雨の朝
ねえ、先生。
先生はいつもそうやって無関心を装っているけどサ。
俺は知っているんだ。
先生が本当はすごく情の深い人だって事を。
先生が本当はすごく純粋な人だって事を。
先生が本当はすごく俺を愛してくれているって事を。
ねえ、だから。先生。
俺がここにいる時くらい、そういう顔はやめてくれない?
「 …………」
犬神が何故かひどく重い気持ちで目覚めた時、外はどしゃぶりの雨だった。ザーザーと激しいその音は部屋の中にまで大きく響き流れ込み、犬神の気持ちをより一層陰鬱にさせた。柄にもなく物寂しい匂いを嗅いだなどと思ってしまった自分が嫌だった。
今日が日曜日で良かったと思う。
「 寝ないでよ?」
その時、ついと声が聞こえた。
「 寝ないで」
「 …………」
ふと視線を足元の方にやると、部屋の入り口近くの柱にちょこんと座り込んでいる人物が見えた。こちらをじっと見つめてくるその瞳ともろに目があった時、犬神はしまったと思った。
「 二度寝しそう。折角起きたと思ったのに。駄目だからね」
「 緋勇か……」
「 うん。緋勇龍麻」
ぽつりと名前を呼ぶと、呼ばれた当の龍麻はとても嬉しそうな顔をして目を細めた。そして両膝を抱え恥ずかしそうに一瞬顔をうずめたものの、すぐにまた顔を上げると横になったままの犬神を伺い見るような仕草をした。
まったく可愛い顔をする、と犬神は素直に思う。
「 ……今、何時だ」
「 6時、かな。それより雨の日って鼻は利かないんですか? 先生いつも俺が近づくのが分かると素早く逃げちゃうのに。今日はいたから」
「 は……」
苦笑する龍麻に犬神の方も口の端を上げて皮肉な笑みを浮かべた。それでもすぐに抗議をする気にはなれなくて、ゆっくりと上体を起こした後、まずは床に転がる煙草の箱に手を伸ばした。ぐしゃりと無造作にそれを掴み、残り1本の煙草をすとんと取り出す。
これでようやく龍麻の顔をまともに見られると犬神は思った。
「 お前。ここの鍵はいつ盗ったんだ」
「 嫌だな。人を泥棒みたいに。ドア、ぶち壊して入ったんですよ」
「 ……緋勇」
「 嘘。えーと、ちょっとした隙に鞄から失敬して。型取って合鍵作っちゃった」
何でもない事のように龍麻はそう言って笑った。さすがに一緒に笑う気はしなくて、犬神は箱から取り出した煙草を手にしたまま、しばしそんな不敵な教え子を厳しい眼で見やった。
教え子。そうだ、コイツは教え子なのだ。
信じ難い事に。
「 先生、今くだらない事考えたでしょう」
龍麻が犬神の心意を読み取ろうとするような目を向け、楽しそうに言った。けれどそれもほんの一瞬で、龍麻はすぐにそんな表情を引っ込めると、やや俯き加減になり「でも良かった、本当に。いてくれて」とだけつぶやいた。
それで犬神は再び渋い顔をした。
「 ……休みの日の、しかもこんな早朝にお前が来るからと言って何処かへなんか行ってたまるか。ここは俺の領域だぞ」
「 ……まあ」
「 しかもこんな大雨の日に。お前もよく来る気になったな」
「 ええ、まあ。まあ、そうですね」
歯切れの悪い龍麻。こういう時はいつも何かを抱えているのだと犬神は知っていたが、かと言って向こうがすぐにそれを切り出す事がないのも知っていた。
「 何しに来た」
それでもいつものように訊いてしまったのは、やはり自分がこの少年に甘いせいだろうかと思う。
「 ねえ、先生は学校のテリトリーである生物室にいる時は、俺が行くとすぐ逃げますよね。どうしてですか」
「 ん……?」
「 何ですぐ俺を避けるの。学校ではさ…他人以上に他人」
「 ……おい。俺は何をしに来たのかと―」
「 はい、火」
犬神の問いには応える気がないのか、龍麻はあっさりとそう言うと、ずりずりと這うようにして移動し、犬神の元へライターの火をさっと寄越してきた。安物のそれからカチリという音と同時にぽうっとした青白い炎が浮かびあがる。
犬神は龍麻の顔を眺めてから、黙って煙草を咥えたままその火を貰った。
「 先生っていつも同じの吸いますよね」
「 ……ああ」
ふうと紫煙を吐き出しすっと視線を下に向けたが、龍麻が不快な顔をしたのは分かった。自分と向き合おうとしない事を責めているのか。それともただ寂しいだけなのか。
「 ねえ…先生」
何かを抑えているような、けれど我慢できないような。
甘えるような縋るような声が耳元で聞こえて、犬神は目覚めた時の気分のまま重く暗い気分に陥った。
見守るとか支えるとか。
ましてや誰かに救いの手を差し伸べてやるとか。そういう事を自分に課すのはやめてくれ、と率直に思う。この少年を愛しいと思い、また哀れだとも思うが、あまり関わり合いになりたい部類の生き物でない事も事実だった。
