喧嘩



  如月がイライラしているか否か、そんな事は龍麻にとってはすぐ分かる。以前は周囲の人間が評価する「いつも無表情で何を考えているか分からない」の感想に賛成だったが、今は分かる。即ち、如月は通常の状態では皆が言うところの「無表情」なのだが、怒っていると思われる時は眉間に皺が寄り、端整な口元がほんの少しだけ歪む。
「 言わせてもらうが」
  その如月は畳の上で寝そべっている龍麻のすぐ傍で、まさしく後者の表情をして立ち尽くしていた。加えて偉そうに腕組もしていたのだが、その仕草は大層龍麻の気に食わなかった。
「 誰だって怒るし、僕が怒っているというのは誰が見ても容易に分かる。僕は機械人間じゃないんでね」
「 へえ知らなかった。現代の隠密が作ったアンドロイドだと思ってたのに」
「 龍麻」
「 あ〜煩い煩い」
  ごろごろと畳の上を転がりながら移動し、龍麻は両耳を塞ぎながら如月に背を向けた。いつもの事とは言え、如月は怒った後が長い。龍麻にとっては意味がないと思われる説教を本当にいつまでも続けるので、それに慣れた身としてはほとほとウンザリしてしまうのだ。
「 だったらこんな事しなければいいんだ」
  深く深くため息をついて、如月は龍麻の心を読みながら言った。
「 毎度毎度ウンザリしているのは僕の方だ。龍麻、君はこれでストレスを解消できるのかもしれないが、僕の方はその度にストレスが溜まる」
「 ごめんね」
「 ……何なんだその反省のかけらも感じられない謝罪は」
「 なあ、今回のあれは幾らだった?」
「 ………」
「 幾らなんだって」
  声が返ってこないのが面白くなくて、龍麻は再度ごろりと身体を反転させ、如月の顔を見上げた。嫌だと思っていた腕組が解かれている。如月は棒のように突っ立ったまま、こちらを見ている龍麻の顔を同じくじっとした目で見下ろしていた。
「 翡翠〜」
  甘えた声を出したが、当然のように声は返ってこなかった。それで龍麻は多少むっとしたものの、一方で如月に怒られるのはやっぱり面白いなと不謹慎な事を思った。
「 なあ。幾らだったんだよ」
  少しだけ近寄ってから龍麻は再び訊いてみた。
  いつも龍麻は店の中で「これは高く売れそうだ」、「これは如月が好きそうだ」と思うものをわざわざ選んで壊した。うっかり落としてしまいましたとやる時もあれば、わざわざ本人が見ている前で大袈裟に振り上げて床に叩きつける場合、それと得意の拳でそのまま真っ二つに粉砕して壊す事もあった。何も言わないでこっそり土中に埋めた事もある。お陰でこれは丸1日バレなかった。
  ちなみに今回は庭の池にボチャンだ。お宝は下総の隠れた名家と呼ばれる仁科家に代々伝えられたという宝刀《白鷺》だった。如月が先日知り合いのつてから頼み込んでようやっと譲り受けたという話を裏で聞いていて、早速今回のターゲットにしてみたのである。
  当然の事ながら、今回の如月の怒りは相当のものだった。
「 壷、皿、掛け軸、鎧に兜。今まで色々な物を壊されたけど、今回は酷い」
「 うん。刀はきっと今までで一番怒るだろうなと思ってた」
「 ……だったら寝てないでせめて起きて聞け。人の話は」
  キレる寸前の如月のそう言う声にも、しかし龍麻は起き上がらなかった。依然としてだらりと身体を横たわらせたまま、今や「眉間に皺」どころか身体全身で怒りのオーラを放っている相手をぼうとして見上げる。
  ああ、翡翠が怒ってる。俺に怒ってる。それを自身で認められると心がすっとした。
「 ……龍麻」
  ハアと思い切り息を吐いて、如月は力なく龍麻を呼んだ。どう言おうと、どんな顔をしようと、この足元に転がっている相手が自分などには動じないと如月は自身で分かっていたし、況やそれで安心されているのを見ると、溢れる程に沸き立っていた怒りもたちまちどこへともなく消えていってしまう。これをもう少しでも持続させる事ができれば、龍麻もこの「悪戯」の回数を減らしてくれるかもしれないのに。
「 何だ、もう怒らないのかよ」
  案の定龍麻は言って、つまらなそうに唇を尖らせた。
