その日、如月は奇妙な倦怠感に捕らわれていた。
「 参ったな…」
  一旦は制服に着替えたものの、これはとても学校に行く気分ではないなと思い直す。元々休む事など日常茶飯事だしと、如月はつけかけた腕時計を卓袱台の上に置いた。それからとりあえずはこのだるさを軽減する薬でも飲もうと、どこかにしまっているはずの救急箱を求めて辺りを引っ掻き回した。本当は薬などに頼らずとも1日寝ていれば治りそうなものだったが、午後からは龍麻たちと旧校舎に潜る約束をしていた。だからそれまでには何とかしたかった。如月はようやっとの思いで見つけた救急箱を開け、一体いつ購入したのかも不確かな「解熱剤」効果のあるらしい緑色をした錠剤を口に含んだ。
  それはひどく苦い味がした。


  その暗い淵の底で



  気づくと如月は外の通りに突っ立っていた。
「 ……?」
  一体いつから自分はここにいるのだろうか。そこは普段からよく通る近所の一本道だったのだが、辺りを見渡し如月は戸惑った。確か薬を飲んで部屋で寝入ろうとしていたはずだ。何故外にいるのか、何故覚えていないのか。如月はぼうっとする頭を抑えながら、しかしどことなく様子のおかしい辺りをもう一度じっくりと見渡した。
  雨こそ降っていなかったが、その通りは昼の時間であるのにも関わらず夜のように暗く、怪しい黒雲に覆われて、ひっそりと静まり返っていた。人の気配はまるでない。その代わり、異形の気配やただならぬ魔の存在なら嫌というほど感じ取れた。
  如月は眉をひそめた。
  とりあえずは自宅の店へと帰ろうと、如月は足を動かした。どことなく地に足がついていないような浮遊感。そして直接は襲ってこないが、歩く度に増す夥しい数の異形の気配。
「 どういう…ことだ…」
  そして如月は自宅の前に立ちはだかって茫然とした。
「 これは……」
  まるで手入れのされていないその建物は、確かに自分の店だった。『如月骨董品店』という看板はそのままに、しかし店の周囲の植木は乱れ放題、雑草も伸び放題でマメに世話をしていたはずの花は萎れて全て枯れていた。店に近づくと引き戸にはヒビが入っていて埃がたまっているのが目に付いた。まるで随分と長い間人が寄り付いていなかったような、そんな閑散とした雰囲気が自分の店からは漂っていた。
「 ……何が…何が起きたんだ?」
  混乱する頭の中で如月は再度様々な考えを巡らした。ここは確かに自分の店だが、この真っ暗な空といい、人の姿の代わりに蔓延しているらしい異形の存在といい、何かがおかしい。自分の知らない間に何かよくない事が起きたのだろうか。店のことはいい。壊れたなら直せば良い。しかし。
  しかし、龍麻は無事だろうか。
  まずその考えが頭をよぎった。龍麻は自分にとってかけがえのない、護らなければならない存在であり、この街に何かがあったのなら龍麻にも危険が及んだ可能性が高い。如月にはそれだけが気がかりだった。
「 あ…も、もしかして…如月、クン…?」
  その時、困惑する如月に背後から声をかける者があった。
「 君は…」
  桜井小蒔だった。龍麻と同じ学校に所属する仲間で、弓を扱う元気の良い少女だ。
「 うわー! ホントだ! ホントにホントに如月クンだっ! 嘘じゃないよね、ホンモノだよね? 一体…一体、今まで何処に行っていたのさッ!」
  小蒔はそう言いながらだっと駆け寄って如月に半ば喜びと怒りの表情を同居させて勢いよく迫った。しかし感極まったのだろうか、彼女の目からは涙が微かに見え隠れしていた。
「 あの日突然いなくなっちゃったから…! 消えちゃったから、もうもうボクたち…」
「 な…何だって…?」
「 ボクたちずっと心配してたんだよッ。如月クン、無事だったのなら何で連絡してくれなかったのさ! 今…今街もこんな状態でしょう? そんなにしょっちゅうこっちまで来られないから…。みんなで交代で様子見に来るくらいしかできなくて…ッ」
「 ちょ、ちょっと待ってくれ、桜井君。君…一体何を言っているんだ?」
  自分の制服の袖口を掴みながら涙ながらにそうまくしたてる小蒔の姿に、如月はただ面食らった。何を言われているのか本当に分からなかった。まるで自分が長い間彼らの元からいなくなっていたかのような話ぶりではないか。
  しかし戸惑っている如月には構わずに小蒔は更に続けた。
「 如月クンがいない間、武器の強化もままならなくて…。御門君が色々な方面から調達してきてくれたりもしたけど、彼もあちこちで起きている騒乱を止めなくちゃならないし…。京一や醍醐クンも今はバラバラにあちこちで起きてる混乱を鎮めるのに一生懸命で…勿論、ボクたちもだけど…。葵はみんなの怪我の回復で手一杯だし」
「 待ってくれ、だから一体これは…?」
「 これはって…?」
  ここで小蒔はようやくただ困惑しているような如月の態度に気づき、自らも怪訝な顔をした。
「 如月クン…どうしたの…何か…ヘンだよ…?」
「 おかしいのは君とこの街だ。一体何が起きたんだ? 突然空がこんなに暗く…通りにも人の姿が…気配すらしないなんて」
「 ………突然って……」
  如月の言葉に小蒔も返す声を失っているようだった。訳が分からないという風にただ眉をひそめている。
「 そ、そうだ龍麻は…? 龍麻は無事かい?」
「 如月クン…。もしかして…もしかしてさ、行方不明の間に記憶喪失とかに…なっちゃったの…?」
「 何だって?」
  とても冗談で言っているとは思えないその仲間の発言に、如月はただ唖然としてその場にいる事しかできなかった。



