君と僕の愛し方
「 遅いよ」
駅前の雑踏の中、つぶやくように漏れたその声は、しかし如月にははっきりと聞こえた。
「 ……無茶を言わないでくれ。急に呼びつけられても、すぐに来られるものじゃない」
「 …………」
本当はもう少し優しく言っても良かったのに、ついぶっきらぼうに答えてしまった。あまりにも目の前の自分を見る顔が面白くなさそうだったから。
「 翡翠はさ。俺のこと大事なんだろ」
ひどくだるそうに身体を揺らし、ゆっくりと立ち上がったその相手は、それでも別段表情を変えることなく素っ気無く言い放った。如月が黙っていると、その相手―緋勇龍麻―はすっと視線を逸らしてからぽつりと言った。
「 だったら、俺が呼んだらすぐに来いよ」
「 …………」
最近はずっとこんな調子だ。それでも話しかけてきただけ、まだマシだけれど。
心の中でため息をついてから、如月はやや投げやりな口調で「それはすまなかったね」と答えた。龍麻がむっとするのは分かっていたが、こんな傲慢な態度を取られては、こちらとて素直に優しくはしてやれないと思う。
「 それで今日はどうしたんだい。僕に何か用かい」
「 ………用がなきゃ呼んじゃいけないのかよ」
「 別に。用がないと呼ばないのは君だろ」
「 …………」
龍麻は如月のその台詞で益々むっとしたようになったが、それでもすぐには何も言わず、黙って先を歩き始めた。如月は今度はあからさまにため息をついて、その後を追った。
初めて会った時は、とても儚げな人だと思った。
皆に囲まれ、信頼され、注がれる羨望に値する《力》を秘めてはいたが、それでもそれを自身で受け止めきれていないような弱さを感じた。
だから、自分がこの人を護らなければと思った。
向こうもそれを良しと感じたのか、よく店に来ては他愛もない事を話しに来たり、時には愚痴ったり、こちらを頼るような態度も示してくれていたのだ。
それが、ここ最近変わった。
「 翡翠は何でそうなんだ」
ある日突然龍麻はそう言って怒った。それから一瞬だけ哀しそうな顔をすると、黙って自分の傍を離れていった。何が気に入らなかったのか分からなかった。いつもの通り、店に来た龍麻を迎えて、お茶を淹れた。龍麻の話を黙って聞いて、それから―。
特に何もない。特に何をしたということはない。
それなのに。
「 翡翠」
「 え……?」
はっとして顔を上げると、先を歩いていたはずの龍麻が振り返ってこちらを見ていた。如月が目の前の龍麻をちっとも見ておらず、物思いに耽っていたと気づくと、龍麻はみるみる表情を翳らせて声を荒げた。
「 何してんだよ。さっさと来いよな」
「 ……何処へ行くんだい」
「 いいだろ、何処だって」
龍麻のその横柄な言い様に、如月もカチンときた。
「 冗談じゃない。人を勝手に呼びつけておいて、何処に行くとも言わずただ後だけついて来いって? 君は僕のことを何だと思っているんだ」
「 ………ぅるさい」
「 え、何だい。よく聞こえないな。言いたい事があるならもっとはっきり言ってくれないかな」
「 じゃあいいよ! 来なくていいよ!」
龍麻はたまらなくなったようになって叩きつけるようにそう叫ぶと、後はだっと歩を速めてみるみる如月から距離を取って行った。
「 くそ…っ! 何なんだ…!」
如月は吐き捨てるようにそうつぶやくと、後はもう無意識のうちに龍麻を追いかけていた。
そして同時にふっと、自分たちと同じ仲間の顔が思い浮かんできて、如月は自然と表情が曇った。
「 こんにちは」
彼女が一人で如月の店を訪ねてきたのは、その日が初めてだった。彼女が龍麻たちの仲間として加わったのは本当につい最近のことでもあったから、他の仲間と殆ど接触しない如月などは、直接2人だけで会話を交わした事など無論皆無であった。
「 いらっしゃい。一人かい?」
正直、彼女の名前も思い出せなかった。興味がないと言えば嘘になる。本当はずっと気になっていた相手だった。けれどそんな相手が実際に自分の目の前に現れても、如月は彼女の名前を思い出せなかったのだ。無意識に覚えたくないと考えていたせいなのかもしれない。
如月は当人を前にして、そんな事をぼんやりと考えた。
「 あの……龍麻はいますか」
おどおどとした風に、どこか怯えるような仕草でその少女はすぐにそう訊いてきた。如月が眉をひそめると、少女は慌てたようになって小さな両手を慌てて振った。
「 あ、あの…っ! すみません…!!」
「 ……? どうして謝るんだ?」
