独りの僕に



  朝目覚めた時の気だるさが、昼を過ぎても続いている。
「 なあなあ、ひーちゃん」
  クリスマスも終わり、もうすぐ年も明けようという頃。
  学校はとうに冬休みを迎えていたが、龍麻たちは相変わらず毎週日曜日を「旧校舎へ潜る日」として、律儀に真神の門をくぐり続けていた。
「 なあ、ひーちゃんは結局美里を取ったのかよ?」
「 ……何の話?」
  今日も何人かを呼んで修行をした後のことだ。京一が実に興味深い声で龍麻に訊ねてきたのは、もう日も大分傾いた頃のことだった。
「 だってよお、最近。紗夜ちゃんって壬生と仲良くねェか?」
  京一がそう言って視線をずらした先には、校舎から戻ってきた仲間たちの中、2人で何やら会話をしているらしい壬生と比良坂の姿があった。紗夜は壬生に何かを言われ、ひどく楽しそうに微笑んでいる。龍麻はそんな2人の様子を一瞬だけ目にし、あとは素っ気無く京一に返した。
「 そうなんだ」
「 そうなんだって…おいおい、まさか気づいてなかったのかよ。駄目だなあ、ひーちゃん、紗夜ちゃんのこと好きじゃなかったのかよ?」
「 ………別に」
  龍麻がそういう話は嫌だとばかりに眉をひそめると、京一はそんな親友に慣れた目を向けながらも呆れたようにため息をついた。
「 あーあ、もったいねえ。ま、いいけどよ。ひーちゃんの身体は一つしかねえし、どのみち最後にはたったの一人しか選べねんだからな」
  その中で、「誰も選ばない」という選択肢はないのだろうかと龍麻はちらと思ったが、敢えて言葉にはしなかった。そんな想いを話したところで何がどうなるわけでもない。またこの相棒に無用な心配をかけるだけだ。
「 おーっし、それじゃあラーメンでも食って帰るか!」
  龍麻の考えをよそに、京一がいつもの明るい声で周囲のメンバーに声を掛け始めた。それに対し、仲間たちも一様に害のない笑みを返してくる。
  これがいつものスタイル。
「 緋勇」
  その時、不意に背後から呼ばれて振り返ると、先刻の噂の相手―壬生―がいつもの無表情で立ち尽くしていた。紗夜は何処へ行ったのだろうとさり気なく視線を動かすと、高見沢ら女子たちと何やら楽しそうに談笑している。こちらは見ていなかった。
  壬生は仲間になってからも、龍麻に話しかけてくることは殆どといって良い程なかった。龍麻が戦闘時などに何かを求めればそれにはきっちりと応えてくるが、他の仲間たちと違ってそれ以外でこちらと何か深い関わりを持とうとはしてこない。
  だからこそ、そんな壬生が急に話しかけてきたことで、龍麻は少なからず動揺した。
「 ……何」
「 おーい、ひーちゃん! 何してんだよー。早くラーメン行こうぜー!!」
「 ひーちゃーん! 早くー!!」
  すると、今や既に校門に向かって歩き出していた京一たちが足を止めている龍麻に気づいて声をかけてきた。他の仲間たちもそうだ。何やら普段目にしない龍麻と壬生という取り合わせに、興味深そうな視線を送ってくる。
  居心地が悪いと思った。
「 あとで追いかけるから!」
  待たれるのは嫌いだし、詮索されるのも嫌だった。壬生と2人になることに抵抗がないわけでもなかったが、それでも龍麻は何でもないことのように明るい表情をして、仲間たちを先に行かせた。そうして周囲に人がいなくなったところで、ようやく龍麻は皆に向けるような「いつもの」顔を壬生にも見せることに成功した。
「 どうしたんだよ、壬生?」
  笑って。優しく訊いて。
  それが自分の義務。
  たとえ今日は朝から具合が悪かろうが、疲れていようが、そんな事は関係ない。龍麻はそこらへんのことは自分なりに自覚しているつもりだったから、努めて柔らかい微笑で壬生と接した。
  そんな龍麻に壬生の方は気づいているのかいないのか、相変わらず感情の見えない顔のままで無機的な声を出した。
「 さっきから放っておいているから、気になってたんだ」
「 え? 何を?」
「 痛くないのかい」
  壬生は問いかけながらも別段驚いてもいないような顔で龍麻を見据えた。そうして、すっと指で龍麻の手元を指し示した。
「 左手。血がついてるよ」
「 え……」
「 もう止まって乾いているみたいだけど」
  驚いて指摘された手に視線をやると、なるほど左の手の甲が少しだけ傷ついていた。
  いつのことだろうかとぼんやり思う。
「 辛いの」
  すかさず壬生が訊いてきた。龍麻が怪訝な顔をして相手を見やると、自分と同じ系統の技を持つ男はまたしても何を考えているのか見えない顔で声を出した。
「 それ、君が自分でつけていたから」
「 ………え」
「 気づいてなかった?」
「 あ……うん……」
「 ………そう」
  壬生は龍麻の頼りな気な声に何事が考えるような素振りを一瞬だけ見せたが、後は何も言わずに自分のハンカチを差し出してきた。白い清潔な綿に、上品な華の刺繍が施されている。龍麻が訳も分からずにそれを受け取ると、壬生は口の端を少しだけ上げて微かに笑った。
「 血。それで拭きなよ」
「 あ、りがとう……」
「 それじゃあ」
「 あ…」
「 え?」
「 あ…その、これから京一たちと―」
「 僕はいいよ」
  龍麻の言わんとすることを察して壬生はすかさずそう言うと、後は龍麻の方は一切見ずに独りで帰って行ってしまった。皆と一緒に食事など、彼には縁遠いことのようだった。そんな壬生の後ろ姿を龍麻はしばらく見つめた。

