はじまり
「 壬生」
その声に反応して壬生がすぐさま振り返ると、待ち焦がれていたその相手はどこか照れたような笑みを浮かべていた。
「 龍麻」
だから壬生も何となく気恥ずかしい気持ちがして微苦笑を漏らした。
待ち構えていた自分を悟られてしまっただろうかと思う。先週の休みにも会ったばかりだ。こんな風にそわそわしている自分を相手に気づかれたくはない。
「 早かったね」
「 壬生こそ。待った?」
「 いや、大丈夫だよ」
努めて冷静なフリを装って、壬生は自分に近づいてきたその人物―龍麻―のことを見やった。
龍麻から「明日会える?」と電話が掛かってきたのは、昨日の夜も大分更けたあたりの頃だった。
入学式の後でなら構わないと壬生が答えると、龍麻は「ああ、大学の…」とどこか感心したように呟いた後、それでも構わないからと電話口の向こうで柔らかく笑んでいた。
「 ごめんな。無理言って」
新宿駅の中央東口改札付近。
ざわざわと人通りの激しい場所で待ち合わせをしていた割に、龍麻は先に待っていた壬生をすぐに見つけた。長身であり、人より際立った容貌をしている壬生はどんな所にいても目立つのだろう。少なくとも龍麻にとって壬生を見つける事は決して難しい事ではないようで、足早に通りを行き来する人の波をかき分けながら、龍麻は「お前は裏稼業には向いてない。本当はさ」と言ってまた笑った。
「 なあ。俺、腹減ってんだけど」
「 それじゃ、とりあえず何処かへ入ろうか?」
「 うん」
腕時計をちらと見て「まだちょっと早いけどな」と言った龍麻は、それでも壬生の提案に嬉しそうな顔をすると、それなら早く行こうとばかりに先を歩き始めた。
そんな龍麻を壬生は「今日は妙にはしゃいでいるな」と思った。
「 入学式、どうだった?」
地上に上がってから偶々目に入った洋風レストランで、2人は和風パスタとサラダ、スープ、それにホットコーヒーを頼んだ。いつもならこれにパフェだとかケーキセットだとかを頼んでいたのにと壬生が心で訝しむ中、龍麻はあっという間に食事を終わらせるとミルクも入れていないブラックコーヒーをスプーンでかき回しながら壬生に向かって問いかけた。
「 ああいう式って感動するの?」
「 別に…普通じゃないかな」
「 大学って面白い?」
「 まだ一日目じゃ何も分からないよ」
子どものような質問を浴びせる龍麻に壬生は口の端だけで笑うとかぶりを振った。
それに対して龍麻の方は苦いコーヒーを無理に啜った後、納得したように頷く。
「 そうか、そう言われればそうだな。けど美里や翡翠の話を聞いたら、色々なサークルからの勧誘が凄くて大変だったって。…壬生もモテそうだな」
「 そういう話はよく…分からないね」
率直に感じたままを言ったつもりだったが、そんな壬生に龍麻はぴくりと片眉を上げると意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「 壬生。そういうの嫌味だから」
「 ……知らないよ」
「 そうやってクールに返すのも。駄目だから」
「 駄目と言われてもね…」
「 駄目なものは駄目。壬生はもっと自分のことを知るべきだな。お前は何にも分かっちゃいないんだから、まったく」
「 龍麻?」
「 ……ま、それは俺もなんだけど」
とぼけたような言い方をした後、龍麻は再度コーヒーを口につけて苦い顔をした。やはりブラックはキツイのだろう。どうして自分に合わせてそんな事をしているのかと、壬生は不思議な面持ちでそんな目の前の親友を見つめた。
親友。そう、2人は親友だった。
「 龍麻」
少なくとも壬生の方はそう思っている。卒業式の日、迷いに迷った末壬生は龍麻の元へ足を運び、そのまま自らの母親が入院している病院へ彼を連れて行った。今まで誰を連れて行った事もなかった。話をする事もなかった、病気の母親の事。そんな自分の一面を龍麻に見せたのは、壬生が龍麻を自分にとって一方ならぬ相手と認めていたからだ。
そして龍麻も、そうやって己を晒け出してきた壬生に「嬉しい」と言ったのだ。
俺に話してくれて嬉しい、と。
「 龍麻」
コーヒーを見つめたままいきなり押し黙る龍麻を壬生は2回呼んだ。