自分は彼女に何かしているのだろうか。元々こうやって客商売をしている割には愛想が悪いと言われているから、親しみやすい顔をしているわけでもないのだろうが、それでもここまで怖がられる謂れは無い。
「 あの…あの、いえ、その、ただ私、龍麻がこちらにいるかと思って……」
如月が黙っているのは、自分に対して良い感情を抱いていないからだと彼女は考えているようだった。必死に何かを言おうとして失敗している。悪い人間ではなさそうだ。
それでも、如月は目の前のこの可憐な少女に対して黒い感情を抱かずにはいられなかった。
「 龍麻は来ていないよ。彼は余程の用がない限りここには来ないからね。真神にでも行った方が確実なんじゃないか」
「 あの…行ったんですけど、今日は1人で帰ったって聞いたものですから……」
「 じゃあ家に帰ったんだろ」
「 彼、暗くなるまで家には帰らないって言ってたから……」
「 ………そうなのかい」
そういえば以前、まだ龍麻がよくこの店に来ていた頃にそんな話を聞いたことがあるような気がする。
本当は眠りたくて身体を休めたくて、一人になりたい時でも家には滅多に早く帰らないと言う。
何故かと聞いた時、確か彼は――。
「 龍麻、今はあそこにいたくないって言っていたから」
「 ………」
そうだ。確かに龍麻はそう言っていた。しかし何故そう言っていたのだったか―。
「 あの、如月さん……」
彼女が思い切って自分を呼ぶ声に、如月は反射的に思考を遮断した。
「 如月さん、私……龍麻の傍にいたいんです」
その声は何だか震えているようだった。
「 ずっとずっと一緒にいたいなあって……そう、思っていたんです。だから彼が私をあの世界から呼び戻してくれた時――すごく…嬉しかったんです」
「 ………」
そんな話を自分に聞かせて、彼女は一体何が言いたいのか。如月はそう思ったが、顔には出さなかった。
「 それで…『比良坂さん、もう大丈夫』って。目が覚めた時、龍麻がそう言ってくれて…私、彼のことすごく好きなんだなあって」
「 そうかい」
思わず苛立たしい感情が湧き立って、如月は背を向けた。
好きだとか。
傍にいたいとか。
そんな言葉をすぐに吐けるこの少女は何と純粋で。
残酷な存在なのだろうか。
「 だから…ずっと彼のこと見ていたいなあって。そう思って」
「 見ていればいいだろう」
自分でも驚く程冷たい声が出てしまった。けれどそれを悪い事だとは思わなかった。
けれど、もう当に彼女から背を向けているそんな自分に彼女―比良坂―は初めてきっとした声を発した。
「 でも見ているだけじゃ…きっと、私は救われても、彼は……如月さんだって分かっているくせに―」
「 何……?」
「 ………彼、貴方の事ばかり話します」
「 ………」
「 私…私、貴方が嫌いです…っ!」
それはこちらの台詞だ。
そう思ったけれど、彼女の訪れた時とは一種変わったその表情に、如月は言葉を返す事ができなかった。
「 待て、龍麻!」
「 来るなよ!」
「 呼んだのは君だろう!」
「 来たくないって言ったのは翡翠だろ!!」
いじけて走り去ろうとする龍麻を、街の大通りで叫んで肩を掴んで引き止めた。すぐにそれは勢いよく払われて怒りに満ちた目を向けられる。周囲の視線がちらほらとこちらに注がれては通り過ぎて行くが、如月はただ目の前の龍麻だけを見やった。
「 どうして君はそうなんだ」
「 俺の台詞!」
「 何を怒っているんだ」
「 お前のその態度に…っ。全部にムカつくんだよ!」
「 ………なら、どうしたらいいんだ」
「 うるさい…っ! そんな風に、自分ばっかり冷静みたいな顔するな…!」
龍麻はかっと赤面して、地面に向かってそう言い放った。如月の方を見ようとはしなかった。
しばらくは周囲のざわめきだけが2人のことを包んだ。
お喋りの声、笑う声、店員による勧誘の声――様々な日常に溶け込んだ人々の音が、今の2人にはひどく違和のあるものに思えた。白けた空気を感じる。
「 龍麻……」
それでも如月が先に声を出し名前を呼んだが、やはり相手からの返答はなかった。
「 龍麻」
しかしもう一度呼んだ。何とか反応が見たかった。
2度目で、ようやく龍麻は顔を上げた。
「 龍麻」
そして、3度目。
「 何だよ……」
「 以前は…こんな風じゃなかっただろう」
「 …………」
「 僕が何か君の気に入らない事をしたのかな」
「 …………」
如月の静かな口調で、 龍麻は急にしゅんとなって唇を噛んだ。
