存在の行方



  今日もようやく終わりを告げた。

「 あら、犬神先生!」
  真神学園高校生物教師・犬神杜人が「ようやく」今日の仕事を切り上げ、帰路に向かっていると、背後からそう声をかけてくる者があった。この高い、それでいて落ち着いた声は彼女だ。フリーライターの天野絵莉。
「 ――ああ君か」
  素っ気無い態度はいつもの癖だ。けれど、天野は慣れたような笑みを向けながらも少しだけ両肩を軽く上下させた。
「 ご挨拶ですね。せっかく久しぶりにお会いできたのに。…でも、お元気でした?」
「 ああ、まあな」
「 さっき丁度あのコたちと出会ったばかりだったんですよ。みんなでラーメン食べに行くんですって…。フフ、いいですよね、あのくらいのコたちって」
「 あんたは取材かい?」
「 ええ、もちろん。相変わらずひどい事件が続きますからね」
  そう言って天野はひどく鎮痛な面持ちを見せた。
  犬神はそんな彼女を奇異な目で眺めつつも、彼女のことを決して嫌いになれない自分を知っていたから、相変わらず黙っていた。
「 ところで、学校の方にはまだ龍麻クン、います?」
「 緋勇?」
「 ええ。みんなには後から行くって言ったらしくって。私、彼にちょっと話したいことがあったものだから、探しているんですけど」
「 ラーメン屋で待っていれば来るんだろう?」
「 あ、ええ、そうです…よね」
  天野はそこでどことなくぎこちない仕草をしてから、「一応学校の方へ行ってみます」と言って去って行った。
  犬神は天野の後ろ姿を見送りながら、もう今日で何本目の煙草だろうか、それを出して火をつけた。
 
