そこにある心
好きか嫌いかと問われれば、「好き」と答えるに決まっていた。
それでもその事をいちいち口に出したりはしない。誰も訊かないし、当人も訊かない。大体にしてそういう事をわざわざ言い合って互いの気持ちを確認し合うような間柄じゃない。必要ない。
それなのに時々感じる、この焼け付くような喉の渇きは何なのだろう。
その日、龍麻は珍しく放課後醍醐とだけ行動を共にしていた。
「 すまんな龍麻、付き合わせてしまって。何せ京一の奴にはこんな事は頼めんし…俺自身苦手だしな、金の絡む仕事というのは」
「 別にいいよ。それに案外簡単に終わったし」
そろそろ暗くなるだろう時刻、鞄の置いてある教室へ戻る為、龍麻は閑散とした廊下を醍醐と肩を並べ歩いていた。
窓の外から差し込んでくる夕陽が眩しい。
部活に所属していない龍麻だから、本来ならばとっくに下校している時間だ。それが今日は醍醐のたっての頼みで、彼が所属するブロレス同好会の部費の内訳書を作る手伝いをしていてこんな時間になってしまった。今日中に生徒会に提出しなければならない物らしかったが、会計担当の後輩が風邪でずっと寝込んでいるからと、醍醐が「助けてくれ」と龍麻に縋るように泣きついて来たのだ。いつも堂々としている友人のこういう姿は今日びめったに見られるものではなかったから、龍麻としてもそれくらいの頼みならとすぐに快く引き受けた。
それに、そういう事をしていれば自然気も紛れるし。むしろそれは龍麻にとってとてもありがたい申し出だった。
「 それで龍麻。お前、その…大丈夫か?」
「 え…何が…?」
するとそんな龍麻の気持ちに気づいていたのだろうか、醍醐が急に真面目な顔になって問い質してきた。
「 いや最近…どうも疲れた顔をしているようだったのでな。心配していたんだ。ああいや、その割にこんな厄介な仕事を手伝わせてしまったんだが…」
「 え……はは、何でもないよ。確かにちょっとは疲れているかもしれないけどね」
「 何か……あったのか?」
「 ………ううん」
龍麻は首を横に振り、後の言葉は濁して沈黙した。
東京に越してきて半年。龍麻は自らの使命に翻弄されながらも真神学園という新しい環境で、醍醐をはじめとする多くの仲間たちと実にうまくやってきていた。苦難を乗り越え、お互いに助け合い、何とか。
「 ………別に、何でも」
うまく、やってきていたはずであるのに。けれど最近は、どうにも。
「 何でもない。ただ色々考える事が多くて」
「 それはその…京一の事か?」
「 え…っ」
不意に出されたその名前に龍麻は驚いて足を止めた。がたいのある大きな友人の顔をまじまじと眺めやると、醍醐の方も足を止め、何故だか焦ったように目を泳がせた。
「 い、いや…! 別に他意はないんだが…その…最近、どうも龍麻はあいつの前では様子がおかしい気がしてな」
「 どういう風に…」
「 ひーちゃんさー! 最近ヘンだよねー!」
その時、不意に龍麻たちの教室から仲間の1人である桜井小蒔の甲高い声が聞こえてきた。
「 はっ…!」
龍麻と醍醐がぎょっとしてドアの閉じている教室の方へ視線をやると、その奥からは聞き慣れた数人の声が桜井のそれと一緒になってざわざわと聞こえてきた。
「 ヘンって何がだよ」
そう桜井に向かって言ったのは京一だ。相手の言っている意味が分かっていないというような、不思議そうな声。けれどそんな京一の声をかき消すように、「確かにおかしいわよね!」と言ったのは新聞部のアンコこと遠野杏子で、「そうかもしれないわね」と同じく同意の声をもらしたのは美里葵だった。
いつものメンバー。
それぞれ部活や生徒会の仕事を終え、龍麻や醍醐が残っている事に気づいて皆で待っているといったところだろうか。きっと今日も帰りはいつものラーメン屋に寄るに違いない。
「 京一分かってないわけ? いっつもひーちゃんと一緒にいるくせにさ!」
