放課後
それは12月の始めのことだった。
「 ワハハハハッ! 見たか、この蓬莱寺京一の実力を!」
真神学園では、期末試験の結果が生徒たちの元へと早々に返却され始めていた。
今日は数学と生物が帰ってくる日だ。 前の数学で散々な答案を返されてしまったらしい京一が、この生物の時間に限っては実に意気揚々とクラス中に聞こえるような笑声を発している。
「 蓬莱寺。嬉しいのは分かったから席につけ」
生物担当の犬神は呆れたように、 またうっとおしそうにはしゃぐ京一に声をかけた。それでも京一はうきうきとした足どりで親友である龍麻の席にまで近づくと、
自ら返されたばかりの答案を広げてきた。
「 見ろよ、ひーちゃん! 俺もやればできるンだなァ。へへへ、どうだ、尊敬したか?」
犬神はそんな京一の姿をじろりと見やる。
彼の点数は、46点。
「 いやァ、 俺、 こんな点数取ったの初めてかもしんねえ! マジで天才か? この間、居残りさせられた成果だな!」
「 それは君が宿題やってこなかったバツだろ、単なる!」
「 わっ、小蒔! 何だよ、急に!」
「 大体、君はそ・の・点であんなにいばってたの?」
いつの間にか京一の背後に来ていた小蒔が、
京一の答案を覗き込むようにして、馬鹿にしたような声を出してきた。
「 なっ! 何だよお前は! 勝手に見るンじゃねえ!」
「 何だよ、いい点数ならボクが見たっていいだろ!」
「 うるせえ! 俺はひーちゃんにだけ見せてんだよ! お前は俺がどんな点数取ろうがバカにするに決まってるからな!」
「 当たり前だよ、 そんなのでバカみたいに喜んでるんだもん、バカにしない方がバカだよ!」
「 てめえ! バカバカ言いやがったな!」
「 お前ら、いい加減にしろ」
犬神はさすがにウンザリしたようになって暴走気味の2人をたしなめた。 声は大きくなかったものの、さすがに迫力負けしたのか、2人はすごすごと席に着いて行った。
まったく、コイツらは…。
犬神は何ともなしに心の中でつぶやいて嘆息した。
こんな奴らがこの東京の、世界の命運を背負って戦っていると言うのだから驚きだ。いや、呆れるというべきか。
そんな事を何ともなしに密かに毒づいてみてから、犬神は次に返すべき生徒の氏名を見て一瞬動きを止めた。
「 ……緋勇」
しかしそれを悟られないよう、犬神は極力平静な声で相手の名前を呼んだ。
蓬莱寺たちの中心的人物、大きな宿命を負った黄龍の器。
緋勇龍麻。
呼ばれたその生徒――龍麻はすぐに席を立って、犬神がいる教壇へとやってきた。
「 ひーちゃんはまたさぞかしいい点数なんだろうなァ」
京一が害のない声でそう言う。
「 当たり前でしょ」
貴方と一緒にしないでちょうだい、とでも言いた気な美里の声も聞こえた。犬神はそんな友人たちの声を何となく耳に入れながら自分の目の前に来た龍麻の顔を見つめた。
「 …………」
それから黙って答案を差し出す。龍麻もそれを黙として受け取った。
5点。
「 …………」
龍麻は解答にバツ印さえついていない、ただ無造作に「5」とだけ書かれた数字を何となく目にし、それから犬神にちらと視線を向けてきた。
犬神はわざとそんな龍麻から視線を逸らせた。
機械的に次々と生徒の名前を呼び、答案を返していく。 龍麻はそんな犬神の様子を察しゆっくりと席に戻って行った。
「 先生、平均点は〜?」
「 先生、これ何でこの答えなの〜」
全員に答案が行き渡った後、どっと様々な方向から犬神に質問の嵐が降り注ぐ。
犬神はそれらの声を一蹴してから、また自分のペースで解答の説明をし始めた。
龍麻はそんな犬神の話を聞いているのかいないのか、ぼんやりとした瞳のまま、ただ窓の外へと目をやっていた。
そして授業後。
「 ――以上。 呼ばれた者は今日は居残りだ。 課題をやってさっさと提出しろよ。卒業したけりゃな」
「 ひでえよ、先生!」
「 大体クラス中に分かるように赤点者の名前言わなくても」
「 ヘッ! お前ら、俺のいつもの苦しみが分かったか!」
「 いばるな、京一!」
終業のチャイムと共に騒がしくなる教室。
犬神はその間際、今回のテストの赤点者の名前を呼び、別課題を与えることで今度の成績の救済策にすると告げた。
