キャンディ
子どもの頃から職員室は大の苦手だった。
「 失礼します…」
ドアを2度ノックし、龍麻は静かな声と共にその異質空間へ入りこんだ。
放課後の職員室は閑散としている。部活動に顔を出す教師が多いという事と、居残って仕事をするには、今はもう大分遅い時間だからという理由のせいだろう。
ガランとした職員室にぽつぽつと見受けられる教師の姿。皆ちらと龍麻の方を見やるが声を掛けてくる者はいない。龍麻は自分を呼んだ教師の机まで歩いて行き、改めてその人物がいない事を確かめてから小さくため息をついた。
「 緋勇か。どうした」
その時、ようやく所在ない龍麻に声を掛けてくる者があった。
独特の煙草の匂いで顔を上げなくとも分かる。声を掛けてきたのは生物教師の犬神だった。
「 あの…マリア先生は?」
あまり面と向かいたくないのだが。ちらとそう思いながらも龍麻は仕方なく相手の顔を見て言った。
「 お話があると言われて来たんですけど」
「 ん…呼ばれていたのか。その割には随分と来るのが遅かったんじゃないか」
「 はあ…」
犬神の指摘に龍麻は曖昧な返事をして誤魔化した。
来るのが遅い。それはそうだろう。何せ今の今までここに来るのが嫌で、ずっと図書室で油を売っていたのだから。別段読みたくもない本まで読んで。
担任教師のマリアから「HRが終わったらすぐに職員室に来るように」と言われた時、龍麻は思わず露骨に嫌な顔をしてしまった。
龍麻は教師という類の人間が苦手で、マリアという女性が苦手だった。つまりは、彼女と話などしたくなかった。しかし、だからと言って「貴女とは話したくありません」と言い切れる程、龍麻は自己主張の強い人間でも好戦的な人間でもなかった。むしろ性格はその逆と言えた。
有り体に言えば、龍麻は自分というものを探られる事にひどい恐怖感を覚える人間だった。
子どもの頃から「他と異質なモノ」として育てられたせいだろう。人と深い話をするのが怖いのだ。
だから学校は特に疎ましい場所であると思う。生徒を監視する教師の溜まり場、職員室も。
「 マリア先生ならもう帰られたぞ」
龍麻のぼんやりとした顔を無機的な眼で眺めながら犬神は言った。
それから丁度淹れてきたばかりなのだろう、湯気の立つコーヒーカップを机に置きながら、ぎしりと椅子を鳴らして自席に座る。
犬神は龍麻を傍に立たせたまま言った。
「 こんな遅い時間まで何をしていたんだ」
「 別に…」
「 危ない事はするなよ?」
「 …してませんよ」
言われると思った。
龍麻はうんざりして犬神から目を逸らした。
以前、腕を磨く為と1人旧校舎へ潜ったところをこの犬神に目撃され、以来龍麻は何度かこのような牽制を受けていた。《力》のことを深く詮索された事はないが、恐らくこの得体の知れない生物教師はこちらの事情を何もかも知っている。何となくだがそれは分かった。
色々と勘ぐられたくない。
「 ………」
そう考えるとマリア以上に係わり合いにならない方が良い相手かもしれない。龍麻は自然身体を強張らせた。
「 あの、それじゃ…失礼します」
「 緋勇」
しかし、急いで背を向け去りかけた龍麻に犬神は素っ気無くだがごつんとした言葉を投げて寄越した。
「 嫌なら何故残っていたんだ?」
「 え……」
突然言われたその言葉に龍麻が反応して振り返ると、犬神は煙草に火をつけながら再度さり気ない口調で続けた。
「 マリア先生の呼び出しに応じたくなかったんだろう? そのまま帰ってしまえば良かったじゃないか」
「 そんなの…」
「 蓬莱寺など、何度俺の呼び出しをすっぽかしているか知れんぞ」
「 ………俺」
痛いところをつかれたなと思いながら龍麻は犬神を見つめたまま、押し黙ってしまった。
自分でも興味のない本を開きながら思っていた。帰ってしまえばいい。話をしたくないなどと言う断りは入れられないが、翌日に忘れていました、すみませんでしたと言って謝ってしまえば済む事ではないだろうか。それならば、自然に彼女を避ける事ができるのではないかと。
それなのにどうして自分はいつまでもだらだらと残ってしまったのだろう。今頃来ても彼女がもう帰ってしまっている事など、容易に想像できていたというのに。
そう、彼女がもうここにいないだろう事など、自分はちゃんと知っていたのだ。
「 緋勇」
すると犬神はそんな龍麻の心意を測ったような顔をして薄っすらと笑んだ。
「 え…」
いつも無愛想なこの人でも笑う事があるのかと驚く龍麻には構わず、犬神はちょいちょいと手招きをして珍しく明るい声で言った。
「 こんな時間まで残って勉強していた褒美だ。良い物をやろう」
「 え?」
「 いいから来い」
「 ………何ですか」
「 用心深い奴だな。余計な事は言わなくていい。俺も聞きたくもない。そういうんじゃないから、いいから来い」
「 …………」
まるで疑り深い野良猫に言い聞かせるような口調だ。
龍麻は多少むっとしたが、それでも上目遣いのまま恐る恐るという風に犬神に近づいた。
「 ほらよ」
するとぐいと強引に手のひらを開かされて、何かを幾つか握らされた。
「 あ……」
それは色とりどりの紙に包まれたキャンディだった。
「 これ…?」
「 俺が住んでる貸家の大家から貰ったんだ。禁煙をしきりに勧めてきてな。やたらと口やかましい人なんで感謝したフリして貰ってみたが、俺は甘い物が嫌いなんだよ」