「 だから何がヘンなんだよ? ひーちゃん、別にいつもと同じだろ?」
「 違うよ、違う! 絶対違う! ひーちゃんはさ、何かさ…元々綺麗だったけど、あんな風な目を見せるようになったのは、ホント最近だって!」
「 あ、あの目ね! 私も思ってた! あの物憂げな目でしょ!」
「 そうそう!」
ひとしきりそう言って互いに盛り上がっているのは桜井と遠野だ。龍麻は何となく教室に入れず、彼女たちの半ば浮かれたような声にただ耳を傾けていた。醍醐もそんな龍麻を気にするようにしながら、自らもその場に突っ立っているだけで教室へ入ろうとはしなかった。
再度京一の声が聞こえた。
「 だからお前らは一体何が言いたいんだよ? そんな言い方じゃ、全然訳分かんねェだろが!」
「 だからぁ…それはそのう…」
「 京一、アンタホントに気づいてないの?」
「 だからハッキリ言えって! ひーちゃんが何なんだ!」
何故だか京一はイライラしているようだった。自分だけが蚊帳の外なのが気に食わないのか、それとも別の理由で彼女たちに面白くないものを感じているのか。
「 龍麻の京一君を見る目が普通とは違うという事よ」
しかしそんな京一に向かってあっさりとそう言い放ったのは美里葵だった。しれっとした、何をとぼけているのかといったような、逆に美里の方こそが京一に対して苛立っているというような口調だった。
「 …………」
教室の中がそれで一瞬しん、と静まり返った。醍醐がハラハラしたようにちらちらと視線を向けてきているのが龍麻には分かった。
「 ………はあ?」
そんな中、程なくしていやに素っ頓狂な声を上げたのは京一だった。
「 何言ってんだ、お前ら?」
「 こんの、鈍感ッ!」
「 いってェ…!」
遠野はどうやら言いながら京一を殴ったようだ。不平をもらすような京一の低いうめき声が廊下にいる2人にもよく聞こえた。
けれどそれを覆い隠すように遠野の発せられた声はまた更に大きかった。
「 龍麻君のあの目! あれはねえ、認めたくはないけど、あんたの事が気になって仕方ないって目よ!」
「 ……何だそりゃ」
「 何だじゃないよ! ひーちゃんに気にしてもらえて幸せと思え! このバカ京一!」
遠野と一緒になって再び叫んだのは桜井だ。
「 で、京一もどうなの、実際! 龍麻君とずっと一緒にいてあんただって彼の事好きになっちゃってたりするんでしょ!?」
「 おい、お前ら……」
「 うんうん、皆まで言うな、分かっているわよ。そりゃーあんな可愛い龍麻君に惚れられたら、どんな男だってイチコロよねえ。よっ、幸せ者!」
「 ……京一君、一体どうやって龍麻をかどわかしたの?」
「 いい加減にしろって!」
3人の女性陣に一斉に攻められ、さすがに辟易したのか京一がようやく大きな声で一同を黙らせた。
再び教室に静寂が戻る。
「 ……何照れてんのさ」
最初に口を開いたのは桜井だ。
「 京一だってひーちゃんの事、好きなんでしょ? 素直に認めなよ」
「 お前ら頭おかしいんじゃねえか? ひーちゃんは男なんだぜ?」
京一が心底呆れた風にようやっとその言葉を吐いた。
すると教室は再びしん、としばし沈黙で静まり返った。
「 ……はあ?」
そして一拍後、そう言って呆れたような声を漏らしたのは、やはり女性陣3人だった。
「 何言ってんの?」
「 それがどうしたの?」
「 京一君、そういう事気にする人だったの?」
そうして一斉にまた質問の嵐。京一のイライラしたような声が教室どころか、龍麻と醍醐がいる廊下の方にまで木霊した。
「 煩ェなっ! 大体ひーちゃんが俺の事好きだなんて、誰が言った!? ひーちゃん自身が言ったわけでもねえのに、そんな妙な噂流すんじゃねえよっ! ったく、気持ち悪ィな!」
