屋上にて
犬神が緋勇龍麻とよく目があうようになったなと思うようになったのは、この転校生が真神に来てから数ヶ月程経ってからのことだった。
特に向こうが何を言ってくるわけでもない。
授業中。廊下で会った時。ふっと、視線を感じる。どことなく、何かを訴えてくるような「想い」を感じる。
問い掛けてみても良かったが、それが面倒で犬神はずっと知らぬフリをしていた。何かあれば緋勇から言ってくるはずだし、自分が特に何かしなくとも、あの生徒の周囲にはたくさんの《力》ある仲間たちがいた。何かあれば彼らがどうにかするはずだった。
それに別段緋勇のことが嫌いというわけでもなかったが、あの青年から発せられる氣を感じる度に、犬神は息苦しい思いがした。
だから、なるべく関わり合いにはなりたくなかった。
「 先生」
それなのに、ある日突然ついに緋勇は犬神に声をかけてきた。
「 ……何だ」
昼休み、都庁が望める屋上に犬神はいた。周囲にはまばらに生徒たちがいて思い思いのことをしていたが、教師である犬神に関わってこようとする者はいなかった。
なのに、緋勇は声をかけてきた。
「 煙草、身体に悪いですよ」
そしてつまらない事を言ってきた。
犬神が聞こえないフリをして、ふーっと煙草の煙を吐き出すと、緋勇は黙ったまま隣に腰をおろしてくると、にっこりと笑った。
「 先生。可愛い生徒を無視していいんですか」
「 別に無視はしていないぞ」
「 だって何も言ってくれないじゃないですか」
別段責めている口調でもなかったけれど、犬神はうっとおしそうに緋勇に視線を送った。害のない、綺麗な瞳が視界に映った。
緋勇龍麻。
多くの仲間たちに信頼され、優しさと強さを兼ね備えた、「選ばれた」青年。
「 ……これをやめる気はない」
犬神は仕方なく煙草を空に上げながら素っ気無く返した。すると緋勇は眉をひそめて抗議するような声をあげた。
「 違いますよ。煙草のことじゃなくて。俺が聞きたいことは、別のこと」
「 別のことか?」
「 そうです。俺、先生が何か言ってくれるの、ずっと待っているのに」
「 何を待っているんだ」
「 俺、先生に熱い視線を送ってたのになあ。気づいてなかったですか」
「 ああ……」
そのことか。やっぱり何か言いたかったのか。犬神は曖昧な返事をした後で、やはり面倒なことになったと心の中でつぶやいた。
何を訴えたいのか知らないが、どうせろくでもないことに決まっていた。こういう一見「完璧」な子どもは、内に何か暗いものを持っているものだ。
「 俺には分からないな。お前のような優等生の考えていることは」
とりあえず冷たくそう言うと、緋勇は少しだけ怯んだ顔になり、それから一瞬だが悲しそうな顔をした。
犬神はその顔を見ておや、と思った。
まるで本当に小さい子供のような顔だったから。
「 ……俺って、優等生って思われていたんですか」
「 皆、そう思っていると思うが」
「 俺、先生はそうは思っていないって思ってたから」
「 ……」
犬神が黙ると、緋勇はいつもの皆に見せる柔和な笑みを向けて、静かな声で言った。
「 じゃあ、馬鹿みたな。自分からカマかけて。俺、自分の本当を先生に見られているような気がして、ずっと不安だったんです」
「 お前の本当…か?」
緋勇は黙ったまま頷いて、それからもう犬神から視線を逸らせて外の景色へと顔を向けた。穏やかな美しい顔だと思った。人間離れした空気をまとっている。だからかもしれない。自分がこの男を避けていたのは。
そして、だからかもしれない。この青年が自分に近づいてきたのは。
「 緋勇」
呼ぶと、緋勇はついと視線を犬神に向けてきた。未だ何かを訴えたい顔。何か、救いを求めている顔。
自分に、すがっている顔。
犬神にはそう思えた。
「 お前は、子供だな」
だからそう言った。煙草の火を消してからもう一度緋勇の顔を見ると、目の前の生徒は途惑ったような、泣き出しそうな顔をしていた。
それを隠すように緋勇は俯くと、ぽつりと言った。
「 先生…俺…話したい時、先生の所に行ってもいいですか?」
「 お前が望むのなら…な」
犬神がそう言うと、緋勇はゆっくりと顔を上げ、そうして今度はいつもと違う、それでいて安堵したような。
笑みを、向けた。
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