それでもこの生き物は自分の事が好きだと言う。
突き放してもそ知らぬ顔をしても、この生き物は何故か俺につきまとうのだ。一体この俺の何に期待しているのか。
そして、自分もまた。
近づきたくないと、危険だと知っていたのに。今でも十分分かっているのに、この少年に―。
「 ……先生。無視しないでよ」
物思いに耽っていると、急に傍で泣き出しそうな声が聞こえた。視線を上げると、そこにはもう今にも崩れ落ちそうな顔があった。これで多くの仲間を手に入れているのかと思った。
胸の奥が熱く蠢いた。
「 ……そんなつもりはない」
「 嘘だ。早く帰れって思っているくせに」
「 言っても帰らんだろう、お前は」
「 うん……帰ってなんかやらないよ」
途端、ぐっと抱きついてくる二本の腕。そして身体。小さな頭が子供のようにこちらの胸にすりつけられた。ああ、きっと昨日も何かあったのだろう。そう思ったが、こうなってはもう丁寧に訊いてやるだけの心の余裕は自分にはないなという気がした。
目の前の存在に、ただ惹きつけられる。
「 先生だけを楽になんかしてやらない。そんなのはズルイ」
その時龍麻が初めてはっきりと責めるような言葉を吐いた。
「 ずるい?」
「 うん…」
犬神の問い返しに途端龍麻の声に精彩がなくなった。言い切るくせに、すぐにトーンダウンするのだ。こんな風に言ってしまって良かったかと、もう迷い始めている。
そんな龍麻を本当に可愛いと犬神は思った。
「 ………ずるいか」
「 うん。俺がこんなに好きだって言っているのに…ずるいよ」
「 …………」
「 ずるい……」
龍麻は一瞬言い淀み、けれど、更に犬神に抱きつく腕に力を込めた。そして不意に顔を上げると犬神の咥えていた煙草を取りあげ、自らの唇を近づけた。
「 先生…」
「 やめろ、緋勇」
けれど犬神はそんな龍麻の唇を自らの指で遮った。思い切り傷ついた表情がこちらに向かって飛び込んでくるのが分かったけれど、どうともしてやれなかった。
「 お前はそういう真似はするな」
「 何で」
「 何でもだ。……お前を抱く気はない」
「 どうして……。どうして……前は抱いてくれた……」
「 ………」
龍麻の言葉で苦い思いが蘇った。請われるままにただ慰めてしまった夜があった。ただ優しく甘くさらりと撫でた程度の抱擁。
「 あの時は……一緒にいてくれたのに……」
「 後悔している」
「 どうして……」
「 ………」
あんなのは、抱いたうちに入らない。
「 俺が…おかしいから」
龍麻の自嘲するような声に、犬神は思い切り不快な顔を向けた。それからぐいと龍麻の顎を掴むと、無理に自分の方へ引き寄せた。途端、驚いたような見開いた龍麻の目から小さな光が零れ落ちた。
「 先…生…?」
「 馬鹿を言うな。俺だ…俺が、おかしいからだ」
「 え…?」
「 俺はお前に触れると……」
あの日から。
この抑えようのない気持ちがどんどん湧いて出て。どんどん抑え難くなってきて。
お前を壊しそうになるんだよ。
「 ……一緒にいたいのに。先生はどうして…いつも子供扱いだ……」
龍麻が消え入りそうな声で言った。犬神の胸に顔を押し付ける龍麻の身体は小刻みに震えていた。たまらなくなって、犬神はそっとその小さな震える頭を一度だけ撫でた。
「 …先生」
龍麻が泣き腫らした目を犬神に向けてきた。訴えるような、それでいて強い意思のある光。自分にはこんな芸当は絶対にできないと犬神は思った。
「 先生は…俺が先生を理解できないと思ってる…。俺には無理だって思ってる。そんなのはね…錯覚なのにさ…」
「 …………」
「ねえ、先生…。そんな顔しないでよ。俺、先生のことを知りたいよ…」
龍麻の言葉に、犬神は最早自分がどんな表情をして良いのかすら分からなかった。この自分の恐ろしく汚れた気持ちをこの人間に教える。そんな事をする勇気が、果たして自分にあるのだろうか。
「 緋勇…もう、帰れ……」
「 …………」
一言それだけを発したが、返答はなかった。
「 緋勇……」
「 ………嫌だ」
そしてやっと返ってきたその言葉と同時に、更にぎゅっと強まる力。それでも小刻みに震える手。龍麻は犬神に抱きついてしばし離れることがなかった。
「 ………龍麻」
限界だった。犬神は龍麻の背中にそっと手を回すと、深く息を吐き出した。きつく引き寄せると向こうは安心したように、けれど更に顔をこすりつけて息も漏らさなかった。
だから龍麻に取り上げられた煙草を取り返すと。
「 ………ッ」
犬神はすぐにそれを口にし、吐き出しそうになる何もかもをも飲み込んだ。
|