京一のその言葉に龍麻はようやく自分の肩先がぴくりと動いたのを感じた。今の今まで、教室の方にいるだろう4人の会話ばかりが気になってロクに動けなかったのに。
「 気持ち悪い? それどういうことよ、京一!」
そうしてそれでもまだ動けない龍麻の代わりのように再度声を荒げたのは遠野と桜井だった。
「 そうだよ、京一! ひーちゃんを気持ち悪いって!?」
「 ……あぁ? 煩ェな、お前らには関係な―」
「 京一君、龍麻の気持ちを弄ぼうというのなら私も黙っていないわよ」
「 お前達、いい加減にしろ!」
その時、ようやく醍醐がガラリと教室のドアを引いた。
「 あ………」
「 廊下の方にまで丸聞こえだぞ!」
そう言って珍しく声を上げた醍醐の顔は、思い切り赤面していた。彼女たちの浮かれたような会話に面食らっていたのは勿論、当の龍麻が背後にいた事で大分参ってしまっているようだった。
「 ひ…ひーちゃん…」
桜井がさっと蒼褪めて片手で口を押さえる仕草をした。遠野は「あっちゃー…」と言ったきり首を竦める。美里だけは平然としていたが、ちらと背後の机に座っている京一に視線をやった。
京一も突然現れた醍醐と、そして何より龍麻の存在に目を丸くしていた。
それから、どことなく決まり悪そうに。
「 な、何だよひーちゃん…。いたのか?」
京一はそれだけをぽつりと言った。
「 うん」
龍麻は返事をしながら醍醐を抜かして教室に入り、自分の席から鞄を取った。そうしてそのままスタスタと教室の入口にまで行き、くるりと振り返って皆を見回す。茫然とした顔、動揺した顔、色々な顔がこちらに向かっているのを確かめてから、龍麻は最後に京一を見つめて努めて無機的な表情で言った。
「 俺だって気持ち悪いよ。お前の事なんか」
周囲が細波のようにザザザと引いていく音が聞こえてきたような気がしたが、龍麻は構わずにそう言い捨てた後、踵を返して教室を出た。
忘れていた胸のむかつきが、それによってまた大きくなって戻ってきたのを感じた。
「 ひーちゃん、待てって!」
校門を出てしばらくしたところで声が掛かった。1人追ってきたのは京一だ。先を行く龍麻の肩先を片手で掴み、息を切らせながら言う。
「 おい、ひーちゃんって! 怒ったのか?」
「 何で俺が怒るんだよ」
「 その声。怒ってんじゃねえか」
京一が龍麻の冷たい口調に呆れたように言い返した。それから未だ歩き続けようとする龍麻を無理に引き止め、息を整えると京一は改まった口調で再度言った。
「 あいつらさ、くだらねェ事ばっか言って盛り上がるのが好きなんだよ。だからあんま気にするなよ」
「 …………」
「 俺らの仲を妬くのはいいけどよ、全くヘンな方向に持っていきやがるよなぁ、あいつら。勘違いも甚だしいって…」
「 勘違いじゃないって言ったら?」
京一のおちゃらけたような言い方に余計苛立つものを感じ、龍麻は叩きつけるように言った。ぎょっとする京一の顔を真っ直ぐに見つめながら龍麻は揺るぎのない瞳を向けて言った。
「 なあ。勘違いじゃないって言ったらお前はどうするわけ?」
「 そりゃ…そりゃひーちゃん、どういう意味だよ…」
さっと蒼褪める京一の顔を龍麻は不思議と冷静な気持ちで眺めた。
自分自身、ここ最近の京一への想いには途惑っていたから、改めて当人のこういう反応を見てしまうと、「あぁ何だ、やっぱりこれは一時の気の迷いか」と思い直す事ができそうだとも思った。
それでも龍麻はこの時は「気持ち悪い」自分で京一と対する事にしようと決めた。何故か強くそう思った。
「 そういう意味だよ。なあ。俺がお前の事、そういう目で見ていたって言ったら…お前はどうするんだよ? もう相棒やめる?」
「 な……」
絶句する京一の顔。バカみたいだ。何を言っているのだろう、京一にこんな顔をされて、明日から一体どうやって…。