  制服のポケットに入っていた鍵は固く閉じられていた店の引き戸を開ける事ができた。如月はすっかり寂れてしまったような店の中へゆっくりと自らの身体を滑り込ませた。
  店内の様子に、改めて茫然とする。
  商品はぐちゃぐちゃに乱れ、棚から落ちたままになっているもの、埃をかぶって色の褪せてしまっているものなど、それは目もあてられなかった。しかし如月はそれらには一瞥をくれただけで、とりあえずはそのまま奥の座敷へ上がった。
「 ……ここは…変わらない、か」
  目の前にある卓袱台には今朝自分がそこに置いた腕時計が。そして畳の上には出しっぱなしになって蓋の開いたままの救急箱と薬の瓶が転がっていた。如月はその倒れて転がったままの瓶を拾い上げてそれを何気なくテーブルに置いた。
「 ………一体」
  確かに自分はつい先刻までこの居間でこの薬を探し、そして午後まで眠ろうとしていたはずだ。それだけだ。小蒔が言うように長い間ここを留守にしていた覚えなどまるでない。時間など経っていようはずがないのだ。けれどこの部屋以外の、つまり店や外の景色は間違いなく一変してしまっている。まったくもって何が起きてしまったというのだろうか。
  如月はしんとした部屋の中で、やるべき事を見出せずにその場に立ち尽くすだけだった。



  先刻出会った仲間の1人である小蒔は、如月に現在の状況を説明した後、「明日にも他の仲間たちを連れてくるから」と言い残してその場を去って行った。小蒔自身も如月の何も知らないといった様子に戸惑い、困惑しているようだった。
  しかし訊きたいのはこちらだと如月は思う。小蒔の口から発せられたその「現在の状況」は信じられない事ばかりだった。だから余計に今自分が置かれている状況に、如月は現実感を持つ事ができなかった。
  小蒔は如月に言った。
  今現在この東京の街は柳生によって確実に支配され、それによって増えた異形の氾濫はより一層の混乱を周囲に振りまいていること。そして仲間たちは各地で起きるその騒乱を止めることだけで手一杯で、皆バラバラに分散してしまい、《力》そのものの勢いも落ちてしまっていること。そんな中、北区で起きた異形の大量氾濫の騒ぎを止めようと1人で出向いた如月が突如そのまま姿を消してしまったこと。如月自身はそんな事をした記憶など一切なかったが、小蒔はただ悲しそうな顔で後を続けた。
「 だから如月クンはずっと行方不明って事になってたんだ…」
「 僕が…?」
  小蒔の言葉がただ信じられなかった。そしてその後発せられた自分よりも大切な人のこと…。

