きれいなもの



  普段は分からないところなどそのまま放っておくのだけれど、その日は何かに押されるように生物準備室のドアを開けた。
「 何だ緋勇。 珍しいな」
  探していた教師は案の定そこにいて、 珍しく煙草からは離れ コーヒーを飲んでいた。
「 座るか」
  ぼうと突っ立っている龍麻に自分の方が居心地悪く思ったのだろう。ここの主でもある教師―犬神―は、顎で傍の椅子を指し示すと龍麻にそこに座るよう促した。
「 あの、ここ質問なんですけど」
「 ん…?」
  犬神はややぽかんとしていたがすぐにいつもの表情になると、「どこだ」と言ってから龍麻が指し示したノートに視線をやった。
「 ……神経質な字だな」
  一言、犬神はそう言った。 龍麻はその犬神の発言に微かに眉を寄せたのだったが、敢えて何も言わずに黙っていた。
 
  犬神は丁寧に龍麻の質問に答えた。
 
( 何だ……)
  本当の教師みたいだ、と龍麻は思った。
  本当も何も教師なのだから龍麻の感想は犬神に対してひどく失礼なものではあったが、何故か率直にそんな想いが頭の中を駆け巡った。
「 緋勇。お前も飲むか」
  龍麻がひとしきり納得してからノートを閉じ礼を言うと、犬神は立ち上がってカップを手にしながらそう聞いた。
「 あ…いいんですか」
「 お前が別に急いでいないならな」
  犬神は言いながら、 ビーカーやら秤やらが並んでいる棚から一つのコーヒーカップを出した。龍麻は少しだけ嫌な感じがして恐る恐る訊ねた。
「 そのカップって…綺麗ですか?」
「 ああ? …まあ、死にはしないだろ」
「 先生のじゃないんですか」
「 俺のだったが…この頃使ってなかったからな。まあ、気にするな」
「 ………」
  言って犬神はカップを逆さまにすると、底の方に積もっていたらしい埃をぱっぱと床に捨てた。それから未だ顔を歪めている龍麻に気づいて、憮然とした表情を見せた。
「 おい、緋勇。お前まさか汚くて嫌だとか思ってないか」
「 ……ちょっと」
「 ……ほお」
  犬神は心底意外だという顔をしてから、「 まんまの性格だとはな」と訳の分からないことを言った。 そうして、今度はこれまたいつ頃買ったものなのか、いやに古ぼけた瓶を適度に傾けながら、犬神はその汚いカップにさっとコーヒーを入れた。
「 どういう意味ですか?」
  そんな犬神の様子を眺めながら龍麻は訊ねた。
「 ん? 何がだ」
「 まんまの性格って……」
「 ああ。お前の性格がその綺麗な顔のまんまってことだ」
「 ………」
  龍麻が不快になるのを承知で犬神がそういう言葉を出したのだろうということは分かった。龍麻は黙ったまま犬神に抗議の眼を向けた。すると犬神はそれを鼻で笑ってから、湯を淹れたカップを持ったまま再び龍麻の座る椅子の前に腰を下ろした。
  そして。
「 お前はそっちを飲めよ」
  そう言って、今淹れたばかりのコーヒーは自分が口にした。
「 …………」
「 こっちは嫌なんだろ?」
「 先生って……」
  龍麻は傍にあった今さっきまで犬神のものだった煙のあがったコーヒーカップを眺めたままつぶやいた。
「 俺のこと、嫌いでしょう?」
  一体何を訊いているのだろうというような事を口にした。

  この教師に直接自分の《力》の話をしたことはなかった。
  京一と違って個人的に話をしたこともあまりない。
  それでも、この男は自分を嫌っている。軽蔑している。ずっとそう感じていた。
  それなのに、どうしてここに来てしまったのだろう。

「 緋勇」
  そんな事を考えていると、犬神が呼んだ。
  顔を上げると、そこには相変わらず感情の読めない眼をした男がいた。
「 自分の気持ちを人に押し付けるのはやめろ」
  そして犬神は、そう言った。
「 お前を嫌っているのは、お前だろ」
「 …………」
「 嫌いな奴にコーヒーなんぞ淹れんよ」
「 でも……」
「 ましてや、自分の持ち物を貸したりしないさ」
「 でも、僕は……」
  龍麻は言ったきり、口をつぐんだ。
  それから急に居た堪れなくなり、立ち上がると犬神に背を向けた。
  声が震えていないことを願った。

「 でも僕は……すごく、汚い」
  きれいなんかじゃない。
  貴方は何も分かっていないじゃないか。
「 緋勇」
  犬神がまた呼んだ。龍麻は振り返らなかったが、それでも声は続けて掛けられた。
「 また来るといい。待っていてやるから」
  龍麻はそれには応えなかった。
  そのまま扉を開け、龍麻は犬神から離れた。


  まるで逃げ出すみたいだった。



<完>





■後記…ふっと書きたくなる犬主…。まだ少数ですが、実は小説を書いている時に「あ、これ好き」と一人勝手に気に入るのは大抵犬主だったりします。この2人の関係が好きなのです。