爪 その夜、何故か龍麻はしきりに自らの親指の爪を噛んでいた。 「 龍麻」 「 ん…ああ、ごめん……」 この一時間の間に一体何回注意しただろうか。如月は心の中でため息をついたものの、なるべく顔には出さずにぼうとテレビの画面を見やっている龍麻のことを観察した。しばらくすると、龍麻はまた同じように親指の爪を歯を立ててがじがじと噛み始めた。爪は大して伸びているようにも見えなかったが、それでも龍麻はしつこくそこに、そこだけに噛み付いて、視線だけは変わらずテレビの方へとやっていた。普段から爪を噛むなどという癖はなかったはずであるのに、一体どうしたのだろうと如月は不審に思った。 夕刻、店にやってきた時は別段龍麻にいつもと変わった様子はなかった。思い立って突然ふらりとやって来るのは珍しい事ではなかったし、武器や回復薬などをしきりに観察した後「夕飯を食べて行ってもいいか」と訊いてきた時の態度もごく普通のものだった。共に食事をしながら他愛もない話をし、如月が出したお茶も「おいしい」と言って嬉しそうに飲んでいた。特に何かがあったとは思えなかった。 それなのに、龍麻はしきりに爪を噛んでいた。如月にはそれが気になって仕方なかった。 「 ……龍麻」 「 ん…ああ…ごめん」 しかし如月が呼ぶと龍麻は再び同じようにそう答え、ぴたりと動きを止めてしゃぶっていた口から指を離した。それでも噛み付きすぎて深爪してしまったような親指をもう片方の手の指でさすっている。痛いのだろうかと、少しだけ思った。 2人しかいない割と広い座敷の中でテレビから漏れる能天気なタレントたちの笑い声が妙に響き渡っていた。しかし龍麻はそれを真剣に見ているようなのに、テレビの中にいる観衆たちと違ってその番組が可笑しくないのか、ぴくりとも笑わなかった。ただじっと画面を見やりながら爪をいじくるだけだ。 如月は遂に我慢できなくなって先刻よりも一段高い声をあげた。 「 龍麻、爪きりを貸そうか」 「 え……」 「 伸びているから気になっているんだろう」 「 ああ…別にそういうわけじゃ……」 言われて龍麻は再び爪から口を離し、決まり悪そうに如月のことを見やった。それから申し訳なさそうに小さく笑う。 「 ごめん、何か…。翡翠、気になっているみたいなのに」 「 それは気になるよ。さっきから子供みたいに指をくわえて。君にそんな癖あったかな」 「 いや別に……」 龍麻は言ってから今まで散々しゃぶっていた指をもう片方の手で包みこむようにして隠した。それから膝を丸め、壁に寄りかかってふうとため息をついた。疲れているようだった。 「 ……もう寝たらどうだい」 「 ああ…うん…」 「 疲れているんだろう? 今日は泊まっていくつもりだったんだろう。蒲団を敷いてこようか」 「 ああ…」 龍麻は曖昧に答えてから、所在なさげにつけっぱなしのテレビに視線をやった。しかしそれから、思い余ったように如月に視線を送る。それは何かを訴えたいのに言えないというような態度だった。 「 翡翠…やっぱり爪きり貸して」 「 え…ああ、構わないが」 何なのだろう。如月は煮え切らないものを感じながら、しかし言う通りに棚から爪切りを出すと龍麻にそれを渡した。 「 ありがと…」 龍麻は言った後、しかしそれを手にしたまま黙りこくった。 「 ……一体どうしたんだい」 「 …………」 如月の問いに龍麻は答えなかった。そういう人だと分かっていたけれど、如月はそれでもはっきりしない龍麻に少々の苛つきを覚えた。だから如月はふうと大きくため息をついた後、渡したばかりの爪きりを取り返し龍麻の手を強引に取った。 「 ひ、翡翠…?」 「 君はいいよ、やらなくて。僕がやるから」 「 い、いいよ…自分でやれるから」 「 そうは見えないけどね」 如月は冷たくそう言ってから、しかしなるべく優しくその手を取り直すと丁寧に切り過ぎないように龍麻の爪を切り始めた。ぱちりぱちりと良い音がして、龍麻の爪の欠片は何も敷かれていない畳の上に無造作に落ちた。それでも如月は構わずに実にゆっくりとした動作で龍麻の指の爪きりをし続けた。 「 ありがとう…」 「 そんなに伸びていなかったけど。足の方もやってあげるよ。出して」 「 うん…」 今度は龍麻は素直に如月に足を投げ出した。先刻湯からあがったばかりの龍麻の足は丁度ほんのりと火照っていて、いつもは白いそれが桃色がかって艶やかだった。如月はそんな龍麻の差し出された足の指の爪をまた同じように切り出した。 龍麻は黙ってそんな如月の姿を見ていた。 「 昨日」 しかし急に龍麻は口を切った。 