それでも龍麻がここ最近、京一の事をよく見ていたというのは本当だった。仲間たちもよく見ていたものだ。龍麻は戦いの時だけでなく、普段の生活から京一の動向を何故か目で追っているところがあった。元々嫌いな奴じゃなかった。どちらかといえばイイ奴で、一緒にいると気持ちが良くて、好きだと思っていた。自分はどちらかと言えば内にこもる方だから、底抜けに明るい、いや「明るくしていられる」京一を凄いと思っていた。
けれどこんな顔をされるなら、最初から見ていなければ良かった。今まで出会った人間たちと同じような態度で当たり障りなくしていれば良かったと思った。
「 な…なあ、ひーちゃん。俺よ…」
「 ばあか。冗談だよ」
明日からどうやっていつもの生活を送れって言うんだ。
「 ひ、ひーちゃん?」
「 気にしてないよ。明日になったら忘れてるから」
今、無理にでも笑えただろうか。そうだと良いのだが。
「 それじゃ、ばいばい」
「 ひー…ちょ…おい龍麻! おい、待てって!」
待てというなら追いかければ。
心の中でそう思いながら、けれど龍麻はそれは言葉には出さず、後はただ歩き続け、一刻も早く京一から離れようと前だけを向いて先を急いだ。
京一も後を追っては来なかった。
京一は明るくてふざけている奴だけれど、戦いの時は変わる。そこがまた龍麻が京一の事を気にする所以だった。いつもへらへら女の話ばかりしている奴が、いざ戦闘になると激しく豹変するのだ。ぎらついた眼をしていて、楽しそうで。
不敵で。
その姿が時として怖かったけれど、同時に惹かれずにはいられなかった。あの殺気を自分も欲しいと思っていたのかもしれない。桜井や遠野が言っているような「感情」が自分の中にあるとは、龍麻は思っていなかったけれど。
ただ周囲にいる人間とは違う感情を抱いていたとは思う。
「 だから…ちょっと、気になっただけなんだ…」
言い訳のように龍麻はそう独りごち、それからぶんぶんと首を左右に振った。だらだらと結局京一の事を考えてしまっている自分が情けなかった。だから龍麻は何となく動かしていた足をぴたりと止め、ようやく思いを吹っ切るようにして足元だけを見ていた顔をふっと上げた。
「 あれ…?」
しかし顔を上げて我に返り、龍麻はぎくりとした。
ここは、何処だろう。
「 おかしいな……」
ひどく冷たい風が肌に当たり、龍麻はぶるりと身体を震わせてから眉間に皺を寄せた。
学校を出て京一を振りきって、駅に向かって通りの道を歩いていたはずだ。もう歩き慣れた道だから、別段周囲の景色に気を遣わなくともいつだって目的の場所には着く事ができた。
けれど、ここは。
「 何…何なんだ……?」
周囲は、枯草がぼうぼうと生い茂る草原だった。
遥か遠くに薄ボンヤリと山野や民家らしき姿が見える。が、少なくとも龍麻が立っている場所には何もない。
ただ、草と風と曇った空だけがそこにはあった。
「 何なんだ、ここ……」
茫然と立ち尽くして、けれど龍麻はしばらくしてからようやく「あぁ、もしやまたやってしまったのか」という思いを抱いて嘆息した。
「 でも久々…かも」
気持ちが不安定になると何処かへトリップしてしまう。それは精神体だけの事もあれば、身体ごと何処か遠くへ飛んでしまう事もあり、そしてそれが起こる周期は呆れるほど短いものだった。ただ最近はそういう事もめっきりなかったものだから、龍麻もこの自分に起きる異常な現象を思い出す事がなくなっていた。時として、自分のその尋常でないところを忘れもした。
所詮、そんな「フツー」の人間でいられる事など叶うわけもないのに。
「 せめて雨だけは降るなよな…」
以前、幼い頃に住んでいた故郷の山へトリップした時は、急に降り出した大雨になす術もなく、2時間以上そこで濡られて結局そのまま気を失い、気づいた時には家にいたという事があった。大抵は知っている場所に飛ぶからまだ気は楽だったが、それでも天候までは予想できない。まだ今は曇りで良かったというところだろうかと龍麻は消極的な感想を心の中だけで抱いた。