それに対してひーひーと悲鳴をあげる者が何人かいたが、
しかしその中に龍麻は入っていなかった。
犬神は龍麻の名前を呼ばなかった。
「 先生」
すると犬神が廊下に出て階段を降りようとしている時に、不意にその龍麻当人が声をかけてきた。
「 …………」
犬神は黙って振り返り、自分に声をかけてきた龍麻のことを見据えた。 龍麻はその視線に射すくめられたようで一瞬言葉を出すのが遅れたようだった。
「 ………何だ」
だから犬神が先に声を出してやると、龍麻はそれで慌てて口を開いてきた。
「 先生、何で俺の名前……」
「 ……ああ」
コイツでもそんな事が気になるのか。
犬神は意外な気持ちがしたが、そんな事かと言わんばかりの顔を見せてから実に素っ気無く答えた。
「 お前は中間が良かったからな。課題は免除だ」
「 …………」
「 何だ、不服か」
「 どうして」
「 ん……?」
龍麻の顔を犬神は不審の目で見やった。
この、自分の目の前で何やら思いつめたような顔をしている生徒は――何故だか時々こんな顔をして自分に縋ろうとしてくる。
犬神にはそれがひどく疎ましいと思うこともあれば、ひどく愛しいと思うこともあった。
ただ、この時は前者の気持ちが勝った。
「 話はそれだけか」
「 あ……」
「 次は頑張れよ」
犬神はそれだけを言うと後は龍麻に背を向け、階段を降りて行った。
「 先生…っ」
どうして。
そんな龍麻の声が聞こえたような気がしたが、犬神は敢えてそれを無視した。
何故、俺にそんな目を向ける。
それが不思議だった。
放課後。
「 お前で全員分だな」
「 はい〜」
生物準備室にいた犬神に最後まで教室に残っていた生徒が疲弊した顔で課題を提出して帰って行った。
「 まったく、何時までかかっているんだ…」
犬神は独りぼやきながら、それでもようやく一段落した気持ちになって机の上に無造作に置かれていた煙草を取ると、火をつけてふっと一息ついた。
しかし、まるでそれを見計らうかのように。
「 先生」
龍麻は来た。
「 …………」
何も言わない犬神に龍麻は居心地が悪そうにしていたが、黙ってすっとレポート用紙を差し出した。
「 何だ」
「 課題」
「 お前はいいと言っただろう」
「 でもやりました」
「 ……分かった」
犬神はそれを受け取ってからくるりと背を向けた。 この緋勇龍麻という青年も自分の生徒には違いないが、どうもそういう風には見ることができない。
犬神には自分の中に「そういう」自覚がある。
そして多分、相手にも。
「 先生は……」
背後で龍麻の悲痛な声が聞こえた。
「 どうして京一にはあんなに居残りさせたり…宿題出したりするのに、俺には何も…?」
「 お前はできるじゃないか」
「 でも今回は赤点でした」
「 わざとだろ」
「 違います」
「 わざとだよ」
「 ……じゃあどうして」
不意に背中に体温を感じた。
「 ……何だ、緋勇」
やはりだ。
コイツは縋ってきた。 龍麻の身体の熱を背中に感じて、犬神は心の中で心底憂鬱な気分になった。
他人を受けとめるのは、容易なことじゃない。
ましてや、この……。
「 じゃあどうして先生は……俺のこと助けてくれない?」
「 ………」
「 俺は何も感じない人形だとでも思っているんですか」
「 ………」
「 だから何が起きても平気だって? 普通の顔して、無為に笑って、無感情に戦って。血を流して喜んでいるって思っているんですか」
「 緋勇……」
「 俺は…っ」
龍麻の腕が犬神の身体に回された。ぎゅっと抱きついてくる。
ああ、そうか。この子供を。
自分が全て面倒見ることになるとしたら、一体どれほど大変で。
苦しくて。
嬉しいことか。
それが分かっているから、俺はこの子供を見たくないのだ。
「 先生、好きです…」
龍麻の告白に犬神は目をつむった。
「 …………」
「 ずっと、好きだったんです」
言われた。
言われたら、もう。
「 バカを言うな…」
犬神は大きく息を吐き出してから、龍麻の手の甲にそっと自らの手を当てた。
言われたらもう、離せなくなるのに。
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