戯れの後
「もう嫌だ」と「でも、いい」を反復する龍麻があまりに愛しくて、如月はその日自分でもしつこいと思う程の愛撫を繰り返していた。
「翡翠…っ。も、もう、う…ぅ…い…嫌だ…」
だからだろう、もう一体何度目になるのか、龍麻がその台詞の一つを口にした時も、如月はその事を然程気にしなかった。
「うっ、うっ…。やだ…や…あ、あ、あぁ…ッ」
龍麻も嫌だとは言いつつ、丁寧に過ぎる性器への愛撫には感じざるを得ないのか、最後には喘ぎながら如月の手の中で今宵数度目の射精をした。今日は疲れている、何もしたくないんだからと言っていた割に、こういう時の龍麻の欲はどこまでも果てがないように感じられた。
「龍麻」
けれどそんな龍麻の性に溺れる様を眺められる事が如月は単純に嬉しい。
本来なら決して抱いてはいけない感情だと分かってはいても。
「翡翠……」
達した直後は荒く息を継ぐだけだった龍麻が如月を呼んだ。如月からの啄ばむようなキスを受け続けて幾らか気持ちも落ち着いたのかもしれない。そろりと開かれた瞳の中に、先刻あった涙はもう浮かんでいなかった。
「ん…」
それどころか自分に覆い被さる如月の首を更にぐいと引き寄せると、龍麻は「もう一度」と言うようにキスをねだった。
「ふ…っ」
誘われるまま如月は龍麻の唇を吸うように口づけた。龍麻はそれを乾いた喉を潤してくれる冷水のように受け留めると、直後、ようやく人心地ついたように息を吐いた。
「翡翠」
そうして、最初はやはり怒っていたのだろう、初めて抗議するような目を向けて「酷い」と呟いた。
「何が」
如月は言葉の合間にも龍麻への口づけを続けた。龍麻もそれは受け入れながら、しかし焦れたように身体を震わせ、「だから」と相手の首へ回した両腕に力を込めた。
「もう、駄目だよ…。いつも…この頃、いつもじゃない、か…っ。何で…俺ばっかり……しちゃって。翡翠も…っ。…してよ」
「……そんな事気にしてるのか」
「するよっ。早く…早く、入れ―…んんっ」
最後まで言わせずにまた唇を塞ぐと、龍麻はいよいよ怒ったようになり、首に絡めていた拘束を解いて如月の背中をどんと叩いた。
如月が龍麻ばかりをイかせて、なかなか己の熱を発してこない事、龍麻の身体を強引に蹂躙しない事を……行為の最中、龍麻は心底嫌がって不満の声を漏らすのだ。
焦らされているわけではなく、自分が大切にされているからこそだとは龍麻の方でも分かっている。
それでも如月がなかなか行為に及ばないと、龍麻は「それ」が果たされた後も、暫くはずっと機嫌が悪いのだった。
「翡翠っ」
それでも。
それでも、如月は龍麻を抱く時にはこれでもかという程慎重に、そして大切に扱う。
「翡翠…っ。俺だって…もう、こんなの…!」
「分かっている」
ただあまりに前戯が長過ぎると、今度はその快感に馴らされた龍麻が苦しい事になるので、如月もいい加減程良い限界は心得ている。
「入るよ龍麻」
「さっきからそう言っ……んんっ!」
「すまない…もう、少し…」
「はぁっ…あ、あ…んっ!」
内腿に手を当てられ更に足を左右へと開かされた事で、龍麻はその無理な体勢に声を上げた。それでもそれが痛み故の悲鳴と取られると如月があっさり「する事」を諦めてしまうと承知しているので、龍麻も必死だ。如月に掴まれた手をしっかと握り返して、龍麻は再び閉じていた目を開いて「翡翠」と呼んだ。
「ああ」
「翡翠……っ。気持ち、いい…?」
「いいさ。勿論。龍麻は」
「俺……俺、おかしくなる…っ。翡翠、あ、熱…あっ、は、あ、あぁッ」
腰を奥に進めて更に強い抱擁をした如月に龍麻が言いかけていた言葉を消した。いつの間にか浮かび上がっていた汗が額から落ちて、如月はそれを眺めながら、また龍麻の白い裸体を視界に留めながら、自分がたった今犯している禁忌に眩暈を覚えた。