  彼らを治めるべき存在にある龍麻が今どうしているのかも――。

「 全く訳が分からない…」
  如月はズキリと痛む頭を抑えながら、ただ力なく毒づいた。それから不意に覚えた喉の渇きを癒す為に台所へ向かった。きゅっと固く閉じられていた蛇口を捻り、ごぽごぽと音を立ててから流れ出した水を見つめる。最初温かったそれが徐々に冷たくなってきたところで、如月はそこに直接口をつけて水を飲んだ。喉元に通るその感触は、とても夢とは思えなかった。
  その時。
  ガタリ、と。
  不意に表の引き戸が開けられる音がして、如月はぎくりと顔を上げた。誰か来たのだろうか。小蒔が去ってからまだ一時間と経っていない。行方不明とやらだった自分を気にして誰かが来るには早過ぎる。警戒した気持ちで如月は気配を消したまま店の方へと足を向けた。
「 た……」
  しかしそこにいたのは龍麻だった。
「 ………」
  そこには、やはりいつもと変わらない龍麻の姿があった。
「 龍麻…」
  如月は安堵した。
  何が何やら分かりはしなかったが、とりあえず龍麻がいる。その事実に如月は妙な安心感を覚えたのだ。
  先刻小蒔が言った「言葉」は、既に頭から吹っ飛んでいた。
「 龍麻。来てくれたのか」
「 …………」
  精一杯の親しみをこめてそう言ったが、しかし声は返ってこなかった。ただ龍麻は明らかに如月の存在に驚いている様子で、やはり自分が姿を消していたのは本当なのだろうかと如月は心の内だけでこっそりと思った。
「 龍麻?」
  もう一度呼ぶと、店の入り口付近で立ち止まったままこちらを向いていた龍麻がようやくゆっくりと唇を開いた。
「 生きてたんだ」
「 え?」
  そのあまりに素っ気無い声に如月が思わず問い質すと、龍麻は無表情のまま続けた。
「 死んだのかと思ってたよ。あの日から…ずっと姿が見えなかったから」
「 ……やっぱり僕はしばらくこの世界にいなかったのか?」
「 覚えていないの?」
  如月の台詞に龍麻は怪訝な顔をしてから、やがてむっとしたようになってこもった声を出した。やや俯き加減で、如月の方は見ていなかった。
「 どこか違う世界にでも行ってきたのかな。呑気な奴だね、お前の護るべき街がこんな事になっていると言うのに」
「 …………」
  龍麻の態度があまりにもいつもと違う事に如月はようやく気がついた。なるべくその動揺を表に出さないようにしながら、如月は先刻小蒔が言っていた台詞を再び頭の中で反芻してみた。

  ひーちゃんは…もう……。

「 翡翠」
  ふと気づくと龍麻が座敷から立ち尽くしている如月の方に近寄って真っ直ぐな眼を向けてきていた。如月が視線を逸らせずに見つめ返すと、龍麻は自分も居間に上がると、そのまま如月の首に自らの両腕を回してきて言った。
「 せっかく助かったその命だ。あいつらのように、みすみす捨てるのは勿体無いと思うだろう?」
  そして龍麻はいやに妖艶な瞳をくゆらしたかと思うと、そのまま如月の唇にキスをした。咄嗟のことに如月はすぐに反応を返すことができなかった。
「 龍麻……」
  ようやく茫然と名前を呼ぶと、龍麻は如月に抱きついたままゆっくりとした、しかし凛とした声で言った。
「 俺の方につけよ。俺に従え」
「 龍麻、君は―」
「 あの時だってそう言っただろう? お前にだけ言ってやったのに…どうして拒んだ。どうして…そのまま消えたりしたんだ…」
「 龍麻……」
「 俺はお前を助けてやろうとしたのに…」
  龍麻はそう言ったまま、どんと如月の胸をこずいてそのままその身体を無理やり押し倒した。勢い余って倒れ込んだ如月だったが、幸い身体を強く畳に打ち付けただけで、卓袱台などの家具に当たる事はなかった。それでも鈍い痛みに如月は一瞬顔を歪めたのだが、龍麻の方は構う風もなくそんな如月に再度口付けをしてきた。そうして如月の上に乗ったまま、じっと見つめてもう一度言った。
「 俺と来い。お前は…助けてやるから…」
「 君……」
「 俺の方につかないと死ぬぞ。…1番に殺してやる」
「 龍麻…君は本当に…?」

  柳生の方についたのか?

