この雨があがったら
龍麻が仲間たちと別れたすぐ後だった。
突然激しい雨が降り出したかと思うと、低くこもったような雷の音が辺り一面に響き渡った。
「 うわ…すご……」
思わずつぶやいて、龍麻は近くの建物―シャッターは下りているがどうやら貴金属店のようだ―の陰へと小走りに向かった。そこは身体をすっぽり覆ってくれる程度の丁度いい屋根があったから、そこまで行き着くと、龍麻はようやく安心したようにはっと息を吐き出した。
頭から肩からあっという間に濡れてしまい、湿った全身が凍えるようだった。
季節は冬だ。この雨は堪える。
龍麻はぶるりと身震いした。ここまでになってしまうと、ここでこうして雨宿りをするよりは、もうさっさと電車に乗って家に帰ってしまった方が良さそうなものだったが、駅まで走るのが嫌だった。それほどの、激しい降りだった。
「 突然だもんな。どっかの南国かよ…」
スコールが降るという知らない異国を思い浮かべながら、龍麻は1人毒づいた。 周囲の人々も皆一様に走って駅の方向へ向かうか、喫茶店などへ駆け込んでいる。 傘を持ち合わせていた幸運な人は龍麻の視界には見当たらなかった。
こんなことになるなら、みんなとラーメンを食べて行けば良かった。
龍麻は微かに先刻の出来事を後悔しながら、ぼんやりと水滴に叩きつけられる灰色の路を見つめた。
「 ひーちゃん、ラーメン食って帰ろうぜ!」
口癖のように言う相棒の言葉に、いつもの龍麻なら何の気なしに頷いていたはずだった。京一ほどではないにしろ、龍麻もラーメンは好きだし、みんなと楽しく会話することも普段は好んでいた。
しかし今日はさすがにそんな気分にはなれなかった。
「 龍麻」
そんな事を考えていた時、突然声をかけてきた人物がいた。
「 壬生」
龍麻がはっとして顔を上げると、目の前には龍麻と同じくらいに身体を濡らした壬生―頼もしい仲間―の姿があった。
「 龍麻も傘を?」
「 あ、うんそうなんだ。いきなりだったからさ」
「 本当にね」
壬生は言いながらさっと龍麻の隣に入り込むと、濡れた水滴を払うように片手で肩を軽く払った。
「 壬生は新宿に何か用が―」
言いかけて龍麻は口をつぐんだ。今日は別に旧校舎に潜る号令をかけたわけでもない。だとしたら彼がいる理由は――。
「 仕事、でね」
壬生はあっさりと言ってから、龍麻の方は見ずにすっと降りしきる灰色の空を見上げた。
「 あ…大変だな」
間の抜けた台詞だ。 龍麻は自分自身でそう思いながら口ごもった。 壬生は別段何とも感じなかったようで、ちらと龍麻のことを見てから「そうでもないさ
」と義理堅く返答してきた。
龍麻はそんな仲間の横顔をこっそりと見やった。
精悍とした顔つき。
龍麻は初めてこの壬生紅葉という人間に出会った時から、彼の容貌にはひどく惹きつけられていた。単純に綺麗だと思ったからだろう。
そういう結論は龍麻自身の中ではとうに出ているものだったが、それにしても慣れるということがなかった。
「 何?」
そんな龍麻に、壬生が不意に視線を向けて問いただしてきた。見られていることに気づいていたのだろう、龍麻は慌てて顔を逸らし、口許でもごもごと「何でもない」とつぶやいた。
「 龍麻こそ、1人でいるなんて珍しいね。他の人たちは?」
すると壬生はさっと口調を変えてそんな事を訊いてきた。龍麻はほっとしてそれに答えた。
「 あ、ああ…。何となく今日はすぐに別れたんだ。京一の奴はラーメン食おうっていつもとおんなじ事繰り返してたんだけど」
「 仲がいいんだね」
壬生の何気ない言葉に、龍麻は不意にムキになった。
「 別に…そんな事もないよ」
「 そう…?」
「 そうだよ。いつもいつも一緒にいても仕方ないしね」
何をいきなりこんな事を話し始めているのだろう。龍麻はそんな事を思いながらも、しかし動かす口を止めることができなかった。壬生の視線を感じながら、龍麻は続けた。
「 気分じゃない時だってあるだろ。俺だって、たまにはさ」
「 ……君でもそういう事があるんだね」
「 え?」
「 いや、何でもないよ。けど、それじゃあ、彼らはがっかりしたんじゃないの」
「 知らないよ、そんな事…。京一はぶうぶう言ってたけど。でも俺もさ、少しくらいさ、あいつに教えた方がいいと思って」
「 教える?」
壬生の怪訝な顔をちらっとだけ見て、龍麻は言った。
「 うん。俺だって怒ることはあるんだってことを」
何故だろう。すらすらと言葉が出る。龍麻はそんな不思議な感覚に包まれながら、壬生の隣にいる居心地の良さを実感していた。
それでも真剣に話を聞いてくれているらしい壬生の顔を、何故か龍麻はうまく見返すことができずに、周囲の景色に目をやった。
「 あいつさ。 あの拳武でのことがあってから何かちょっと変わった。すぐ勝手に1人で旧校舎行っちゃったり、俺に内緒で他の奴らと手合わせして腕磨いてたり。何かよそよそしいっていうか。だって言わないんだよ、そういう事してるって。何で隠す必要あるわけ? それとも特に言う必要もないって思ったのかな。だとしたら俺たちってその程度の仲だったのかな。何かそんな事を考えていたらむかついちゃってさ」
「 それで彼の誘いを断って帰ろうとしたんだ」
