういう時は、どうしたらいい?」
 龍麻はすっと顔を上げて如月を見やった。前髪に隠れた大きな目がキラキラ光って見える。
 “何か”に憑かれ、それが日常だから何とも感じないと言う龍麻。
 誰も選ばないと言い切り、それでも如月に遠慮すると言う龍麻。
 いやな奴だけど、その分、「主」としての仕事をはするよと、泣きそうに呟く龍麻。
「なら……僕が代わりに考えよう」
 だから如月の中での答えは一つしかなかった。
「龍麻が抱える諸々の面倒事については、僕が全部考えるよ。そういうのは得意なんだ」
「……翡翠が? 俺の代わりに?」
「ああ。ダメかい?」
「……ダメじゃない」
 ああ、感情が動いている。
 如月は龍麻の瞳をじっと覗きこみながら思わず破顔した。
 すると龍麻は急に恥ずかしそうに俯いて、けれど今度は自分がという風に如月をぎゅっと抱き返した。それはひどく強くて痛みすら伴う抱擁だったが、この時の如月には何ということもなかった。
「翡翠のことを考えている時だけ、俺は人間に戻れるみたい」
「ん……」
「いいかな。それで、いい?」
「……ああ、いいよ」
 如月が応えると、龍麻はさっと抱擁を解いて再度顔を上げ、安心したように微笑んだ。
 何だ、この生き物は……その時、思わずそんな感想が脳裏に浮かんで、如月は心内で思い切り苦笑した。確かに龍麻の言う通り、自分と同じヒトというには、あまりに綺麗で純粋過ぎる。今なら、これまで嫌い続けてきた、どんな歯の浮く美辞麗句もどんどんと出てきそうで、そんな自分が如月は我ながら可笑しかった。
 しかし、そんなことをしたら龍麻に思い切り引かれるのは目に見えているので――。
「ところで、龍麻。今日はもう遅いから、君の家じゃなく、僕の家に来ないか。その“何か”の正体を探るのは、夜よりも昼間の方が良いからね」
 しれっとした態度で如月はそう言い切った。そうして、龍麻がそれに何の疑いも挟まず「うん」と嬉しそうに頷くのを、くらりとした想いと共に受け止めつつ、如月はその主の手を握った。
 これはもう離せない、離せるわけがないと思いながら。



<完>





■後記…久々の如主が、付き合う前の青い2人かよ!と。今ツッコミを入れているところです…。アカン〜。でもこういう2人を書くのが楽しいです。この後の亀は腹黒エロになるに違いありません。でもそれに気づかず、懐くひーちゃん^^。嫌過ぎますね。