「 ………」
「 これだけ長い間本を読んでいたら喉も渇いてるだろう」
「 な、何で…」
知っているのかと問いかけそうになって龍麻は思わず口をつぐんだ。色々な事を詮索されたくないと、教師と話などしたくないと思っていたはずだ。下手に口を利いて余計な事を口走ってしまっては元も子もないと思う。
「 ………」
「 何だ、お前も甘いのは駄目なクチか?」
何も言わない龍麻に犬神は別段がっかりした風もなく言った。それから煙草を吸い、ふっと紫煙を吐く。
「 あ……」
そんな犬神の様子に思わず龍麻は何事か言いかけ口を開いた。自分でも何が言いたかったのか分からずに。
「 ……どうした?」
「 あ…い、いえ…」
「 そうか」
犬神はゆったりと寛いだ様子でただ煙草を吸っている。
陰気な高校生に、他の生徒とは明らかに異質なモノを纏う龍麻に、構えた感じはまるでなかった。
「 ………」
龍麻はゆらゆらとたゆたうその煙を黙って見つめ、それから貰った飴玉をぎゅっと掴んだ。
「 俺…」
不意に龍麻は乾ききっているはずの唇を動かし、声を出した。
どうしてか犬神と話がしたいと思った。
「 ん」
「 甘い物…好きです」
龍麻がようやくそう言うと犬神は目を細め、それから口の端だけで笑って見せた。
「 そうか」
「 昔はそんなに舐められなかったから、こういうの」
「 そうなのか?」
「 はい」
龍麻は頷いてから握ったキャンディに目を落とし、続けた。
「 俺、両親がいなかったから色々なところ転々としたけど…。時々稽古がうまくいった時、とか…」
何を言っているのだろう。いい加減黙った方がいいかもしれないと思いつつ、龍麻は動き出した口を止める事ができなかった。
「 爺さんが生きてた頃は…あ、預かってくれてた家の…その人が気紛れでくれたりすると凄い珍しくて…」
「 ほう……」
「 その人もいつも先生みたいに煙草吸ってた…」
「 そうか」
「 ………」
「 ……? おい、緋勇」
犬神が呼んでいる声は龍麻にもきちんと聞こえていた。
しかし、返答できなかった。
「 ……緋勇、どうした」
黙りこんでしまった龍麻に当然犬神は不審な声をあげた。それでも龍麻はすぐに答えられなかった。
感傷などというものは自分とは無縁のものだと思っていたのに。
こんな所で何を突然思いだしてしまっているのだろうか。バカバカしいと思う。
子どもの頃の事なんて、昔の事なんて、今と何の関係があるのだろうか。こんな風に過去を思い出したくないから、自分は他人に自分というものを探られるのが嫌だったのではなかったか。
それを誰にも促されず自らやってしまうとは我ながら呆れてしまう。
「 緋勇」
「 ……はい」
何度目かの犬神の呼びかけに、龍麻はようやっと返事ができた。
「 大丈夫か」
「 何が…ですか」
「 俺は分からんよ。お前は分からないのか」
「 ………」
分からなかった。
ただ分かるのは、今のこの状態だけだ。
この犬神が放つ落ち着いた空気に触れているだけでこんなにも泣き出しそうになっている自分がいること。
それだけが。
「 緋勇」
きゅっと唇を噛み、俯いているそんな龍麻に犬神は煙草を机上の灰皿に押し付けると、さり気なく龍麻の手の甲を撫でた。驚いて顔を上げると、当の犬神こそが困惑したような顔をしていた。
「 …今ここでお前が泣いたら、俺は他の先生たちに何を言われるか分からん」
「 は、い……」
「 だから、泣きたいなら生物室にしろ。いつでも鍵は開けておいてやるから」
「 え……」
犬神の思わぬ優しい言葉に龍麻はすっと顔を上げた。犬神は相変わらず何を考えているのか分からない静かな目をしていたけれど、そこに悪意のあるものは感じられなかった。
だからだろうか、龍麻は思わず言っていた。
「 ……が…いい…です」
「 ん? 何だ?」
貰ったキャンディを舐めてから言えば良かった。カラカラになった喉から発せられた声はまともな音として外に出なかった。
龍麻はごくりと唾を飲み込んだ後、改めて言った。
「 今、行きたいです…」
「 今…?」
「 はい」
「 あ、のな……」
犬神は龍麻のぽつりと呟いたその台詞に意表をつかれたようになって声を詰まらせた。
しかし、消え入りそうな声でそう言ったきり、後はじわじわと目元を潤ませ始めている龍麻にいよいよ焦ったのだろう、犬神はすっくと立ち上がるとさっさと先を歩き始めた。
「 先生…?」
「 来い。鍵を開けてやる」
「 え……」
龍麻は犬神の背中を見つめながら、途端じんじんと熱くなる胸を抑えてけほりと咳き込んだ。しかし自分の問いかけには答えず、あっという間に職員室から姿を消す犬神に慌ててしまい、自分も急いで後を追った。信じられない気持ちでただ必死に追った。
全くの盲点だったのだ。こんな近くにいたなんて。
甘い甘い、望むのも贅沢な優しさをくれる人。
「 先生…っ」
待って、と喉から言葉を出しかけると、先を歩いていた犬神の歩調が途端遅くなった。
「 は…」
龍麻は思わず口元を緩めた。そしてその瞬間、自分がいつまでも校舎に残っていた理由がはっきりと分かってしまった。
「 先生…」
勿論その理由を犬神にそのまま言う気は、龍麻にはなかったのだけれど。
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