「龍麻…動く、よ」
「うん…っ。あ、あ、翡翠…っ。もっと…もっ…」
「……ああ。龍麻の望むようにするよ」
そう言いつつ、如月は龍麻の中を傷つけまいと実に丁寧に、まるで撫ぜるだけのようにゆっくりとその中を掻き混ぜた。
「はぅ…っ」
それでも龍麻には十分きついのか苦しそうな声が漏れる。
「……ッ」
だから、その顔を見つめながら思う。
ほら、やっぱり駄目じゃないか。
これ以上激しくする事なんて出来ないじゃないか、と。
「あっ…あん…翡翠、翡…っ」
「龍麻……好きだよ」
望むのならば幾らでもそうしてやる事が出来る。欲しがっている言葉も幾らでもあげる。
けれど、「それ」は絶対に出来ないのだと、如月は上昇する熱を感じながら一方で冷静に、自分たちの行為を観察していた。
最初に「したい」と言って抱きついてきたのは龍麻だった。
如月はそう言われた時、真っ先に「龍麻は他の連中ともしているのだろうか」という事が気になって、そんな自分に無性に腹が立った。
だから初めての時は自身でも信じられない程乱暴に抱いてしまい、龍麻を随分と泣かせた。龍麻も「翡翠がこんな奴だとは思わなかった」と随分詰って、暫くは店にも近づかなくなった。
だからその不毛な関係も1度きりだと思っていたのだけれど。
いつの間にやら、また龍麻は如月の店を訪れるようになった。そうして、「抱いて」と遊女のように誘うのだ。
だから如月は、あの頃の失敗はもう二度としないと決めている。
「つまらない」
「え」
けれどその夜、いつも不平を言うは言うが、少なくとも行為の後は割と甘ったるい時間を享受したがる龍麻が如月に唇を尖らせて言った。
「つまらない」
「…何がだい」
「翡翠とするのが」
「………」
「物足りない」
ズバリ言われて、如月としてもさすがに傷ついた気持ちになったのだが、そこは顔には表さずにとりあえずは「そうかい」とだけ返した。もしかしたらいつもの単なる我がままかもしれないし、いちいち相手をするのもどうかと思ったからだ。
幾ら主と言えども、そうそう勝手ばかり許しているわけにもいかないし。
「何だよそれ」
けれど龍麻は案の定不満そうに呟いた後、ガバリと布団を頭から被って、傍でお茶の用意をしている如月から完全に姿を隠してしまった。まだ身体を清めていないから風呂にも入れてやらねばならぬのに、こんな風にいじけられるのは困るなと、心内でそっと思う。そしてとりあえずは水分を取ってもらわなければ、とも。
「龍麻。お茶を入れたよ。冷茶だし、すっきりするよ」
「いらない」
「要らなくても飲んだ方がいい」
「いらないんだ。しつこい」
「………」
後半の言葉の口調があまりに強かったもので、如月は一旦口を噤んだ。そして瞬時、「翡翠はキスばっかりしてしつこい。早くして」と抗議した最中の龍麻を思い出し、やや鼻白む。
大切なのだから当たり前じゃないか。何故いつも不平ばかり言うんだ、この男は。
「龍麻」
それでも立場は圧倒的にこちらが不利なのだからと諦めて、如月は仕方なくもう一度己の主の名を呼んだ。そう、思えば従者が主人を抱くなどと不埒な事をしでかしている時点で自分は堕ちるところまで堕ちているのだ。もしもこの事を祖父や父が知ったなら…否、父は何も言わないかもしれないが、少なくとも祖父は激怒し、自分を如月の姓から抜こうとするに違いない。命があるかすら怪しいものだ。
そんな風に思い至って、如月はまた一つ溜息をついた。色に寄っている自分が心底情けなかった。
「今の溜息、何」