「 はっ……」
とりあえずは道なき道の草っぱらに腰を下ろし、龍麻は大きく息を吐き出した。
見覚えのない土地。
何処か僻地の田舎なのだろうが、今日は一体どうしてここに来てしまったのだろうかと思う。
「 ………京一」
何となく呼んだ。呼びたくなかったが、どうせ自分たちの事を知っている者など誰もいないのだから構わないだろうと思った。
「 気持ち悪くて悪かったな…」
「 どうした?」
「 !?」
すると不意に草むらの陰からそんな声が聞こえた。ぎくりとして龍麻がそちらに視線をやると、ガサガサと草木が揺れて、すぐ近くで寝そべっていたのだろう、着物姿の男がのそりと起き上がって龍麻の方を見やってきた。
「 あ……」
「 驚かせたか? 悪ィな。けど、俺の方が先にいたんだぜ?」
男は茶色の髪を一つに結った、体格の良い整った形(なり)をしていた。起き上がって胡座をかいたその男は、ゆっくりと龍麻から視線を逸らすとふわあと大きく欠伸をした。
「 …………」
不敵な口許や眼がどことなく京一に似ている。違うのは、肌身放さず持っているのだろう携行している物がどうやら真剣だと言う事くらいだ。
「 誰……?」
龍麻が訊くと、男は眠そうに半眼を閉じていたがすぐにニヤリと笑って軽快な口調を発した。
「 俺か? 俺はまぁ、日本一の剣豪とでも言っておくか。へへへ…」
「 剣豪?」
顔だけではない。言う事まで京一のようだと思って龍麻は眉をひそめた。自分は訳の分からない所へ飛んでまで、結局あいつの事を気にしているのかと思った。だからこんな人物とも会ってしまうのだろう。
胡座をかいたままのその「剣豪」は、乱れた着流しに片手をつっこみ、ぽりぽりと胸倉を掻いた後、ふわあとまた大きな欠伸をした。まさに昼寝の真っ最中だったらしい。大方龍麻が突然自分の寝入っている場所に現れたものだから、驚いて意識が戻ったのだろう。
「 ところでお前。似てるな」
「 は?」
龍麻がぼうと剣豪を見ていると、その人物が物珍しそうな顔をしてそう言った。体勢は龍麻から横を向いている形を取っていたが、眠そうだった目を今はすっかり開いて楽しそうな目で笑っている。
「 似ているって?」
龍麻が訊くと、「相棒にな」と剣豪はすぐに答えた。
「 相棒?」
何故かどきりとした。龍麻はようやく立ち上がって剣豪の元へ近づくと、傍に座り直し改めて京一に似たその男をまじまじと見やった。
「 相棒って…?」
「 あぁ。ヘンな奴さ。今のお前みたいに、突然現れて突然消えるんだ。まったく人騒がせな奴だろ?」
「 ……ね、ねえ…名前を教えてくれない?」
「 俺のか? そいつのか?」
「 あんたの」
「 蓬莱寺京梧」
男はそう言った。龍麻は目を見開き、蓬莱寺と名乗った男を奇異の目で穴が開くほど見つめやった。
「 蓬莱寺……」
「 お前は? まさか緋勇、なんて言わねェよな」
「 …………」
「 はっ。言うのか? こりゃ…驚いたねえ」
別段驚いた風もなく京梧はそう言い、遠くを見るようにして顔を空へ向けた。ぐんと伸びをし、「一雨きそうだなあ」とつぶやくように言った。
龍麻はじりじりとした気持ちになりながらそんな京梧をただ見やった。
辺りから流れてくる風はより一層冷たいものになっていた。現実のものだと感じる。夢ならこんなに肌がぴりぴり震えるだろうか。こんなに目の前の男をはっきりと認識できるだろうか。
それでも信用ならなくて龍麻は京梧の腕にそっと手を差し伸ばして見た。京梧は特に驚きもせず、そんな龍麻の所作を見やっていた。
「 俺は、いたか?」
そして京梧は言った。龍麻が驚いて弾かれたように顔を上げると、京梧は勝手知ったるように口の端を上げた。
「 あいつもよくそうやって俺に触ってきた。俺が確かにここにいるのかと。俺が、俺って人間があいつの目の前にちゃんといるのかって、な……」