  『ズルイ 』

  一瞬そう思ったが、口に出すことはできなかった。



  どうして傷などつけてしまったのか。
  独り部屋のベッドに腰かけてから、龍麻は抉られたような傷口を見やった。回復力に関しては人間離れしているところがあったから、出血自体は大した事はないのだが、それでも一度気になるとその傷はひどく深く、痛々しいものに見えた。
「 別に……」
  辛いのかと壬生は訊いたが、特に何があったというわけではない。いつもと同じことをしただけだ。多くの異形を倒し、皆に指示を出し、それから―。
「 頭、痛い……」
  考えるのが億劫で、龍麻は頭を振るとそのままベッドにもたれかかって目をつむった。そうして。
  壬生は自分のことなど見ていたのか、とふっと思った。





  それから一週間後。再び旧校舎に潜る日がやってきた。
  休みの期間だけあって、学校に来る生徒の数はまばらだった。せいぜい部活動で顔を出している1、2年生の姿が校庭にちらほらと見える程度だ。
  それでも旧校舎に集まったメンバーは、自分たちの進路の話などをしながら和気あいあいとしている。これもいつものスタイルだ。
  今日も朝から身体がひどく重いというのに。
  龍麻は心の中で密かに嘆息した。
「 よっし、それじゃあ潜ろうぜ!!」
  親友の京一が威勢よく言った。
「 今日の目標は百階制覇だからな! みんな、気合入れて行くぜッ!!」
「 京一の奴、張り切ってるねッ!」
  龍麻の横で小蒔がいつもの明るい口調で言った。そういう小蒔自身も実に楽しそうだ。これから戦いに行くようにはとても見えない。
「 ……………」
  他の仲間たちもだ。皆、どうしてそんな風に笑っているのだろうかと思う。実際はそれぞれに何かを抱えていて、苦しいことも辛いこともあるはずなのに、それを表に出そうとしない。皆、それぞれが自分の《力》を高めようと頑張っているのが分かった。
「 龍麻」
  その時、不意に声がかけられて龍麻が顔を上げると、そこには比良坂の姿があった。笑顔の可愛い、芯の強い女の子だ。龍麻はそう思っている。そんな比良坂が龍麻の顔を伺いながらそっと訊いてきた。
「 どうしたの? 何だか顔色が悪いけど…大丈夫?」
「 あ、うん。平気だよ」
  無理して笑って見せると、それだけで比良坂は安心したようだった。これでもかというほどの笑顔を見せ、「えへへ、良かった」と嬉しそうだ。
  どうして自分のことでこんな笑顔を見せられるのか、そしてどうしてそんなに察しがいいのかと龍麻は心底不思議に思う。
「 あ……」
「 え? どうしたの?」
「 あ、いや何でもない…」
「 龍麻。もうみんな降りて行っているわ。急ぎましょう」
  美里が比良坂と肩を並べている龍麻にすかさず声をかけてきた。龍麻はそんな彼女にも「うん」と柔和に返事を返し、そうして歩を進めた。
  それから背後をそっと振り返り、自分たちに視線を送っていた壬生の姿を盗み見た。心の中で、見ていたのかとつぶやいた。
  戦闘はいつもと変わらぬものだった。
  前列に立って戦う者、後方から敵の出方を伺いながら攻撃を仕掛けるもの、戦う者を補助するもの。それぞれが自らの役割をもうすっかり理解していて、的確な動きをしていく。以前は龍麻が事細かに指示していたことも、今では醍醐が代わりにやってくれたり、皆が自分の判断で動いてくれたりもする。
  楽だった。
「 よーっしゃ! 80階制覇!!」
  京一の嬉しそうな声。みんなの満足したような顔。
  自分も、一緒に笑ってみる。