「 爪の中に土が入った」 「 うん…?」 何を言い出しているのかよく分からず、如月が動かしていた手を止めると、龍麻はただじっと自分の足元に視線をやっていた。そしてもう一度言った。 「 土がね…入っていたんだ」 「 それが…?」 「 汚かった」 「 …………」 龍麻の言いたい事がイマイチよく分からなかったが、如月は昨日の事を思い巡らした。そういえば自分は仕事の都合がつかなくて参加しなかったが、恒例の旧校舎潜りをしていたはずだ。そこで何かあったのだろうか。 けれど龍麻は如月のその考えが読めたのだろうか、先回りして首を横に振ると、「何でもないんだ」と言った。 「 別に…昨日何があったってわけもないんだ。いつもと同じだったよ。いつもと同じように潜れるだけ潜ってさ…。みんなどんどん強くなっていた。俺も…ちょっとは強くなったかな…」 「 君は確実に成長しているよ」 「 そう…だろうな…」 「 ………」 「 ………ごめん、何でもないんだ」 しかし龍麻は再度そう言って、けれどぐっと唇を噛むと何かを堪えるように目をつむった。 「 龍麻…?」 「 何でもない…何でも……」 「 そうは見えない」 「 ………」 龍麻は答えなかった。 不意に如月は自分の胸の中で何かが急激に湧き立つのを感じた。我慢ならなくなり、その勢いのまま龍麻の足首をぐいと掴んだ。 そうして如月はそのまま龍麻の足の裏に自らの唇を当てた。 「 ひ…翡翠…?」 「 ………」 「 な、何…してんの…」 「 キス」 「 だ、だってそんな…とこ……」 「 君が好きだ」 驚く龍麻には構わずに如月は屈んだ体勢のまま挑むような目を向けて言った。 「 出会った当初の僕は確かに君に忠誠を誓ったけど、僕が君の傍を離れないその理由が飛水の使命のせいだけだと思うかい」 「 ……翡翠」 「 こんな事いちいち言わなくても、君はもうとうに知っているのだと思っていた」 「 ……ちがう」 龍麻は苦しそうに首を横に振り、それから如月に掴まれていた足を強引に振り引っ込めた。両膝を曲げ、それを両腕で抱える。俯いた先で龍麻は再び親指を口に含んだ。 「 何が違うんだ、龍麻」 如月が問うと、龍麻は再度首を横に振った。 「 ……もし俺が…この立場にいなかったら、翡翠はきっと俺のことなんか見向きもしないよ」 「 だからそれこそ違うと言っている」 「 違わないよ…」 龍麻は否定する如月に更に頑として否定の言葉を吐き、それからハアと苦しそうに息を吐いた。そして顔を逸らしてからぽつと言った。 「 翡翠…。俺、もうすぐ壊れるかも」 「 龍麻…?」 「 もうすぐ…駄目になるかも。それが不安なんだ。寂しいんだ。独りでいるのが…怖い」 「 龍麻」 「 だから俺、翡翠に甘えにきたんだ。これは本当だよ。でも、どうやって甘えていいか分からなかった」 「 ……君は」 如月は思わず龍麻のことを引き寄せ、強くきつく抱きしめていた。いつも強大な敵と立ち向かい、相手を木っ端微塵にする頑強な龍麻が、この時ひどく細くて小さい存在のように思えた。 「 君はただ…こうやって僕に縋るだけで良かったんだ」 「 おかしい…俺、男なのに」 「 関係ない」 如月はきっぱりとそう言い、それからそっと刻むような口付けを額に降らせた。龍麻は静かだった。ただ如月の胸に顔を押し付け、ぐっと息をひそめているようでもあった。だから如月はそんな龍麻の背中をただ強く抱きしめ、耳元に囁いた。 「 僕が傍で見ていてあげるよ。君が壊れないように」 「 ………分かるの」 「 分かるさ」 自分のその返答に龍麻の心臓の鼓動がとくんと波打つのが如月には分かった。如月は自分に顔を寄せる龍麻の髪の毛を優しく撫でると、ひどく儚い顔をしている愛しい人の顔を覗き込んだ。そしてそっと手を取ると、龍麻が先刻までしきりにいじっていた指を今度は自分がそっと口に含んだ。 「 翡翠…」 「 もし君の中のどこかが汚れても、僕がこうして清めてあげるよ」 「 ……俺は」 「 君はこの手を差し出すだけでいいんだから」 龍麻の指に唇を当て如月が再度そう言うと、龍麻は遂に口を閉じた。その表情は決して安堵してはいなかったけれど、それでも龍麻は如月に触れられている手を引っ込めようとはしなかった。 如月に触れられた龍麻の爪はその唾液でしっとりと濡れて光っていた。龍麻はただ、そんな自分の爪を眺め続けていた。 |
<完> |
■後記…爪を切ってあげるって、従者なら当然の基本事項じゃないでしょうか(そうか?)。ただそのシーンを書きたいが為に書いたお話です。それにしても如月に甘える龍麻って大抵鬱々としてますね。 |