如月から視線を逸らし、じっと下を向いたまま顔を上げない。
「 龍麻……」
「 ………ぃ」
「 え?」
ひどく小さな声でつぶやいた龍麻の言葉を如月は聞き漏らした。
慌てて聞き返すと、龍麻は抑えていた何かが不意に湧き立ったのだろうか、がばりと顔を上げると突然声を荒げた。
「 嫌いなんだよ、翡翠のことが!!」
そうして龍麻は再びだっと走り出した。
「 ……な……」
思わず絶句してしまい、如月は呆然とその場に立ち尽くしたまま、自分からどんどん離れていく龍麻を見送った。
あんなにはっきりと言われたのは、初めてだった。
最近の態度を考えれば、恐らく自分に対して面白くない事があったのは間違いないだろうと思ってはいたが、さすがにショックだった。
自分には龍麻だけだというのに。
「 龍麻…」
しばらくして我に返り名前を呼んだ時は、しかし当の龍麻の姿は街の雑踏の中に消えて見えなくなってしまっていた。
如月が龍麻を探すのを諦めて自宅に辿り着いた時には、もう辺りは大分暗くなっていた。
『 如月骨董品店 』
古ぼけた店先にある文字を見つめ、如月は何ともなしにため息をついた。
いつからかこの店を、場所を、祖父から託され、何の疑問もなしに与えられた責務をこなしてきた。それから龍麻と出会い共に戦い、新たな使命を得て、その為にまた努力した。そういう自分を誇りにも思う。
けれど。
「 ………どこ行ってたんだよ」
「 !!」
不意にかけられた声に、如月ははっとして視線を店からずらした。店の戸口の横に立つ大木の陰から、その声の主はぬっと現れた。
龍麻。
どうやらずっと店の前で自分が帰ってくるのを待っていたようだった。如月は半分安堵の息を漏らした。もしかするとあのままずっと口をきいてくれないのじゃないかと思っていたから。
「 ……何処って、君を探していたに決まっているだろ」
「 …………」
黙りこみ、暗闇からじっとこちらを見据える龍麻に急に居心地の悪いものを感じて、如月はよせば良いと思いつつも、またキツイ口調を発してしまった。
「 勝手に人を呼びつけておいて、勝手に人のことを嫌いだと言っていなくなるなんて、一体どういうつもりなんだ」
「 ………別に………」
視線を逸らしてそれだけを言う龍麻に、如月はじりじりとした思いで再び声を荒げた。
「 別にって事はないだろう。僕に用があったんだろう。何処かへ行こうと思っていたんだろう。なのにどうしてあんな―」
「 また怒るの?」
龍麻はウンザリしたようにそう言ってから、はあと大きくため息をついた。その様子に如月が思わず口を閉じると、龍麻はひどく恨めしそうな顔をしてからぽつりと言った。
「 翡翠は……俺のことが好きなくせに、そうやっていつもいつも普通の顔をして、保護者みたいな口をきく」
淡々とした口調の中に、龍麻の自分への怒りのようなものを感じて、如月は声を出すことができなかった。
「 いつもいつも俺の後ろにいて、俺のことを見ているくせに、絶対に俺の前に来ようとしない。俺の……横にすら来ようとしない」
「 龍麻…?」
夕闇の中、眉をひそめて龍麻のことを凝視すると、自分のことを怒っていたはずの目の前の相手は、もう泣き出しそうな顔をしていた。
「 京一は…俺の背中を護るって言ってくれた。自分の背中も俺に預けるって言ってくれた。他のみんなだって…俺のことを護るって言ってくれるし、俺に護ってほしいって思っているよ。でも翡翠は…」
俺のことを護るだけじゃないか。
「 それは――」
自分が玄武だからだと言おうとして、如月は口をつぐんだ。そんな台詞を龍麻が望んでいるとは到底思えなかったから。
そしてそれは、自分も同じだ。
「 俺も…最初はずっと翡翠に甘えてて、翡翠は何でも知っているし、何でも俺のこと優先してくれるし…それが楽だった。でも最近は…それが、何だか苦しい」
龍麻はまくしたてるようにそれだけを一気に言うと、張り詰めていたものが取れたのか、再びはあっと大きく息を吐き出して、やや赤くなった目を隠すようにして俯いた。
「 最近は…ずっとこんな事ばっかり考えて、一人になるのも嫌で、家に帰るのも嫌で、翡翠に言いたくて…。でも、それも何だかできなくて……」
このまま自分が何も言わなければ龍麻は泣いてしまうのではないだろうかと、如月は気が気ではなかった。
けれども龍麻は堰を切ったように話し続けた。