今日の龍麻はヘンだ。
もしかすると昨夜の電話の時から。いや、或いはもっと前から、龍麻には何か思うところがあったのかもしれない。こうやっていつもの笑みを浮かべてはいるけれど、何か話したい事があるのかもしれない。
「 …どうかしたの」
だから壬生はストレートに訊いてみた。共に戦っていた頃から、龍麻が1人で色々なものを抱え、悩んでいたことは傍にいてよく知っていた。陰と陽という違いはあれど、2人は正反対の中にいて、同じ場所に立っていたから。だから壬生には分かっているつもりだった。龍麻が苦しい時辛い時、泣きたい時や怒りたい時。そういう時はいつでも近くにいて龍麻の気持ちを受け止めてきたつもりだった。
だから今も龍麻が何か苦しんでいる事があるなら自分に話して欲しいと壬生は思った。
「 龍麻。僕に何か聞いて欲しい事があるんじゃないの」
「 え…どうして?」
やっと龍麻が口を開いた。壬生はその驚いたような龍麻の反応に多少意表をつかれながらも何とか言葉を返す事に成功した。
「 どうしてって…。そう思ったからだよ。何かを言いたいのに言えないって顔をしていると思った」
「 俺が?」
「 そうだよ」
「 ………」
「 違うの?」
「 ……ううん」
壬生の問いに、龍麻はここでようやく笑いながら首を左右に振った。それから横に置いていた鞄から小さな包みを取り出すと、壬生に向かって差し出した。
「 これは…?」
「 何でもないものだよ。大した事ない。ただ、壬生にあげたいから」
「 何なの?」
「 誕生日プレゼントだよ。壬生、今日誕生日だろ」
「 ………」
「 忘れてた?」
「 いや…」
何とか返答をしてから壬生は言い淀んだ。入院している母親が数日前からベッドで散々言っていたのだ。紅葉の誕生日に何もできなくてすまない、その日もし友達がお祝いをしてくれるようなら病院には来なくて良いから、とも。そんな母の言葉に壬生は笑って適当に相槌を打っていたのだが、まさか龍麻が自分の誕生日を祝ってくれるとは露程にも思っていなかった。
「 よく…」
「 ん?」
言いかけた壬生に龍麻が素早く反応した。
「 よく覚えていたね。僕の誕生日なんか」
「 うん。聞いたんだ」
「 誰に」
「 壬生のお母さん」
「 え」
母に会いに行っていたのかということにまず驚いた壬生だったが、目の前の龍麻があまりにも得意気な顔をしていたので却って壬生は何も言う事ができなかった。
すると代わりのように龍麻が先に口を切った。
「 ごめんな、何か。俺、そういう事頭回らないっていうか」
壬生の様子には頓着せず龍麻は言った。
「 お母さんに言われるまで、俺、そういうの意識してなかったし。誕生日? へえ、そう〜くらいのもんでさ」
「 そんなのは僕だってそうだよ」
「 そう?」
「 ああ…現に。君にこうやってプレゼントを貰うまで何の事か分かってなかった」
「 でも、お前の生まれた日なんだから、やっぱりめでたいよ。祝わないとな」
「 龍麻…?」
そういえば龍麻の誕生日はいつだろうと壬生はふと思ったが、出生の話をあからさまにしても良いものかどうか、ふと躊躇いを持って口をつぐんだ。基本的に龍麻は壬生の発言に気分を害したり怒ったりという事はしない。勿論、壬生自身が龍麻を怒らせるような事を言わないからという事もあるが、一方で龍麻が壬生や他の仲間たちと一線置いた付き合いをしているからと取る事もできた。
誰にも執着する必要がないから、誰に何を言われても怒りを面に出す必要がない。
「 ………」
そこまで考えると壬生は自然眉間に寄ってしまった皺を意識しながらそれを誤魔化すようにカップに口をつけた。龍麻とは心を許した友人であるはずなのに、そんな風に思ってしまった自分、またそんな風に思わせる龍麻にわだかまりのようなものを感じたのだ。
「 壬生」
すると龍麻がそんな壬生の心意を読み取ったように名前を呼んできた。
「 なあ。俺はこんな奴だから」
そして龍麻はテーブルの上に右腕をさっと伸ばして手のひらを開くと、さもそれを握ってくれと言わんばかりの目で壬生に言った。
「 あのな、お前の氣をちょっとちょうだい」
「 え…?」
「 手、のっけて」
「 ………」