  疲れる。

「 緋勇」
  その時、また声がかけられた。
「 ………ッ!」
  ぎょっとして振り返ると、すぐ傍に壬生がいた。
「 壬生…」
  気づかなかったと思いながら、何故か警戒した眼を向けてしまうと、壬生はそれに対して慣れたような顔をしながらも、不意に龍麻の左手首を掴んだ。
「 な…っ」
「 無闇に傷をつけるのはやめなよ」
「 俺は別に―」
  しかし言おうとした瞬間、ふっと目にした自分の左手に、龍麻は開きかけていた口をつぐんだ。
  一週間でやっと塞がったあの時の場所に、また新たな傷がついていた。
「 また血が出ているよ」
「 何で……」
「 君がつけたんだよ」
  壬生は言ってから、一週間前と同じように自分のポケットから白いハンカチを取り出してそれを龍麻の手の甲に当てた。白い絹はそれだけで龍麻の血でじわりと赤く染まり、何かの模様のようになった。龍麻はそれを珍しいものでも眺めるかのように見つめた。そして同時に、壬生の手の温度を感じて奇妙な感情を抱いた。
「 どうしたの、龍麻!?」
  その時、不意に驚いたような声が掛けられて、比良坂と美里が同時に龍麻たちの傍にやって来た。
「 怪我したの? 大丈夫?」
「 龍麻、私に見せて」
  2人が競うようにして龍麻に声をかける。さすがにそんな2人に面食らいながらも龍麻が「大丈夫…」と言いかけると、今度は他の仲間たちまでが下りかけていた階段から戻ってきてわらわらと傍に群がってきた。
「 本当に…大したことないんだから」
  皆が皆、たかが手に軽い傷を作った自分に声をかけてくる。
  確かにこの程度の階で傷など作っていたら、逆に何かあったのだろうかと心配もするだろう。龍麻はそんな事を思いながらも、何とかこの息苦しい空間から逃れようと自らの傷を隠した。そしてどうしてか分からないが、同時に仲間たちの来襲によって姿が見えなくなってしまった壬生のことを探した。
  壬生はもう龍麻のことなど見ていなかった。ただ辺りに視線をやり、独り遠くを眺めていた。
「 …………」

  『ズルイ 』

  何故かまたそんな言葉が脳裏に浮かんだ。そしてどうしてかこれ以上壬生の方を見ていられなくなり、龍麻は目を逸らした。そして後は何もかもを忘れるように、再び戦いへ向けて足を地下へと向けた。



