迎えに来たよ
龍麻と知り合って数週間も経った頃、如月は「その世界」に入り込んだ。
「 ……驚いたな。彼の説明した通りだ」
そこには細い筆で描かれた水墨画のような、一本線で象られた「校舎」があった。
辺りには何もない。空も雲も、或いは地面さえ。
何もなかった。
ただ真っ白な空間の中、如月は自らの正面にあるその校舎―その世界にある「物」はそれだけだ―を見つめた。ここの事はつい最近龍麻から話し聞かせてもらったばかりだったから、早くに就寝したはずの自分が知らず知らずのうちにこの世界に紛れ込んでいた事もそれ程の驚きではなかった。
出会ったばかりの頃、如月は龍麻の事をただおかしな奴だと思っていた。けれど、少しだけ他の仲間たちより多く接するようになって龍麻がこの世界の話をしてくれた時、如月は「緋勇龍麻」という同年代の青年が持つ「哀しさ」を知ったし、またそれに伴う彼の心の一端をほんの少しだけ理解したように思った。
龍麻は知れば知るほど魅力的で儚い強さを兼ね備えた人物だと感じられた。
如月はそんな龍麻にすぐ恋をした。それが恋だなどとはじめは認めたくなかったのだが、龍麻に会えば嬉しく、また彼が苦しむと胸が張り裂けん程の痛みに襲われた。だからそれらひとつひとつの事柄が重なるうち、如月は「無駄な抵抗はやめよう」と、らしくもなく割にあっさりと自分の恋愛感情を受け入れたのだった。
それもあり、龍麻がこの世界の事を話してくれた時は嬉しかった。誰にも言うな、お前にだけ教えると言ってくれた龍麻の言葉が嬉しかった。唇に当てた指先が愛しかった。その話の内容がどうであれ、2人だけの秘密を共有できた事が、顔には出さなかったけれど如月は本当に嬉しかったのだ。
だからこの校舎の前に立った時は毅然として。
如月は迷わずその墨色の線で描かれた校舎の中へ向かった。
「 転校生の如月翡翠君です。皆さん、仲良くね」
「 ………」
顔が見えない。
のっぺらぼうの白い顔をした女性教諭は、教卓前で如月の背を軽く抱きながら生徒たちに向かって言った。抑揚の取れた清潔感漂う声だった。
「 はぁい」
「 はぁい」
「 分かりました」
それに対して規則正しく返ってくる従順な声。
しかしそんな教諭の声に返答する30数名の生徒たちの顔もまた、皆のっぺらぼうだった。そんな彼らの制服はセーラー服に詰襟だが、その色も全て墨色で描かれている。ついでに教室中の机も椅子も、後ろのロッカーも水槽も校庭が見える窓枠も、全てが一本の線で描かれていた。
無機的な雰囲気。空気。
そして奇妙な静寂。
「 よろしく……」
それでも如月は律儀に軽く一礼し、目の前に並ぶ白いクラスメイトたちに挨拶した。
ぱちぱちぱち。
軽い拍手がそちこちから漏れる。のっぺらぼうの女子生徒たちが片手を頬に当てて照れているような仕草をしている。隣や背後の席の友人とひそひそと何事か嬉しそうな囁きあいをしている者もいた。
ああ、何だ。普通の学校と案外同じかもしれない。そう思いながら、如月は教諭に促されるようにして教室の後ろから2番目、窓際の席に向かった。
そして。
「 ……龍麻」
如月は当然のような顔で窓際の一番後ろに座っていた人物に声をかけた。
独りだけ、色を放っている。
髪が瞳が、そして制服が黒いのはこの世界の墨色と同じだけれど、明らかに周囲とは発している氣が違う。彼は頬杖をついて眠そうな顔をし窓の外へ視線をやっていたけれど、如月に呼ばれるとゆらりと瞳を向けて、そして笑った。
「 誰」
「 ………」
ああ、そういえばこちらの世界では記憶が曖昧なのだと龍麻は言っていたっけ。如月はふとその事を思い出して、こちらに静かな目を向けている龍麻に「すまない」とすぐに謝った。
「 如月翡翠だ。よろしく」
だから改めて挨拶をすると、龍麻は微かに目を細め、本当に小さな声で「うん」とだけ答えた。そうして後は如月の存在など忘れてしまったかのように、ぼんやりと窓の外へと視線を戻してしまった。
如月はそんな龍麻は見つめた後、ガタリと自分の席に腰をおろした。
こんな風にこんな形で龍麻とクラスメイトになるなど考えた事もなかった。少しだけ胸が躍った。
きんこん、かんこん。
壊れかけの鐘が最後の声だと言わんばかりの音で授業終了の合図を送ると、のっぺらぼうの生徒たちは皆黙々と教室を後にしていった。ぼそぼそと「さよなら、また明日」という声、また「一緒に帰ろう」という声も聞こえたような気がしたが、見たところ群れを作って行動しているような形跡は、顔のない生徒たちからは見られなかった。
「 帰らないのかい」