するといつの間にこちらを見ていたのか、龍麻がひょいと布団を上げたままの格好で如月を見ていた。不覚にもその所作に気づいていなかった如月は、声を掛けられ初めてその主のまだ一糸纏わぬ姿を直視してしまったのだが、「ああ、やっぱりこんな事をしている場合ではない」とは改めて自覚させられて、「何でもないよ」と早口で答えた。
それからすぐに龍麻の傍へ寄り、透明なグラスの器に入った緑茶を差し出す。
「お茶を飲んだら湯を浴びに行こう。手伝うから」
「今の溜息は何って訊いてんの」
「龍麻には関係ない事だよ」
「嘘だよ。俺に関係ない事を、翡翠が考えたり想うわけないもん」
「そ……れは、凄い言い草だな」
まあ実際そうなのかもしれないと思いながらも、それでも如月はとにかく裸の龍麻が気になって、傍にある浴衣を引っ張り出して龍麻に押し付けた。龍麻はそれをうざったそうに手に取った後、あっという間にそれを遠くへ投げ捨ててから上体を起こし、ふいとそっぽを向いた。如月が手にしている緑茶も手にしようとはしなかった。
「本当の事だろ」
いじけた様子で龍麻が言った。
「俺の事、考えてたでしょ」
「……まあ否定はしないよ」
「ほら」
「だが、別に君に対して何か含むところがあってしたわけじゃない。悪かったよ。ただ…自分の事を考えてしただけだ」
「何考えてたの」
さっと如月の方を見て龍麻が訊いた。ゆらゆらと揺れるその黒い瞳は酷く艶っぽくて美しく、また己の中の身体が沸騰しそうになって如月はすっかり参ってしまった。
これは本当にまずい。
龍麻と距離を取った方が良いのではないかと思うくらいに。
「翡翠」
黙ったまま何も言おうとしない如月に、龍麻が催促するように呼んだ。
それで如月も仕方なく「言うよ」と再び嘆息しながら首を振った。
「君の事が愛し過ぎてね。どうしようもない自分に呆れていたんだ」
「………」
「それだけだよ」
「……そっか」
すると、そんな素直な回答を寄越した如月に龍麻はこくんと自らも素直に頷くと、ここでようやっといつも仲間たちに見せるような柔和な笑みを浮かべた。
「何だ。そっか。それならそうと、早くそう言えばいいよ」
「言えるわけがない」
「翡翠はそういう奴だよな」
こうしてする時もなかなか焦らしてやってくれない。お前は本当に酷い奴だよ、と。
龍麻は、そうあっさりと言い放つと、今度は声を出して笑った。
「何だいそれは」
それで如月も今度は自分こそが不満だという顔を向けて抗議の声を上げた。このところ氷の男がよくもまあ浮かれたり腹を立てたり焦ったり。表情を出してしまうなと不覚に思う。
全部この目の前の男が悪いのだけれど。
「あんまり大切にしなくていいよ」
すると龍麻が突然そう言った。言って、驚いて顔を上げる如月の頬を片手でさらりと撫でて、龍麻はまた笑った。
「最初はびっくりしたんだけどさ……。俺、本当は、そうやって素を出してる翡翠の方がいいみたいだから。まあ、勿論……いつも冷静で格好いい、守銭奴な翡翠も好きだけど?」
「……最後のは余計だよ」
「翡翠。お風呂入る。手伝ってよ」
「……相変わらずマイペースな人だな。だが、分かってるさ。言われるまでもない」
一方的に話を振ったくせにもうその会話を締めてしまう。そんな龍麻に肩を竦めて、如月は半ば諦めたように苦く笑った。ただ、どうやら自分も、そして龍麻の方も、いつの間にか機嫌がすっかり良くなっている事に気づく。前戯が長いのよりも、こうして余韻を楽しむ方が良いのかもしれないと何となく思い、如月はまた龍麻を抱きたくなっている自分に少しだけ呆れてしまった。
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