 全員が無事に地上に帰還したのを果たしたのは、夕刻も過ぎたあたりの頃だった。
「 あー、疲れた疲れた! さーて、ラーメン行くぞー!!」
  いつものように、京一の明るい声が夕暮れの校舎裏にこだまする。良きにしろ悪しきにしろ、これで自分は一日の終わりを実感するなと龍麻は思う。
  それでも今日はやはりもう独りになりたかった。
「 京一」
「 んー? どした、ひーちゃん」
「 俺、今日はもう帰るよ」
「 へ? どうした? やっぱ具合悪いのか?」
「 え? やっぱって…?」
「 だってよー、ひーちゃんが怪我するなんておかしいもんなあ。どっか悪かったのかと思ってよ」
「 ……ううん、大丈夫」
  みんなと違ってうるさく群がっては来なかったが、京一まで自分のことを心配していたのかと思い、龍麻はすぐに反応することができなかった。それでも努めて笑顔を見せて、心配させまいと明るい声を出して、皆を見送った。
  校門のところで独りになり、ようやく息がつけた。
「 馬鹿みたいだ……」
  自分が疲れる理由もよく分からず、それでもため息をつく。
  返せなかった壬生のハンカチを見つめてから、そういえばアイツは皆と一緒に行ったのだろうかとふと思う。比良坂が行ったのなら、一緒に行ったかもしれない。
「 誰が」
「 !!」
  その時、背後で聞き覚えのある声がして、龍麻は反射的に飛び退ってしまった。
「 み…壬生……」
「 …………」
  壬生は黙って驚いた顔の龍麻を見やりながら、姿勢正しくその場に立ち尽くしていた。
「 な…何で……」
「 何が?」
「 みんなと…行かなかったのか?」
「 僕はいつも行かないじゃないか」
  壬生は突然どうしたんだというように不審の声で言ってからすっと龍麻に近づいて、傷のある左手首を掴んだ。
「 痛…ッ」
「 ちゃんと手当てした方がいいよ。この間と同じ場所だし」
「 あ、うん……」
「 あの後美里さんに治療してもらわなかったのかい」
「 大した事ないし…」
「 比良坂さんもいたから、遠慮した?」
「 えっ…別に、それは…」
「 余計な事だね」
  壬生は自身の吐いた台詞をそう言ってすぐにかき消すと、あとは自分が脇に抱えていた学生鞄から消毒薬とガーゼを取り出し、門の前に龍麻を立たせたまま、実に手際良く手当てを始めた。龍麻は黙ってそれを見ていたが、その中にある沈黙すらどことなく息苦しくて、つい口を開いてしまった。
「 俺は別に比良坂さん、好きじゃない」
「 そう」
  壬生はすぐに反応してそう言った。視線はひたすら龍麻の手元にいっており、声も態度も実に淡々としていた。
「 壬生は…だから気にしなくていいよ」
「 何がだい」
「 好きなんだろ」
「 誰を」
「 誰って…比良坂さん」
「 …………彼女、いい人だね」
  壬生はしばらくは無言だったが、ようやくそれだけ言い、やがて手当てを終えるとすっと離れて龍麻を見やった。その目はそんな事を急に訊いてきた龍麻を怒っているようにも、呆れているようにも見てとれた。
「 でも、誤解しないでくれ。彼女に好意を持っているわけじゃない」
「 え…?」
「 嫌いじゃないってだけのことさ。それだけのこと」
  その言い方がひどく冷たいものに思えて龍麻は沈黙した。それでも何故かそう言った壬生に違和感を抱くことはなかった。
「 俺も…」
  だからかもしれない。また余計な言葉が口をついた。
「 美里のことも、好きじゃない」
「 …………」
「 嫌いじゃないけど」
「 緋勇」
  すると壬生はいつもの抑揚のある声で言った。
「 以前から訊きたかったんだ。初めて会った時から思っていたんだけどね。君、平気なの」
「 え……」
「 いつも独りで抱えすぎていて、それなのにそれを隠して。疲れないの、そんな事していて」
「 ………何言ってるんだよ」
「 嫌なことも断らない。笑いたくもないのに笑ってる。怒りたくても叫びたくても我慢できるのはどうしてだい」
「 ……………」
「 そういう事していると、長生きできないよ」
  壬生の言い様に胸がどくんと高鳴って、龍麻は絶句した。
  コイツはいきなり、何を言い出すのだろうか。自分の何を知っていて、こんな分かった風な口をきくのだろうか。
「 それは…お前だろ」
「 え?」
  壬生が怪訝な顔を見せたことが何だか不快で、龍麻は声を荒げた。
「 いつも無理して独りで抱えすぎているのはお前の方だろ」
「 ……君にはそう見えるの」
「 誰からもそう見られているよ。お前は」
「 ……ふーん」
  壬生は龍麻のその言い様にもどこか他人事でそう答えた後、何事が考えこむような仕草を見せた。龍麻はそんな掴みどころのない壬生と一緒にいるのが嫌で、けれど離れるのもどこかためらわれて、ただその場に立ち尽くしてしまった。
  先に沈黙を破ったのは壬生だった。
「 緋勇。ところで、さっき貸したハンカチ。持っている?」
「 え…? あ、うん」
  龍麻は思い切り意表をつかれて反応を返すのが遅れたが、慌ててズボンのポケットから先刻借りた白いハンカチを取り出した。綺麗にアイロンのかけられていたそれは、龍麻がポケットにぐしゃぐしゃにして突っ込んでいたせいで皺だらけで、おまけに血がついてひどく汚れていた。
「 これ…洗濯して返すよ」
「 別にいいよ」
「 あ、あとこれも…」
「 ……ああ」