  しかしそれを訊こうとした如月の唇は再び龍麻のそれによって塞れた。
  小蒔の震えながら言った声が頭の中で響いた。
『 ひーちゃんは柳生の方についちゃったんだ。黄龍の力をあいつの言う通りに使ってやるって 』
  そして仲間を裏切り、人々を殺め、龍麻は魔性になったのだと小蒔は言った。
  それからだという。東京の空が黒雲で覆われ、光の見えない街となったのは。
「 龍麻……」
「 黙れ……」
  何かを言おうとする如月に龍麻は再度ぴしゃりとそう言い、それから一瞬だけ。
  ひどく辛そうな顔をした。
「 ………何故そんな顔をするんだ」
  如月が言い龍麻の髪の毛を梳いてやると、龍麻はびくりと肩を揺らし、それから如月の胸に縋ってきた。制服のボタンをひきちぎり、そして龍麻は如月の胸をさらすとそこに唇を当てた。
「 ……翡翠、もう二度と俺を裏切るな」
  龍麻の言っている意味が分からずに如月が口を開きかけると、龍麻は再度言った。
「 お前は俺が何になろうと…どうなろうと…俺の傍にいると誓っただろう…?」
「 龍麻……」
「 勝手に死のうとしやがって…」
  まるで覚えていない自分の行為を罵られ、如月はただ沈黙した。何が起きたのかまるで分からない。けれど今ここにいるこの崩れそうな存在を悲しませることだけはしたくなかった。
  この街を護ること以前に、自分は龍麻を護るために存在するのだと決めたのだから。
「 龍麻。泣かないでくれ……」
  言ってもう一度髪の毛を撫で、縋ってくる龍麻を抱き返してやると、龍麻は急に静かになった。それでも離れようとはしない。如月はそんな龍麻をぎゅっと抱きしめるときっぱりと言った。
「 君の悲しい顔は見たくないよ」
「 なら……」
  こもった声が胸元から聞こえた。龍麻はやはり泣いているようだった。こんなに弱りきった彼が何故仲間と離れ、柳生についたというのだろう。その理由は分からなかったが、如月は問うのをやめた。
「 なら…もっとちゃんと抱け。俺を離すな……」
  その声は本当に消え入りそうな、心細い子供のような声だった。



  和室の畳の上で龍麻を抱くと、想いは一層強くなった。
「 ふ…ッ! ん…ぅ、あ、あぁ…ッ!」
「 龍麻…ッ」
  ひどく小さくなってしまったような龍麻の背中を抱きながら、自分の下で乱れる相手の名前を如月は何度も呼んだ。龍麻は如月に奥を突かれながら自らも腰を揺らし、ただ涙をこぼし喘いでいた。
「 あぅ…っ。あ、ん、ひ…翠ぃ…ッ」
「 くっ…龍麻…」
  如月は龍麻に求められるままに激しく腰を揺さぶり、攻め続けた。その度に背中に回された龍麻の爪は如月に深く強く突き刺さったけれど、如月は動きを止めなかった。龍麻は自らも限界を感じながら、それでももっともっとと声をあげた。
「 や…や…は、あん…ッ。ああッ」
「 龍麻…う…ッ!」
「 ひぁ…ッ!」
  そして如月が中で欲望を放つと、龍麻は敏感にそれに反応して背中を浮かした。
  それでも如月を離す事はなかったのだが。
  そして荒く息をつく中で龍麻はうつろな目のまま如月を見つめて言った。
「 翡翠…。どうしてかな…俺…どうして……」
「 龍麻…?」
「 教えて……翡翠…。俺はどうして……」
  しかし如月はその声を最後まで聞くことができなかった。