  緋勇龍麻か。
 
  ぼんやりと、あの…ひどく濁った眼と、血の匂いを思い出した。
  けれど犬神はそれを振り払うようにしてから、歩を進め始めた。
  まだ10代であの《力》は、異常だといえた。
  周囲の連中がどういう気持ちであの特別な存在と接しているのかは、犬神の知るところではなかったが、少なくとも犬神が見る「緋勇龍麻」と、マリアや天野や蓬莱寺…その他の「仲間」と呼ばれる連中が見る「奴」とは――。
  明らかに違うと思えた。
  犬神が見る、緋勇龍麻は。
「 先生」
  その時、声が聞こえた。
  いつの間に自分はここに入り込んでいたのだろうか。
  遠回りだとも思えないが、いつもは利用しない公園を横切って家路に向かっていたようだった。
  そんな自分の前に、緋勇龍麻は――突然現れた。
  と、いうよりも、彼の方が先にここにいたのだろう。木々の間に狭苦しそうに置いてあるベンチに深々と腰をかけ、緋勇は犬神を見ていた。
「 今、帰りなんですか」
「 ああ…。お前はここで何をしているんだ」
「 花見です」
  緋勇はそれだけ言って、視線を前方に戻した。
  もうすぐ冬だ。桜はもちろん、緋勇の座る辺りに花見にふさわしいような適当な花も咲いてはいない。けれども緋勇はそれだけ言って、後は犬神の存在など忘れたかのように、ぼんやりとしていた。
「 …まあ、あんまり暗くならないうちに帰れよ」
「 え…? すみません、何か言いました…?」
「 ……」
  緋勇はその「花見」とやらに執心していたためか、犬神のセリフを聞いていなかったように訊き返してきた。犬神の方としても別段何回も言うセリフではなかったから今度は違うことを口にした。
  妙な距離間があったので、ゆっくりと緋勇のいるベンチにも近づく。
「 お前、蓬莱寺たちとラーメン食いに行くんじゃなかったのか」
「 え…どうだったかな…」
「何…?」
  意外な感じがして犬神は思わず聞き返した。何を呆けているのだろう。こいつが誘われないわけはないではないか。現に、あいつらは緋勇が来ると思って待っている。
  いつだってこの緋勇龍麻という男は、あいつらに囲まれている中心的な存在なのだ。
  だが、応えた緋勇がただとぼけているようには見えなかった。
「 …天野というライターもお前を探していたぞ」
「 ああ…天野さんが」
  興味のないように緋勇は犬神の言葉を繰り返した。
「 随分、お前に執心しているようじゃないか?」
「 …執心? ああ、きっと僕が珍しいんでしょうね」
「 ……」
  いつもの緋勇とは違う。犬神は問うことをやめ、黙りこくった。
  いや、犬神の中ではこの「虚無感」こそが緋勇龍麻という男なのだが、それにしても普段の大勢の前にいる時とのギャップが大き過ぎる。
「 先生」
  その時、突然緋勇が割とはっきりとした声を出した。
「 見えます?」
「 …何がだ」
「 あれです」
  緋勇は顎だけを動かして前方を指し示した。あるのは、葉を落とした桜の木だけだ。
「 桜の木が見える」
「 …ああ、やっぱり見えますか」
  緋勇はそれだけ言うとまた黙りこんだ。犬神はいよいよ不審に思い、緋勇の前に立った。ぼんやりとした瞳が自分の方に向けられるのを感じる。
「 お前……」
「 はい」
「 緋勇か?」
「 …はい」
  応えてから、緋勇は首をかしげてからぽつりと言った。
「 …そう、見えないですか」
「 いや…」
「 そりゃあ、ちょっと疲れてはいますけどね」
  緋勇は不意に現実を思い出したのか、少しだけ「いつもの」笑みを見せた。
  けれどそれをすぐに引っ込めて。
「 毎日笑うのは疲れます」
  そう言った。
「 僕にだって感情はありますから」
  その一言にはいやに毒がこめられているように、犬神には感じられた。
「 ……別に無理することはないんじゃないか」
  眉をひそめてそう口を開いた犬神に、緋勇は応えなかった。
「 お前らの仲間も、お前が知らん所でこんな風に呆けているのを見たら、同じことを言うと思うが」
「 はい」
  緋勇はこれにはすぐに反応して、頷いた。
「 それは、僕もそう…思います」
「 何を一人で背負っているのかは知らないが、無理をしても良いことはないぞ」
「 …先生って」
「 ん」
「 案外、良い人なんだ」
「 馬鹿か」
  まあまあ、と言って、緋勇は今度はもっとしっかりとした笑みを向けた。
  それから隣を指し示して「座ってくださいよ」と犬神を促した。
  ひどく面倒な気がしたが、犬神はそれを拒絶することができなかった。
  緋勇の方は日常での登場人物が横に来たせいか先刻よりもしゃきっとした目つきになり、不意に前傾姿勢になって自分の膝に片肘をつくと、何事か考えるような仕草をした。
「 さっき、この木が見えますかって訊いたでしょう?」
「 ああ」
「 俺、見えなくなることあるんです」
  緋勇は何事もないかのようにそう言った。
「 まったくってわけじゃないですけど、やたらと曖昧になって、ぐにゃって曲がってきて…。まあうまくは言えないんですが、とにかくヘンな気分になります」
「 目が悪いんじゃないか」