「 そ…その人は、今……」
「 …………」
京梧はすぐに答えなかった。
ただちらりと龍麻を見たきり、後はまた空を見上げて軽く口笛を吹いた。何かを誤魔化そうとしているのか。それとも龍麻とその相棒の話はしたくないのか。
それでも龍麻は引き下がれずに京梧の袖口を掴んで再度言った。
「 もし…もしも、その相棒があんたの事を好きだと言ったら…あんたは、やっぱり気持ち悪いのかな」
「 ん……」
半ば怯えたように、そして突然そんな事を訊いた龍麻に、京梧は目を細めてただ視線だけを送ってきた。龍麻は余計に逸る気持ちになり、急いで先の言葉を継いだ。
「 あんたは、その人を相棒としか見られなかった? 触られて、その人から逃げたの? なあ、だから今ここに独りで…」
「 俺が逃げる? は…そうじゃない。いつだって俺を避けていたのは……」
「 なあ、その人は今何処にいるんだっ!?」
思わず声を荒げて龍麻が訊くと、京梧は言いかけていた言葉をぴたりと止めて、それから何やら慰めるように龍麻の頭をそっと撫でた。まるで子供に対してするようなそれに龍麻はかっと血を上らせたが、何故か逆らう事はできなかった。
京梧は言った。
「 今、ここにあいつがいないから何だ? それで俺とあいつの距離を、お前は量れるって言うのか」
「 え………」
「 あいつがここにいなくともな、あいつが俺と肩を並べていなくても、俺にはあいつのしている事なんざ容易に分かる。あいつの考えている事も…望みだって分かるんだぜ?」
「 望みも……」
「 それをすぐに叶えてやれるほど、俺はできた男じゃねェけどな」
俺にだって独りでやりたい事くらいあるんだよ。
そう言った京梧の顔はどことなく冷たい顔だったけれど。
「 蓬莱寺…っ」
まだ、何か訊きたくて声を掛けた瞬間、龍麻は不意に自分の意識が遠のいていくのが分かった。
「 なっ……」
「 お前……あいつの……」
ぼうっとした耳の奥で最後に京梧が何事か言ったような気がしたが、龍麻にはもうそれを聞き取る事はできなかった。ふっと目の前が逆さまになったかと思うと、さっきまで確実に捕らえていた風も、見えていた山も民家も、そして揺れる枯草も。
「 う…っ」
一瞬にして消え失せた。
「 ……ーちゃん。おい、ひーちゃんって!」
目を開くと、すぐ傍には京一の顔があった。
「 あ……」
「 …やっと気づいたか。マジびびらせんじゃねえって…」
「 京一……」
声を出すと、名前を呼ばれて京一は心底ほっとしたようにほうと息を吐き出した。それから何かを堪えるようにぐっと目をつむり、途端に怒ったような顔を閃かせると寝ている龍麻に向かって怒鳴り声を上げた。
「 ばかやろうっ! 急に倒れて、ずっと意識なくて…! 俺がどんだけ心配したかなんて、お前には分かんねえだろ!」
「 ……心配?」
言ってからまだ動きの鈍い身体を無理に動かし、きょろきょろと辺りを見回すと、自分が横になっているのはどうやら病院のベッドだった。恐らく桜ヶ丘病院だろう。京一が運んだのだろうか? それほど長い間意識を飛ばした記憶はないけれど、きっとあの後京一は自分を追いかけてきてくれて、トリップしてしまった自分の事をもろに見てしまったのだろうと思った。
龍麻はベッドの横に座ってこちらを見ている京一を改めて見つめた。
「 ずっといたの? 今何時?」
「 知るかっ! ここに担ぎ込んでから…先生はほっときゃそのうち目覚めるって行っちまうしよ! ずっと…寝てるお前だけ見てたし…今が何時かなんて気にしてる暇なんかあるかよ!」
「 見ているだけなら時計だって見られるじゃん…」
「 ば…っ!」
真っ赤になっていよいよ怒り心頭の京一をひどく冷静な目で見やった後、龍麻はすっと京一に向かって片手を差し出した。
「 は…?」
