何となく
何となく。
何となく殴ってやりたくなったので。
ガツンと。殴ってやった。
「 ってえなあ…何すんだよ、ひーちゃん!」
放課後、学校の屋上でぐーぐーと気持ち良さそうに眠っていた京一は、突然の龍麻の「暴挙」に、当然のことながら不平の声を漏らした。
「 別に…」
龍麻は何くわぬ顔で京一から視線を逸らすと、ぼんやりと外の景色に目をやった。
「 あのなあ…」
京一はそんな龍麻の様子を見てからゆっくりと上体を起こしぼりぼりと頭をかいた。それから、未だ眠気まなこのままで親友に向かって不機嫌な声を出した。
「 別に、でいちいち殴られてたんじゃたまんねえぜ。ったく、せっかくいい夢見てたってのによ」
「 どうせまたオネェチャンとやらの夢だろ」
「 ん? …へへ、まあな」
「 馬鹿」
「 あん?」
「 馬鹿だから馬鹿だって言ってんだよ。京一は馬鹿だ」
「 んだよ、それはー!」
「 うるさいな! 京一のな、そういう呑気な顔見てると、イライラすんだよ!」
龍麻は何だか自分自身で訳が分からなくなってきて、京一に向かって怒鳴っていた。
そう。何故京一を殴りたくなったのか、何故京一にイライラするのか、龍麻は自分で自分のことがよく分かっていなかった。或いは別に京一にイラついていたのではないのかもしれない。ただ、何となく気分が悪かっただけなのかもしれなかった。
だからとりあえず、龍麻はその混乱する自分の気持ちをそのまま京一にぶつけてみただけだったのだ。
「 ひーちゃん、俺のどこが馬鹿なんだよ? こんなに知性溢れる優れた相棒は他にいないぜ?」
そうとも知らずに京一は龍麻の暴言に抗議をしてみせる。それで龍麻も負けじとそれに応戦した。
「 いるよ、いっぱい。醍醐も如月も壬生も。みんな京一より知性があってあらゆる面で優れてる!」
「 ああん!? あのなあ…まあ、如月や壬生は百歩譲って認めてやるよ。けどな、醍醐は、ありゃ俺と同じくらい馬鹿だぞ。補習常連組だぞ」
「 そういう意味で言ってんじゃないの。ああもういいよ。ほっといてくれ」
「 はあ? お前…っ。ひーちゃんが先に寝ている俺にちょっかい出してきたんだろーがっ!」
「 うるさい! もう飽きた! だからもう一回寝ていいぞ!」
「 こんの野郎…」
京一は何故かご機嫌斜めの龍麻にひくひくと顔をひきつらせていたが、やがて気を落ち着かせようと深呼吸なんかをしてから、改めて隣にいる親友の気持ちを測ろうとまじまじとした視線を送ってきた。
そうなると今度は龍麻の方が居心地が悪い。けれどもそれを悟られぬように、仏頂面を保ったまま、龍麻はただ都庁の方角へ目をやっておくことにした。
「 おい」
不意に京一が呼んだ。別に京一に何を怒っているわけでもないのに、龍麻はここまできたらもう後には引けなくなって、無視を決め込むことにした。
「 おい、ひーちゃん!」
「 ………」
「 こら、龍麻!」
「 なっ…何だよ…!」
いきなり名前で呼ばれたので、龍麻はつい京一を見てしまった。
いつからか「ひーちゃん」と呼ばれるようになって。
何だか京一とは昔馴染みのような、とても生暖かい馴れ合いの関係になった気がしていた。
だから、いきなりこうやって改まって呼ばれると、自然とどきりとしてしまう。
「 何だよ…」
だからもう一度、龍麻は京一を見て言った。まるでこちらが悪いことをして叱られる子供のような気分だった。
けれど、真面目な顔をした京一の口から出た言葉は、こんなことだった。
「 抱きしめてやろうか?」
冗談で言っているのでないとは、すぐに分かった。戦いの前に見せる時の顔に似ていたし、何よりも声がいつもと違った。いつもおちゃらけて「ひーちゃん」と言っている京一の声ではなかった。
「 な、何言ってんだよ…」
恥ずかしいことを言ってきたのは京一の方なのに、何故か龍麻の方が気まずくなって口ごもった。慌ててそっぽを向くと、京一が更に追い討ちをかけてきた。
「 抱きしめてやるって言ってんだよ。聞こえなかったのか?」
「 き、聞こえたよ」
「 なら、来いよ」
京一が龍麻よりも大きくて長い腕をすっと伸ばしてきた。龍麻はそれですっかり焦ってしまい、上ずった声を出してしまった。
「 ば、馬鹿じゃないのか!? 何で俺が―」
「 黙ってろよ」
京一はびしりと言い捨てると、慌てる龍麻をそのまま抱きすくめた。
「 ………!」
拒絶しようとしていたところを強引に引き寄せられて、龍麻は思わず息を飲んだ。けれど、見開く視界に見えるのは京一の学生服。
感じるのは、京一の胸の鼓動だけだった。
「 なあ、ひーちゃん」
しばらくしてから、京一はいやに静かな声で言った。それはとても優しいものだった。
「 あったかいだろ、俺の胸」
「 ………」
「 惚れちまった?」
「 ……やっぱ、お前馬鹿だ」
龍麻がおとなしく京一に抱かれながらも、精一杯そうやって毒づくと、京一は楽しそうに笑った。
「 へっ。ひーちゃんみたいな奴にはな、俺しかいねえの。俺じゃなきゃ駄目だろうが」
「 ………」
「 な?」
「 うん……」
「 よし!」
京一は満足そうに頷いてから、龍麻のことをそっと離して、もう一度まじまじと「相棒」の顔を覗きこんだ。
そうして、いつものあの不敵な笑みになって軽快に言い放った。
「 またさ。何となく殴りたくなったらその前に言えよ。またこうやって抱きしめてやるから」
「 ……考えとく」
「 おう!」
龍麻のそんな曖昧な返答にも京一は納得したのか、もう一度ごろんと横になると、また気持ち良さそうに目をつむった。
龍麻はすっかり落ち着いてしまった自分の心に戸惑いながらも、改めて横で眠る京一の顔を見やった。
また何となく殴りたくなったら…。
「 うん」
龍麻はまた小さく頷いた。京一は目をつむったままだ。だから、素直に言えた。
「 さんきゅ、京一」
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