「 短絡的なこと言わないで下さいよ」
「 言ってみただけだ」
「 はは…分かってます。まあいいんです。ホントに時々ですから。…けど、そうなった時は、本当にだめですね」
  緋勇の顔つきが変わった。
「 どうにも…壊してやりたくなります」
「 ……何をだ」
「 大切なもの…かな」
  緋勇は言って、ここでようやく顔をあげると犬神のことを直視してきた。
  冷たい表情だった。
「 ヘンですか、俺って」
「 まあ、な」
「 ひどいな」
  自嘲気味に緋勇は笑った。それからふっとため息をついた。
「 そういう時は、だから誰にも会わないようにしてるんです。結界も張って。一人になるんです。…だから何で先生がここに入ってこられたのか、不思議ですよ」
「 何…?」
  結界?そんなものあっただろうか。まがりなりにも自分にもそれらしい《力》はあるから、 いくら相手が緋勇でもそれを察知することくらいはできると思うのだが。
「 …先生って、俺のことヘンって言っておいて、自分もかなりヘンな人なんでしょう?」
「 ん? ああ、まあそうだな」
「 何だかなあ…」
  緋勇はそうつぶやいてから、ぐいっと身体を後ろにそらせた。それからすぐに元に戻ってやや明るく言う。
「 よく考えたら、こんなに話したことないですよね」
「 ああそうだな」
「 俺、優等生だから先生に怒られるようなこともしないし」
「 ほう、言うな」
「 だってそうでしょう?」
「 まあな」
「 一番手がかからなくて、一番扱いやすいんですよ」
  調子にのったのか、緋勇は立て続けに自画自賛し始めた。けれど、目は決して笑っていない。犬神がそんな自分の態度に気づいている目をしていたためか、緋勇は急にそんな口を閉じて、そしてやがて途惑ったように言った。
「 何かおかしいな。俺、先生の顔ははっきり見える」
「 ……」
「 やたらと口動くし。さっきまで本当に何にも考えられなかったんですよ。危なかった、ホントに…」
  苦しそうな顔になった。本当は感情の起伏の激しい奴なんだと犬神は初めて気がついた。
「 誰か殺しててもおかしくなかった…」
「 ……緋勇」
「 命なんだからみんな一緒ですけど、俺、少なくとも京一や醍醐や…あいつらのことだけは傷つけたくない。だから、間違えないようにしなきゃ間違えないようにしなきゃって馬鹿みたいに繰り返すこと、ある…。あいつら馬鹿だから、もしかして俺がとち狂って何かやったとしても許してくれそうですよね。そういうあいつらだから…余計…おかしくなりそうになる…」
「 お前…いつからだ」
「 何がです」
「 …そういう風に目が見えなくなることがだ」
「 さあ…」
  訊かれて緋勇は、考えこむような顔をしてから再び口を開いた。
「 もしかすると、初めからこうだったのかもしれないです。良い奴を演じて、そういうことをしているって、自分自身でも自覚がなくて。本当の自分がどこにあるのかも分からなくなって…。本当の自分の正体に、今頃気づいただけなのかも」
「 ……」
「 本当の自分が、自分の存在がどこにあるのかも分からない…」
「 ずっと…それを抱えていたのか」
  犬神の言葉に、緋勇は意表をつかれたようになって顔を上げた。
「 抱えるも何もありません。俺が俺のこと面倒見るのは当たり前です。全部自分の中から溢れ出てくる感情なんです。だから――」
「 もういい」
  緋勇の言葉を止めて、犬神は表情を曇らせた。
  それから腕を伸ばして、緋勇の髪の毛をぐしゃりとかきまぜた。
「 せ、先生…」
「 本当に優等生だ、お前は」
「 よ、よして下さい、俺は――」
「 けどな。お前がそこまで苦しむのも馬鹿げた話だぞ。ましてや、一人で抱えるなんて…本当に馬鹿げてる」
「 でも、誰も止められないから…」
「 俺を呼べ」
「 え…?」
  犬神は新しく煙草を出して口にくわえようとした。けれどもそれをためらった挙句元に戻し、そして、改めて緋勇を見やった。
「 今日のように呼べばいい。俺がお前を止めてやる」
「 ……」
「 お前のところに来ただろう、俺は。信じられないか」
「 いいえ。でも、本当に…?」
「 ああ。だから安心しろ」
「 ……」
  緋勇はひどく物憂げな表情を見せたが、やがて、嬉しそうに小さく笑った。
「 やっぱり、先生は良い人だ」
「 ふっ。…まあ、そういうことにしておくか」
  犬神もそう言って笑うと、緋勇は今度は泣き出しそうな弱気な顔を一瞬だけ見せた。目の前のこの不思議な存在がただの子供のように見えたのは、これが初めてだった。
  だからもう一度、今度は身体ごと犬神は緋勇のことを引き寄せた。
「 心配するな」
  そして、そう言ってやる。それで緋勇もゆっくりと目をつむって。
「 はい。よろしく、お願いします」
  そうして、大人しく犬神の胸にその頭をもたげた。



<完>





後記…一時はどうなることかと思った犬主が完成した時の満足感と言ったら・・・!もう犬神先生〜ラブ〜!って感じでした。龍麻の良き理解者。そして初期龍麻って本当鬱々としてますよね。一歩間違えると道踏み外して陰側へ行っちゃうような…。