  電話のけたたましい音で如月は目を開いた。
「 …………」
  ぼうっとした頭のまま目を開く。居間の畳の上で如月は寝入っていた。傍には出しっぱなしの救急箱と薬の瓶。如月はそれを横目だけでちらと眺め、未だ鳴り続ける電話の音にも構わずただ横になり続けていた。
  何十回か鳴ったその電話がようやく切れた後、如月は身体を起こした。倦怠感は続いていたが、ふと目をやった窓の方からは明るい日差しが部屋にまで流れ込んできていて、今日も良い天気なのだなという事が改めて分かった。
  如月はしばらく上体を起こしたままでいたが、やがて立ち上がって柱に掛かっている時計を見た。もう16時を回っていた。
  ガタリ。
  その時、表の店の引き戸が開けられて外から誰かがやってくる気配がした。如月が黙って首だけをそちらにやっていると、すらりと襖が明けられて、奥から龍麻が居間の方に顔を出してきた。
「 翡翠」
  どうしたのだろうか、龍麻はいやに不機嫌な顔をしたまま呆然としたままの如月のことを見つめた。
「 いるなら何で電話出ないんだよ。何回鳴らしたと思ってるんだ?」
  手にしている携帯をぶらぶらと振って見せてから、龍麻は更に腹を立てたようになって座敷にいる如月の元にどかどかと近づき、自分もその傍に座った。
「 今日一緒に潜る約束だったろ。集合かけてシカトしたのお前だけ。用あったのなら連絡くらい入れろよ」
「 ………」
「 もしかして具合悪いのかなとか…何かあったのかなとか…色々心配しちゃっただろ」
「 ………」
「 ……おい」
「 ………」
「 ひーすいー! 聞いてるのかよっ!」
  あまりにも反応のない相手に龍麻は不審な顔をしてから、ぶんぶんとそんな如月の目の前で自らの掌を振って見せた。その必死の様子は何故だかひどく滑稽なものだった。如月はそんな龍麻の所作を片手で止めて、そのままその手を握って真摯な顔を見せた。
「 な…何だよ…?」
  如月の尋常ではない態度に龍麻は戸惑った。手首を掴まれたまま、どうしたら良いか分からずに途端オロオロとし出し、視線をあちこちへやり出した。それはいつもの龍麻だった。
「 龍麻。もし君が道を見誤っても……」
「 え?」
  如月の言葉に龍麻が聞き返す。如月は咄嗟にはっとなってすぐに首を横に振った。
「 いや、何でもない」
「 ……何だよ、ヘンな奴」
「 ……龍麻」
「 え、だから何だよ?」
「 ……君がどういう道を取ろうと、僕は君の傍にいるから」
「 は?」
「 だから安心していいよ」
「 ……何、どうしたの翡翠?」
「 いや」
「 ……嘘。何かあったんだろ。何なんだよ一体!」
「 何でもない。ただそれだけが言いたかった」
「 何だよ、気になるだろ! どうしたんだよ、突然!」
  如月に握られたままの手を振り解いて、龍麻はようやく困ったようになっていた顔を引っ込めてムキになって声を荒げた。如月はそんな龍麻の顔をひどく静かな気持ちで眺めてままあっさりと言った。
「 僕は君のことが好きだということさ」
「 な…!」
「 それだけなんだ」
「 な…なななな何を突然…っ」
  いきなり告白されて真っ赤になる龍麻を見て、如月はようやく薄く微笑した。
  あれが何だったのか、それを考えるのはやめようと思った。
「 龍麻……」
「 わ…ちょ…翡翠…っ」
  如月は戸惑う龍麻には構わず、その手をもう一度取るとそっとその甲に唇を当てた。
  あの「夢」が何だったのかは考えない。
  ここでこうして龍麻と共にある事が大切だと、自分は確かに願っている。その気持ちだけは幻でも夢でもない。だから。
  だからその想いが。

  龍麻も同じなら良いのだが、と如月は思った。



<完>





■後記…基本的に「選ばれた人」っていつでも「危うい」というのが私のツボどころです。ちょっとした弾みで正義にも悪にもなり得る。特に魔人学園の龍麻はそうなってもおかしくない環境にいるかなあと思っていて。でも総受けだから(笑)、そんな龍麻を見守る人はたくさんいる!特にこの如月!彼は龍麻に「従う」身である一方で、龍麻に精神的に1番近いところにいる感じがする人です。だから龍麻も甘えると…そんな如主が大好きです。