ただ独り、未だ立ち上がらずに始業の時と同様座ったままの龍麻に如月が言った。ここの学校は驚いた事にたったの2時間授業で1日が終わるらしい。教室に時計がないので何とも言えないが、少なくとも如月の腹時計ではそろそろ昼になろうかという時刻だし、第一朝の授業は数学と国語の2教科しかなかったから。
それでも龍麻は誰も彼もが去っていった教室に独り残り、未だ頬杖をついたままぼうとしていた。
席を立ち椅子の背にもたれかかった状態で視線を寄越す如月にも、果たして龍麻は気づいているのかいないのかがはっきり分からなかった。
「 龍麻」
だから如月はもう一度声を掛けた。龍麻はこの世界にいる自分の事を「もうひとりの俺」と言い、「好きだけれど嫌いなんだ」と言っていた。そうして今ひとつ状況を飲み込めていない顔をした如月に苦笑しながら、寂しそうに付け加えた。
翡翠は、あんな俺を見たらきっとガッカリするだろうな、と。
「 龍麻」
返事がない。三度目呼ぶと、ようやく龍麻の肩先が揺れた。
「 ………」
のろのろと手が離され、両肘が机に乗る。龍麻は視線を窓の外から教室内へ戻し、自分を何度も呼んだこの世界の新しい住人をじっと見つめた。
そして淡々と言った。
「 お前は、他の奴らと少し違うんだな…色がある」
「 君も」
如月がすぐに答えると、龍麻は少し首をかしげて何事か考えるような仕草をした。そのどちらかというと物憂げな表情は、ああ、時々自分の家の縁側で物思いに耽っている時の彼に似ていると思った。
そしてそんな彼を美しい、とも。
「 君はどうしてこの学校に来たんだい…。僕は友人に紹介されて来てみたんだ。いや、来てみたというよりは、来させられたのかもしれない…と、思っているんだが」
「 誰に…」
如月の言葉に興味を示したように龍麻が訊いてきた。如月はそんな龍麻にふっと笑んでから軽く顎をしゃくった。
「 君だよ」
「 俺…」
「 そう。君がここの事を教えてくれたんだ。ここは静かで簡素で、落ち着けるが不安を煽られる場所だと言ってね。…僕がいれば少しは変わるかもしれないと言っていた」
「 ………」
「 それが嬉しくてね…。柄にもなく浮かれたよ、それを言われた日は」
「 ……翡翠」
「 ああ。そうだよ」
茫然とした様子だった。けれど龍麻は確かに自分の名を呼んだ。
如月は今度こそゆっくりとした笑みを向けると、そっと片手を差し出しそんな龍麻の前髪に触れた。龍麻は抵抗しない。むしろじっとした視線を如月に向け続け、それからはっと息を吐いた。
龍麻が言った。
「 あの世界は…疲れるから嫌いだ…。でも、ここも寂しかった」
「 それはそうだろう。こんな人形ばかりの学校に来て何になるんだい」
「 ……うん」
「 そろそろ帰るかい?」
「 一緒に…いてくれるの…」
「 当たり前だろう?」
何を今更という顔をしてすぐに答えると、龍麻はようやく嬉しそうに唇を開いた。声にならない声で何かを言う。如月はその唇の動きを読みながら、身体を屈めるとそう「言ってくれた」龍麻の髪の毛にキスをした。
「 目覚めたら今日の事は全部忘れているかな」
如月が訊くと龍麻は「分からない」と首をかしげた。
「 いつもどっちの世界にいても曖昧だったから…。でも、翡翠にここに来いと言ったのは向こうにいた俺だろう?」
「 ああ」
「 それなら…たぶん、忘れない」
「 そうか」
如月は笑った後、龍麻に向かって手を差し出した。そして不意に窓の外へと目をやり、何か可笑しいものを見てしまったように顔を綻ばせた。
「 まったくめちゃくちゃな時間軸に巻き込まれているな…夕焼けだよ」
真っ白だったはずの世界が急に現実味を帯びて仄かな赤色を放っている。2人がいる教室にもキラキラとした夕陽が差し込んできた。
「 ずっと昼間のままかと思っていたよ、ここは」
如月が言うと龍麻は不思議そうな声で言った。
「 放課後は…夕焼けになるものだろ」
「 そうかい。まあそれはいいとして、忘れ物はないね。もうこの学校へ来る事はないだろうから、何か置いてきては大変だ」
「 大丈夫…」
龍麻は如月の言葉にすっと目だけで笑って、同じく瞳だけで如月に伝えた。
俺はここに自分の心だけを持ってきていたから。
それをお前が連れ出してくれれば。
「 …でもたまには何処かで休みたいから…。今度からはここじゃない、お前の店に行ってもいい?」
「 歓迎するよ」
如月は笑った後、ようやく立ち上がった龍麻の手を取り隣に立った。
そうしてまるで小さな子どもを諌めるように、その握った手に力を込めた。
「 何処にいても迎えには行くが…うちに居てくれるなら、それが一番いいな」
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