途惑う京一に龍麻は弱々しく笑いながら言った。
「 俺、今病人だし…。たとえ気持ち悪くても今くらい言う事聞いてくれよ。俺……ちょっとヘンな所に行ってたし…。今、京一が本当にここにいるのかどうか確かめたいんだ。だから」
「 な、何だよそれ…」
「 京一、手、貸してくれよ」
「 俺、ここにいるだろ!」
益々怒ったような京一に、龍麻は差し出した腕を長い事上げていられなくてぱたりと下に落とした。それから手を貸してくれなかった京一に諦めたようになって目を閉じた。
それでも愚痴めいた事くらい言わせろと思った。
「 声だけ聞いてたって分からないよ。本当に京一がいるかなんて分からない。俺がここにいるのかだって分からないんだから。だって俺……フツーじゃないから……」
「 龍麻……」
京一の驚いたような声が聞こえた。訳の分からない事を言っている自分にきっと京一は呆れている。余計に気味悪がられただろうか。そうも思った。
けれど不意に閉じた視界に覆い被るような影を感じて、龍麻は不審に思い目を開いた。
「 あ……」
開いた視界の先には京一の顔がすぐ傍にあった。そして驚いて半開きになった龍麻のその唇に、そのまま接近してきた京一の唇は迷いもなく下りてきた。
「 ………ッ」
ただ呆気に取られ、龍麻は目の前の京一を見つめた。京一も目を開いてそんな龍麻を見やったまま、そっと、何度も角度を変えて唇を重ねてきた。
「 きょ…」
「 ……分かったかよ、これで」
ようやく離れた後、ふてくされたように京一は言った。
「 俺はいるだろーが…。これで分からないなんて言ったら、お前……」
「 ……同情?」
茫然として訊くと京一は思い切り片手を振り上げてそう言った龍麻の頭をはたいた。
「 いって…!」
「 バカやろう! 俺はなー! こういう事は同情とか冗談じゃ絶対やんねーんだよ!」
「 …………」
「 1人で勝手にどっか行くな! いいか! もう二度と…俺の目の前で消えたりすんな!」
「 京一……」
きょとんとして目を丸くすると、京一は不意にまた顔を赤くして、けれど叩いたばかりの龍麻の髪の毛を今度は直すようにしてそっと撫でた。
「 あ……」
それはあの時の京梧が龍麻に対してやった所作に本当にそっくりだった。
「 マジ心配だったんだ…。お前が…くそ! お前がどっか行っちまったらってよ! 俺はガキだからな、皆の前であんな言い方したって俺は…!」
「 京一」
「 悪い……。ホントにガキなんだよな…。あんな…あんな反応して……」
そして黙りこくる龍麻の唇に京一はもう一度手を持っていくと、はっきりと言った。
「 俺がひーちゃ…龍麻のこと嫌いなわけないだろ…。お前だけだからよ…俺……」
「 …………」
「 本当だよ。ただ…何か、ああいう風に周りに言われるとムカつくってーか、違うって言いたくなるんだよ!」
「 京一……」
言葉なんかいらないじゃないか。
好きか嫌いか、そんなの好きに決まっているから。
「 俺は…でも龍麻、俺はお前の事は…」
「 うん…。別にさ、口で言って確認しなくてもいいよな」
「 え」
だからようやく龍麻もそう言った。
「 龍麻?」
「 あ…でも、でもさ、手……」
「 ん……」
龍麻がしつこくそう言って再び片手を差し出すと、京一は今度はすぐにその手を痛いくらいに掴んできた。躊躇いのない、強い力が込められてきた。あんなに嫌がっていたくせに。
熱が。
「 いるね、京一、ここに……」
「 当たり前だろーが……」
「 うん……」
龍麻はぐっと目をつむり、京一を握る手に自分もぎゅっと力をこめた。
確かにいる、その感触。好きか嫌いか、そんな事は言わなくてもいい。だけど、時々こうやって手は握りたい。熱は感じたい。そう思った。そう願うのはきっと自分がまだ弱いせいだろうとも龍麻は思った。
あの人たちとは違って。
胸のつかえが今取れた気がした。
|