「 だから…このこと、いつかちゃんと言おうって思っていたのに、でもやっぱりずっと言えなかった。だから、今日こそはちゃんと言おうと思って翡翠の事呼んだんだ。別に何処に行くとか…そんなのなかった。なのに…翡翠に怒ったような顔されて、焦って、逆に腹が立ったんだ」
ごめんな。
素直に龍麻は謝って、それからそろそろと顔を上げると伺い見るような目を如月に向けた。
如月はそんな龍麻を前にして、どう反応して良いのか、すぐには返す言葉を探すことができなかった。そんな自分が情けなかったが、それでも龍麻の言葉の意味を考えると、ただ胸が苦しく、ただ彼への愛しさだけで胸がいっぱいになった。
「 ………どうして」
「 え?」
やっと言葉を出せたが、それがひどく掠れたものだったので、龍麻は怪訝な顔で問い返してきた。如月は焦ったように首を横に振ると、努めて平静な表情で龍麻と対した。
「 どうして言えなかったんだい……」
やっとのことでそれだけを言うと、龍麻は困ったように少しだけ逡巡したようになったが、やがて思い切ったようになって口を開いてきた。
「 ……翡翠に『馬鹿なことを言うな』って言われたら、嫌だと思って」
「 何故僕が―」
「 分からないけど…翡翠はいつもそうじゃないか。根本では俺に甘いけど、口は悪いだろ」
「 ……悪いかな」
「 悪いよ」
ここでようやく龍麻は少しだけ笑って、それから再び戸惑ったようになってから、何も言わない如月を見上げた。
「 ………それだけ。じゃあ――」
そうして、龍麻は如月の横を通り過ぎ、まるで逃げるようにその場を去ろうとした。
「 ………あ」
けれど反射的に如月はそんな龍麻を背後から抑えつけるようにして抱きしめていた。
「 ひ、翡翠…ッ?」
不意をつかれ、身体をがんじがらめにされて、龍麻は思い切り驚いたような声で名前を呼んできた。如月は何故かそんな龍麻に言葉で返すことがまどろっこしくて、ただ強く龍麻の身体を両手で包み込むように抱きしめ、その首筋にそっと唇を寄せた。
「 わ…っ、翡――!」
龍麻の、今度は驚愕の声が漏れて、身体が抵抗を示してくる。それでも如月は今この人を放すことは絶対にできないと思った。逆らわれるほどに強く、如月は龍麻への拘束の力を強めた。そうして龍麻の身体の体温を感じることで、如月はようやくあの時の比良坂に感じた奇妙な苛立ちの理由を正確に理解したと思った。
この人間の傍にいるということ。
その事の意味。
「 僕は……君を護るために生まれたんだよ、龍麻」
「 ………翡翠?」
「 だから、君の横には並べない。ましてや…君の前を歩こうなどとは思わない。たとえ、君がそれを嫌がったとしてもだ」
「 …………」
龍麻は如月の言葉で途端におとなしくなった。龍麻が傷ついたのは分かった。それでも、自分のこの気持ちだけは誤解されたくないと思った。
「 でも龍麻。それは君が思っている理由からじゃない。僕は僕の意思で君のことを護りたいと思っているんだ。
だから僕はずっと君だけを見続けるし、ずっと君だけを想っているよ」
「 ……俺と対等にはなってくれないの」
龍麻がぽつりとそう言うと、如月はもう一度後ろから龍麻の髪の毛に唇を寄せて軽くキスすると言った。
「 無理だ。僕はこんなに君に支配されているんだから」
「 俺…俺だって……」
龍麻はここで初めて自分を拘束する如月の両手に自らの掌を当てて、ぐっと何かを堪えるようにしてから声を出した。
「 こんなに……翡翠の事、考えているんだ……」
「 龍麻……」
「 いいよ、もう…。翡翠が勝手にそういう事言うなら…俺も勝手に、翡翠のこと護るから」
そうして龍麻はふっと顔を上げて、自分の背後にいる如月に視線を送ると、ここでようやく微笑した。
「 ね…俺たちって本当にお互い勝手だよな……」
「 ……そうかもしれないな」
「 でも……」
龍麻は言いかけたが、後の台詞は続けることができなかった。
「 ……んっ…」
不意に寄せた如月の唇は、龍麻の胸の鼓動を確実に早めた。それでも自らの施されていた拘束を強引に解くと、龍麻は逸らせていた身体を真っ直ぐ如月に向けた。そして言った。
「 俺、も……」
「 龍麻……」
そうして龍麻は両腕を如月の首に回すと、今度は自分という風に相手へ己の唇を寄せた。
好きだよ。
「 ……龍麻」
如月はそんな龍麻の想いの声をどこかで確かに聞きながら、黙ってそのキスを受けた。
自分がこんなに誰かのことを愛するなど、考えもしなかったと思いながら。
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