催促するように指先を動かして龍麻は開いた手のひらを再度壬生に見せ付けるようにして動かした。
壬生が躊躇いながらもその手の上に自らの手を重ねると、龍麻は嬉しそうに笑った。
そしてゆっくりと長く細い指先を曲げて壬生の手のひらを包み込むようにして握る。
「 龍麻…?」
「 明るい喫茶店の中で若い男同士が手を握り合ってる。いい絵だろ」
「 ……からかってるの?」
「 ううん」
龍麻はそっと瞼を閉じると心底気持ち良さそうな顔をして口元を緩めた。壬生は何故かその龍麻の唇をじっと見つめた後、不意に身体から沸き起こった熱い情念に途惑いを覚えた。
壬生は目の前の龍麻に欲情した。
「 ……ここまで大急ぎで生きてきたせいで、俺、普通のまともな生き方って全然できてなかった」
龍麻が言った。
「 皆も壬生も、戦いが終わって高校卒業したら、それぞれ新しい道を選んで歩いて行ったよな。そこからまた普通に笑ったり泣いたり怒ったり楽しんだり…ちゃんとやってる。俺もそうできたらいいな」
「 ………?」
「 今までできなかった。しなくてもいいって思ってたし」
「 龍―」
「 でも今は何かそういう事したいんだよ。これ、ただの気紛れじゃないよな? …ないといいんだけど」
壬生が龍麻の言った言葉をひとつひとつ噛み砕こうとしていると、当の本人は「分からなくていいんだよ」とでも言わんばかりの顔でふにゃりと顔を崩した。
「 あのなあ、壬生。俺、大学も行きたくないし、就職もしたくないけど。でも、これからは普通の人みたいに生きるんだ。壬生の友達やって、壬生とたくさん遊んで、こうやってたまに手を握ったりして」
「 ……手を」
「 あ。それだけじゃ足りないだろうから、たまに愛情表現も」
龍麻がそう言ってちらりと向けた視線の先に気づいて壬生は呆れたような顔をした。
「 ……もしかして、だからプレゼント?」
「 うん」
壬生のその言葉に龍麻は嬉しそうに笑い、そして嬉々として言った。
「 友達の誕生日にプレゼント贈ったり、飯奢ったり。そういうのを、俺はやりたい」
「 ………」
「 そういうのが、俺の憧れ」
「 それで、どうだった?」
「 ん…どうだろ。普通、かな」
可笑しそうに目を細め、龍麻はずっと笑っていた。そして手を握り合っている自分たちをちらちら見ている周囲の客やウエイトレスを認めると、更に楽しくなったように表情を明るくし、茶化すように壬生に言った。
「 それに…好きな相手とデートして、思いっきりいちゃついて周囲のヒンシュクの的になるやつ。そういうのもやってみたい」
「 ……僕は友達じゃなかったの」
「 うん。友達。あと、好きな人」
「 ………」
一体どこまで本気なんだろう。
壬生は底の見えない、けれど必死に浮かび上がろうとしている自らの半身の熱を感じながら、ふと明るい外の日差しに視線を向けた。窓の向こうでは多くの人々が忙しそうに通りの道を行き来している。普通の光景、普通の日常。ああ、そんなものがこんなに愛おしいと、一体自分たち以上にそれを感じられる人間がここにどれだけいるのだろう。
「 龍麻」
それにしても、失念していた。龍麻を呼びながら壬生は心の中で苦笑した。
今まで龍麻の暗い感情しか見てこなかったからつい忘れてしまっていた。こうやって前向きに明るい日差しに向かう龍麻も、出会った当初自分が恋焦がれていた本当の緋勇龍麻なのだ。
「 壬生?」
「 ………」
だから壬生は龍麻に握られていた手の上に、もう片方の手も添えると自分からもようやっと余裕のある笑みを浮かべた。
そして自らに生まれ出た彼に対する邪な感情を必死に押し隠して。
「 ……それなら今度は、友達兼好きな人の家でお泊り会っていうのはどう?」
「 オトマリカイ?」
「 そう」
「 ……うんっ!」
目を見張るほどの大輪のひまわりが一気に咲き開いたように、目の前の龍麻がぱっと大きく笑うのを壬生は見た。まだ夏には遠いはずなのに。壬生はその眩しい自らの太陽を慈しむような眼差しで見つめた。
これからのはじまりに、らしくもなく胸を高鳴らせている自分が何だか可笑しかった。
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