百日紅




  いつから寝入っていたかは記憶にないが、ふわりと何かが鼻先を掠めたような気がして、龍麻は薄っすらと目を開いた。
「 すまない。起こしてしまったかい」
「 ……ううん。ありがと」
  夕刻が近いとはいえ、縁側はまだ日が照っていて温かい。いつの間にかその場で横になってしまった龍麻に、如月は自分の上着をかけてくれたようだった。
  龍麻はそのジャケットから如月自身を感じつつ、未だごろりと身体をだらけさせた格好のまま、庭先に出た如月の背中を見つめた。
  いつまでもこうしていられたら良いのに。
  何も起きない静かな日にはいつもそれを思った。如月と知り合い、彼の元を頻繁に訪れるようになってから、その想いは更に強まり願いとなった。内に眠っていたはずの弱気な感情はどんどんと剥き出しになり、心細いものとなった。
  如月は優しいけれど、果たして自分が想う程にこちらの事も気にかけてくれているかというと、それはあまり確信を持って感じられるものではない気がしたから。
  如月はただ黙って迎え入れてくれるけれど。
「 翡翠、何見てるの?」
  寝そべったまま声をかけると如月はすぐに振り返った。相変わらず容易には笑ってくれないが、少なくとも拒絶はしていない。それは分かった。出会ったばかりの頃はこの無表情が何を考えているのか掴めず(今だって大して掴めはしないが)、真剣に嫌われているのではないかと思ったほどだ。それでも足しげく通う自分に如月はこうして門扉を開いてくれる。だからとりあえずは大丈夫だろうと思っている。
  もっとも、時々はやはり不安になるので、龍麻はこうして話しかける。
「 翡翠の家の庭って綺麗だよな」
  相手の反応は一言二言ではなかなか得られないので、こうして再度話し続けなければならない。それは決して苦痛ではないけれど、楽しい作業でもない。龍麻は如月の上着を鼻先にまでかけながら、まるで悪い事をしてしまった時のようにこっそりとした視線を相手に向けた。
  不意に、如月がついと龍麻から視線を逸らした。
「 ……?」
「 ほら」
  そうして如月はすっと前方を指し示し、素っ気無いながらも言った。
「 百日紅だよ。白い花がついているだろう。あれを見ていたんだ」
「 さるすべり…」
  聞いた事はあるが、実際にどういう花かと言われてもぴんとはこなかった。夏から秋にかけて滑らかな幹から伸びる枝先に紅と白の花を咲かせるのだと聞かされ、はあそうかとただそれだけを思った。
  正直、植物にあまり興味はなかった。
「 翡翠は好きなの。その花」
「 いや別に」
  しかし意外や如月は自身もあっさりとそう言い放ってから、再びくるりと振り返って龍麻を見つめた。そうしていやに真面目な顔になった後、さらりと続けた。
「 今まで気にも留めなかった。庭先に咲く花の種類なんて、考えた事もなかったよ。春に咲く花、夏に咲く花。そして今の時期に咲く白い花…。僕には関係なかったな」
「 はあ…」
  それならどうしてと言おうとした矢先、如月がひどく躊躇ったような顔を見せたので、龍麻はぎくりとして口を閉じた。まっすぐに向けられる視線にどぎまぎしていると、しかし如月の方はそんな龍麻の顔によってより当惑したようになった。
  そして暫くした後、如月はいやに澄んだ声で言った。
「 ……でも今は君がいるから。どうせなら綺麗に咲いている花は…ありがたいな」
「 え…?」
「 龍麻も何もない殺風景な庭よりは、この方がいいだろう?」
「 そりゃ…」
  言いかけて龍麻は急に身体がじんと熱くなるのを感じ、焦ったようになって視線を逸らした。
  如月の言葉が。
  とてもとても、嬉しかった。
「 翡翠、あの…」
「 何だい」
「 ……うん。いや…それ、綺麗だよな」
「 ……そうだな」
  ごまかすように言ったその台詞に、如月は律儀に答えてきた。龍麻は嬉しいやら恥ずかしいやらで、その後はもう他の言葉を探す事などはとてもできなかった。
  だから如月の上着を更に深く被ると、龍麻はわざと大あくびをしてごろりと寝返りを打ち、庭先に背を向けた。
  背後に咲く百日紅がそんな自分を見て笑っているような気がした。




<完>





■後記…如月に懐いているくせに、まだちょっと恥ずかしがりやさんな龍麻。何気に如月も。