  壬生は龍麻が不意に鞄から出した物を見て、声を出した。
「 先週借りたままだったから。こっちはちゃんと洗っておいた。でもうち、アイロンはないから」
「 別にいいって」
  壬生はここでようやく苦笑してから、龍麻が取り出したハンカチを受け取った。それから再び手を出して、未だに龍麻が握っている汚れた方の物も指し示して言った。
「 そっちも返してくれるかな。洗うのはいいよ」
「 え、いいよ、洗うよ」
「 いいんだよ、そんな事しなくて」
「 だって悪いだろ」
「 …………」
「 壬生……?」
「 ………気を遣うのやめてくれないかな」
「 ………!」
  壬生の初めて気分を害したような声に、思わず龍麻は声を失った。
「 それじゃ同じだろ。他の連中にしている態度と」
「 ……壬―」
「 そんな君は見たくないんだ」
「 壬生…」
  壬生にそう言われて。龍麻は急激に自分の内に湧き上がってくる焦燥感のようなものを必死に抑えながら、それでも何とかその場を誤魔化そうと「いつもの」笑顔を作った。
「 気なんか…遣ってないよ。借りたもの汚したんだから、洗って返すのは当然だろ」
「 ……僕を怒らせたいのかい、龍麻」
「 !!」
  不意に名前を呼ばれ、龍麻は再び声を失った。動けないでいると、壬生はまるで奪い取るかのように乱暴な所作で龍麻が手にしていたハンカチを取り去った。
「 あ…っ」
  龍麻が自分の物を取られたような声を出すと、壬生は再び眉間に皺を寄せて、自分よりも数段低い龍麻のことを見下ろした。
「 これは僕のだよ。それに、これは汚れてなんかいない。ついたのは君の血だろ。僕は気にしないよ、むしろ―」
  言いかけて壬生は黙りこみ、それから急に途惑ったようになってふいと視線を横に逸らした。
「 壬生…?」
  龍麻が不審の声を上げると、壬生は再びイラついたような眼を一瞬だけ見せると、そのまま去って行こうとした。
「 ちょっと…待てよ、壬生」
  慌てて呼び止めたが、相手は止まらない。もう龍麻のことを振り返りもせずに歩いて行ってしまう。先週と同じだ。人のことを勝手に見て、心配して、余計なことをして。それだけをして離れていく。
「 待てって言ってるだろ!」
  堪らなくなって、龍麻は考えるより先に壬生に向かって歩を進め、その肩口を掴んでいた。瞬間、振り返った壬生の冷たい表情がもろに自分の視界に飛び込んできた。
「 何で…そんな眼してるんだよ」
「 どんな眼?」
「 ……怒っているだろ」
  龍麻がやや恐る恐るといった風に声を出すと、壬生は少しだけ目を見開き、相手の心根を探るような顔をした。それからふいと視線を下にずらし、ぽつりと返してきた。
「 そうかもしれないな」
  そうして今度は顔を上げてはっきりと龍麻を見ると、どことなく辛そうな顔をした。
「 君を見ていると…どうにも堪らなくてね」
「 どういう意味……」
「 さあね」
「 な…何だよそれ…」
  龍麻の問いに、壬生はすぐには答えなかった。
  しかし不意に龍麻の左手を優しく握ると、先刻自分が手当てしたばかりの場所をじっと見つめてきた。
「 壬生…?」
「 僕は…君に傷ついてほしくないんだ」
  真っ直ぐな澄んだ声だった。
「 君がこうして自分を傷つけている理由が…僕には何となくだけど分かる。だから余計に堪らない」
「 ………」
  龍麻が眉をひそめると、壬生はただ龍麻の手を握る自らの手に力を込めた。
「 それなのに、きっと僕じゃ君の力にはなれない。僕じゃ…なれない。それが悔しい」
「 何を……言ってるんだよ?」
  龍麻が問うと、壬生はしばらく黙りこくっていたが、やがてはっきりとした口調で言った。
「 君はずるい人だな」
  何故だか急に周囲の物音が消えたと龍麻は思った。
「 何だよ…」
「 ごめん。でもそう思うんだ。僕には君を救うことなんてできないのに、僕にはいつも君が見えてしまうし、君の声も聞こえてしまう。君が必死に隠していることも分かってしまう」
「 そ、んな…」
  訳の分からない事を言うな、と言おうとして、それでもうまく言葉が出なくて龍麻は途惑った。どうしてこんな風に相手の態度に驚いて狼狽しなければならないのか。これはいつもの自分ではない。そんなところを見せてはいけないと思う。
  それでも、どうしてかいつもと同じペースを保てなくなっていた。龍麻は壬生に握られた手を乱暴に振りほどいた。手にこもっていた熱が一瞬のうちに引いていった。 
「 そんな……分かった風に言うなよ。俺は、そういうのが嫌いなんだ。人のことなんか分かるわけがないのに……」
「 …………」
  壬生が黙ってこちらを見つめているのを意識しながら、龍麻は必死に表情を強張らせてまま声を絞り出した。
「 そうやって遠くから勝手に見て、判断して、お前に俺の何が分かるっていうんだ? 俺はお前のことなんか分からないのに、分かろうとしたこともないのに、そうやって俺のことを見透かしたように、何を…」
  朝目覚めると、いつも息苦しくて。
「 お前に分かるわけないだろ…」
  気だるくて。それがずっと続いて。
「 いつも…それなのに、今日もまた一日生きなきゃいけないと思う」
  また、笑顔を作って。また、自分を殺して。それで。
「 今日もまた殺したって思う」
  龍麻が押し殺してようやくその想いを吐き出すと。