「 案外呆気ないのな。刀ならいつもよりもっと怒ってぶん殴るくらいしてくるかと思ったのに」
「 ……そんな事できるわけないだろう」
「 何で。物を粗末にする奴は大嫌いだって、翡翠いつも言ってるじゃん」
「 ああ…。それは本当だ」
「 だから俺、翡翠に嫌われる事したよ」
「 龍麻は僕に嫌われたいのか」
「 ううん。俺は試してるだけ」
「 ………」
  平然とそんな事を言う龍麻に、しかし如月は何とも返せなかった。最早ため息も出ない。心の中で軽く舌打ちしたのだが、しかしその忌々しい感情は全て自分自身に向けられたものだった。
  こんな我がままな主を憎らしくも「けれど可愛い」と思ってしまうところが、そもそも自分の症状が末期だという証拠ではないか。
「 本当に僕はどうしようもない…」
  伸びた前髪をぐしゃりとかきあげながら、如月は低く呟き、それからその場に胡坐をかいた。
「 ……本当だよ」
  すると龍麻がまたごろごろと転がってきて、座り込んだ如月のすぐ傍にまで寄ってきた。そうして如月の膝に片手を添えながら、俺こそが怒りたいのだというような目を見せて素っ気無く言った。
「 俺はお前が俺に逆らえないのを見て安心する。でもな、俺は本当はお前と喧嘩がしたいの。お前はそれが分かっていて出来ないだろ。だからむかつくんだ」
「 龍麻、君の言ってる事はめちゃくちゃだ」
「 分かってる」
  でも、と龍麻は一旦切った後、今度はぐいと如月の腕を掴んで強い口調で言った。
「 でもお前だってそうじゃないか。……夜は俺を抱くくせに」
「 ……何だ。嫌なのかい」
「 ううん。ずっとああいう翡翠でいればいいって思う」
「 それはできない」
「 ちぇっ!」
  即答する如月に龍麻は「やっぱり怒っていいのは俺なんだ」という顔を見せてふいとそっぽを向いた。
「 ………」
  如月はそんな龍麻を見つめながら、夜になると恐ろしいくらい弱々しくなって自分に縋りついてくるこの主の白い肌を思い浮かべた。
「 あの刀」
「 ん…」
  だから如月は横を向いてしまった龍麻の腕を引っ張り身体ごと自分の元へ引き寄せてから、軽く抱きかかえるようにして言った。
「 君が一生働いたって返せないくらいの値だよ」
「 …本当。じゃあ今までの最高記録?」
「 そうだな…」
  如月に無理に引き寄せられても龍麻は驚きも逆らいもしなかった。ただ囁く如月の唇が耳元に吐息と一緒に触れてきたのがくすぐったくて肩先が揺れた。
「 ん…っ。そっちじゃない…」
「 ああ…」
  だからそれは嫌だと片手を添えて遮ると、今度は如月は従順に唇を離し、代わりにと龍麻の唇へそれを移行した。
「 んん…」
  くぐもった声でその口づけを受けると、如月は殊の外嬉しそうに龍麻を抱く手に力を込めた。だから龍麻もそれに応えるようにさらに身体を寄せた。
「 ……翡翠」
「 何だい」
  それが終わった後、龍麻がゆっくり目だけで笑うと如月もそれだけで微笑み返してきた。やっぱりもうちっとも怒っていないと龍麻は思った。
「 なら俺、絶対お前から離れられないな」
「 そうだな…」
「 こうやってちょっとずつ身体で返していかないとな?」
「 はは。そうだな」
「 ……肯定すんなよ」
  いつもはバカな事を言うなと言うのに、よほどあの刀は高かったか。そんな事を思いながら、龍麻はもう一度というように目を瞑り、如月からのキスをねだった。如月に怒られた後、こんな風に優しくしてもらうのが龍麻は何より好きだったから。
  そしてその望みは今日もほんの一時も待つ事なく、自らの従者によって叶えられた。



<完>





■後記…喧嘩したくても喧嘩できない、そんな関係は悲しいかもしれない…という考えを覆す程のラブ甘っぷりでした。龍麻は如月だから安心して縦横無尽な振る舞いをし、如月は龍麻だから結局何でも望み通りに怒って、その後は許しちゃう。そんな感じで(どんな感じだ)。それにしても龍麻は完全に子どもですな。好きな人に構って欲しくて悪さするって、君は一体何歳なんだ!?