些細な願いごと 「 ひーちゃんって呼んで」 ある日突然、龍麻は真顔でそう言った。 「 ………は?」 だから彼にしては珍しく―そう、普段なら決してそんな風に動じたりしない人間が―ひどく間の抜けた応答をしてしまったのだった。 「 だから」 そんな相手に龍麻は多少むっとしたような顔をしたのだが、改めて先刻の言葉を繰り返して述べた。 「 俺のことさ…『ひーちゃん』って呼んでほしいんだ」 「 ………何を急に」 「 翡翠は俺の言う事きいてくれないのかよ」 いじけたようにそう言った龍麻に、言われた方の相手―如月翡翠―はまたしても困惑したような顔をしてしまった。 しかしなるべく威厳は保って。 「 何故僕が君の言う事をきかなきゃならないんだ?」 「 だって翡翠は俺の……親友だから」 「 ……だから?」 一瞬、聞きなれない単語に胸がざわつくのを感じたが、それは如月翡翠、表に出すこともなく問い返すことができた。 そんな如月に、龍麻は意地になったように言う。 「 だからッ! 親友同士はあだ名で呼び合う方がいいよッ。京一だって桜井だって俺のこと『ひーちゃん』って言うだろ」 「 醍醐君や美里さんはどうなんだい」 「 いいの、他の人のことはッ! 俺は今、翡翠のことを言っているんだから!」 「 ……無茶苦茶を言うな、君は」 「 『君』とか言うな! 『ひーちゃん』って呼べよ!」 「 なっ…何だってそんなにムキになるんだ」 如月はひどく迷惑そうな顔をして、目の前の龍麻を見やった。 しかしそんな「無茶な」事を言い出している龍麻の方は、これが意外にも真剣な顔をしているのだ。これには如月も正直辟易してしまった。 龍麻とは仲間になってから、武器調達などのこともあって、かなり親しく話をしていた。そんな中で、自分が彼を「黄龍の器」として見ている以上に、それとは違う特別な感情を持って接しているのは事実だった。 しかし、それでも。 「 ……僕はそういうのが苦手なんだよ」 そうだ。できることとできないことがある。龍麻だってそれは分かっているはずだ。それなのに。 「 翡翠は俺のこと、嫌い?」 「 ……!」 不意にそう訊いてきた龍麻に、如月はまたしても戸惑った顔をしてしまった。何という事だ。「無」の境地には程遠い。ただ1人の相手に、こうもころころと心を動かされる自分がいる。 しかし、実際目の前の龍麻は、あくまでも「ひーちゃん」と言うことを拒絶する如月に、ひどく傷ついたような顔をしていた。龍麻にそんな顔をされることは、如月にとって不本意以外の何物でもなかった。 だから。 「 ……嫌いなわけはないだろう」 なるべく平静を装って如月は言った。龍麻のことは直視できずに、わざとらしく店の品物へと目をやる。 「 本当?」 「 ……僕は嫌いな相手と協力し合えるほどできた人間じゃないんでね」 「 良かった……」 「 !」 安堵したような龍麻の態度に、如月はぎくりとして振り返った。 おかしい。 一体今日の龍麻はどうしたというのだろう。どう考えてもいつもの緋勇龍麻ではない。いつもの龍麻はただのほほんと笑んでいて、明るくて。確かに辛い戦いの中で不意に愚痴ってくることもあるが、こんな風に物憂げになったり、相手が困ることを言い出したりするような人間ではない。 「 緋勇。何か…あったのかい?」 如月は静かにそう訊ねながら龍麻に近づいた。 それで龍麻はびくりと肩を揺らし、そんな如月を見上げた。そして、さっと頬を赤く染める。その表情に如月は胸が高まった。 まさか。 そんなバカなことがあるわけがない。 自分と同じような…こんな気持ちを、相手も、龍麻も抱いているわけが。 「 俺…俺、ごめんな。無理なこと言って」 「 緋勇……」 「 ただ俺…。ちょっと不安になっちゃって。みんなさ…みんな、最初は翡翠みたいに『緋勇』って呼ぶけど、親しくなると絶対『龍麻』とか、『ひーちゃん』とか…とにかく自分の呼びやすい呼び方に変えて言ってくれるのに。翡翠はずっと変わらない。これって俺のこと本当は好きじゃないのかって」 「 何をバカな……」 「 バカじゃないよ! そういう事は気になるものなんだ!」 「 …………悪いが、僕にはそういう事は理解できない」 「 …………」 黙りこむ龍麻に、如月はまたはっとして開いた口を慌てて閉じた。思い悩んでいる相手に、何を冷たい事を言っているのだろうか。自分にとってはくだらない事でも、龍麻にとっては重要な事なのに。 ましてや、自分が想っている相手をこんなに苦しめているというのに。 如月はさすがに自分の態度に反省して、わざとらしく咳き込むと、すっかりしょげてしまった龍麻を見て言った。 「 緋勇。僕にとって君は…本当に大切な存在なんだよ」 「 …………」 「 呼び方はどうであれ……この言葉に偽りはない。本当だ」 「 ……うん。分かった」 「 緋勇」 「 ごめん。こっちこそごめん。バカな願いだって分かっていたんだけど。言ってみただけだから、忘れてよ」 「 …………」 「 じゃあ俺、今日はもう帰るから」 「 緋勇……」 明らかに沈んだような背中。とぼとぼとした足取り。如月はこのまま龍麻を帰して本当に良いのだろうかと柄にもなく迷った。大切な相手と認識しているのに、一体自分は何をこだわっているのだろうか。 一言呼んでやるくらい、何だというのだろうか。 「 ひ……」 「 え?」 龍麻が、声をかけようとする如月に気づき、振り返った。 如月は余計にあがって舌がもつれそうになったが、それでも何とか先を続けようとした。 「 ひ、ひ……ひー」 「 翡翠……」 如月が何を言ってくれようとしたのか分かった龍麻は、再びだっと近づくと、その勢いのまま今や冷や汗をかいている相手の懐に思い切り飛び込んだ。 「 翡翠っ…! もういい! もういいよ、ありがとう!」 「 ひ……」 如月は嬉しそうにそう叫んで自分の元に抱きついてきた龍麻を感じながら、しかし尚も決めたことを実行しようと口を開いたまま声を出そうとしていた。 しかし。 「 緋勇……」 脱力したようにいつもの呼び名で呼ぶと、如月は自分にしがみつく龍麻のことをぎゅっと抱きしめ返した。 「 どうにも…だらしなくてすまない」 「 ううん。俺、すっごく嬉しかった」 「 いや。君のためにこんな事すらできないなんて、僕はまだ修行が足りないよ」 如月はそうは言ったものの、それを否定するように、更に力強く自らの顔を押し付けてくる龍麻を感じて、自然表情を緩めた。ゆっくりと龍麻の髪を優しく撫でる。そしてそれによって顔をあげる龍麻にふっと微笑みかけた。 「 もう少し待ってくれるかな……龍麻。そうしたら―」 「 翡翠……」 龍麻は殊のほか嬉しそうに笑い、そうして――。 「 翡翠…っ」 また赤面して、それを隠すように如月の胸に飛びつくのだった。如月もそれをより実感するように、強く龍麻を抱きしめた。 |
<完> |
■後記…ひーちゃんの為にこんな些細な事も叶えてやれない若旦那は悪ですか…。それとも言わないままで良かったでしょうか。こういう如主は初めて書いた感じだったので、当時は自分的にはどことなく新鮮だったような。でも今読み返してみるとそうでもないかな(笑)。 |