「 ああ、そうだね」

  壬生の声が聞こえた。
「 …………」
  龍麻が顔を上げると、そこには壬生のいつもの顔があった。
「 何で……」
  自分が出しているのに、自分の声でないような、そんな弱々しい音が聴覚に届いた。「何でそんな眼で俺を見るんだ…」
  答えはすぐには返ってこなかった。龍麻は再び焦りのような気持ちを抱き、それからやや呆然と言葉をついた。
「 壬生…どうして……」
  返事はない。声が欲しいのに、何かを言ってほしいのに、求めている相手から何も返ってこない。それで龍麻は急にどうしようもなくなって、ずっと秘めていた想いを言葉にしてしまった。
「 苦しいんだ」
「 ……………」
「 俺、ずっと苦しいんだ」
  朝――。
「 朝、目が覚めると、いつも―」
「 僕が―」
  すると壬生はゆっくりと身体を近づけ、そうして龍麻が驚かないようにそっと腕を回してきた。
「 何……」
  壬生の所作に驚きながら、それでも龍麻は抵抗することができなかった。壬生は言った。
「 抱きしめたかったんだ。僕がいること、ここにいること、君に知ってもらいたかった」
「 知ってる…」
「 ………いや、君は僕のことなんか見ていない。誰も見ていない」
「 …………」
  否定できずに口をつぐむと、壬生の拘束はより一層キツくなった。龍麻は必死に身じろぎながら何とか相手の顔を見ようとしたが、それは許されなかった。
「 僕じゃ駄目だ。それは分かっている……」
  壬生の悲しそうな声が聞こえ、思わず龍麻は身体を揺らした。どうしてか胸が痛い。
  だからその痛みを緩和させるために、壬生の背中に自らの腕を回した。目を閉じた。
  温もりを覚えてしまうと、冷たい死体に触るのが嫌になるのに。
「 壬生……」
「 …………」
  壬生は答えなかった。そうして龍麻の問いかけを避けるように、ただ強く強く抱きしめ続けていて。
「 壬生」
  もう一度呼ぶと、その拘束は解けた。その瞬間はひどく心細くて、哀しくて。
  恋しくて。
  だから龍麻は自分の手を初めて目の前の人物に差し出した。壬生を求めた。
  恥ずかしいとは思わなかった。
「 もう一回さ…この手に触ってくれるか」
  今だけだ。こんな風に熱を欲しがっているのは。コイツのせいなのだ。ずるい、コイツのせいなのだ。
「 この手が…俺は嫌いだけど」
「 僕は……好きだよ」
  その言葉に龍麻はもう一度を目を閉じ、傷ついた手からずっと欲しかった熱を感じとった。不思議だと思った。 

  朝目覚めた時の気だるさが、今だけは――。



<完>





■後記…鬱な龍麻に鬱な壬生。そんな暗い関係が好きなんです。その際の壬生には、誠実なんだけど、でもちょっとマニアックな感じでいてほしいです。たとえば龍麻の血がついたハンカチを異様に欲しがるところとか(笑)。いや…そんなふざけたシーンじゃないけど。