「 そう…。いつでも俺があいつの言う事聞いて笑ってると思ったら大間違いだって気づかせたかったっていうか」
「 …………」
壬生は何も言わなかったが、龍麻は自分の胸の内を語った事で大分すっきりしていた。
しかしこのことは別段京一だけに限ったことではなく、醍醐も小蒔も、そしてもしかすると美里に至っても、自らの思いを語らずに一人で何とかしようとする雰囲気があった。
龍麻はそれがたまらなく嫌だった。
置いていかれているような気がしたから。
「 みんな君のことが好きなんだよ」
壬生がそんな龍麻の意を汲んだようにそう言った。言われて龍麻も、多分それはそうなのだろうと思う。
しかしそんな事を言われても、響いてくるものなど何もなかった。
それでも壬生は言った。
「 君のために何かしたいんだよ」
「 俺、そういうの嫌いなんだよね」
龍麻は壬生にあたるように語気を強くして言った。仲間と思っている人間に、ただ一方的に奉仕されるなどたまらないと龍麻は思う。
しかし壬生はそんな龍麻には構わない様子でこうも言った。
「 仕方ない。それが君の宿命だから」
「 宿命?」
壬生の軽い言い様に龍麻は思い切り面食らった。壬生の顔は何ほどもないというような顔のまま平然としていたが、それでも「宿命」などという大袈裟な言葉には引くものがあった。
龍麻はここでようやく壬生の顔を再びまじまじと見やったが、けれど相手の方は相変わらず正面を向いたままだった。
「 そう、宿命だよ。君は多くの人に愛されて、護られて。そしてその人たちの中心にいつもいる……そういう宿命なんだよ」
「 俺…そんな大層な宿命嫌だな」
龍麻は言ってから、皮肉交じりに笑った。
「 大体さ。そういうカリスマ性に優れた役は俺みたいなのがやっちゃだめじゃん。壬生みたいな美形青年がやらなきゃ」
龍麻のその台詞に壬生は珍しく目を見開いて驚くような顔をした後、これも彼にはとんと見ないような困惑したような表情を浮かべてきた。
その顔を見て、龍麻はこいつもこんな顔をするんだ、と何となく思い嬉しくなった。
そんな龍麻の心根には気づかずに、壬生はやや翳ったような声を出した。
「 僕のことをそんな風に言う人は…龍麻、君だけだよ」
壬生がそう言った言葉に、今度は龍麻がきょとんとした。
「 ええ? 嘘だろ? お前、学校でもモテるだろうし―」
「 僕の本質を知らない人たちが何を言ったって、僕には何も届かない」
「 ………」
「 僕はいつもこの手を汚している。今日だって」
言いかけて壬生ははっとして龍麻を見、そして黙りこくった。
気まずそうに視線を逸らす。
2人の周囲にはしばらく雨の音しかなかった。
大分激しい降りは収まってきている。今なら駅まで走ってもいいだろう。
「 …………」
けれど龍麻は隣に立ち尽くす壬生をただちらちらと見ているだけだった。やはりこの横顔は好きだと思った。
その時。
「 本当は――」
壬生が雨を見やりながらつぶやいた。独り言のようなそれだった。
「 え?」
龍麻がよく聞き取れずに聞き返すのには構わずに、壬生は言葉を続けた。
「 傘は持っていたんだ」
細い雨だ。先刻まで人々にとっては疎ましい存在でしかなかったそれが、汚れた町の空気を洗い流していってくれるような…そんな清浄なものに移り変わったようだった。
壬生はその雨だけを見つめていた。龍麻の方には決して顔を向けなかった。
そして言った。
「 でも、持っていた傘は…道を行く知らない人にあげてしまった。僕は君とこうして雨宿りがしたかったから」
「 み、壬生……?」
「 君と2人でこうして話がしたかったんだ」
「 え……」
「 いつもはみんながいるから」
壬生はそう言ってから、ここでようやく龍麻の方を見据えてきた。
真っ直ぐな、怯みのない瞳だった。それに気圧されて龍麻の方が戸惑ってしまった。その場に固まっていると、壬生はそんな龍麻の頬にそっと触れて言った。
「 みんなが君を好きなのは知っている。君が彼らを好きなことも。僕がそこには入れないことも」
「 え、何言って―」
「 でもこんなひと時だけでも、僕だけの君でいてほしくて」
「 ……お、俺は……」
何と答えて良いか分からぬまま、しかしそっと近づく壬生を龍麻は拒絶することができなかった。降りしきる雨の中、人通りはない。それでも龍麻は周囲が気になって身じろいだ。
けれど、不意に下りてきた壬生の唇をそのまま受け入れて。
龍麻は目をつむった。
「 ……………」
しばらくして壬生の体温が離れ、龍麻は瞼を開いた。壬生はじっとこちらを見つめ、それから初めて笑んだように見えた。
「 ごめん」
それなのに、彼はそう言って謝った。
そして後は何事もなかったかのように正面を向き、再び薄暗い空を見上げて沈黙した。
「 壬生……」
仲間になってくれたのに。
彼は自分が背負う陰を未だに抱えて生きていた。
こんなに綺麗なのに、こんなに優しいのに、何故彼はこんなに苦しんでいるのだろう。
龍麻には壬生のことがまだよく理解できなかった。
「 壬生……」
ただ、 そんな相手がこちらを見てくれないのは嫌だと思った。ただ名前を呼ぶしかできない自分だけれど、それでも龍麻はこの想いだけは伝えたいと思った。
「 壬生、俺は」
しかし言葉だけでは伝わらない気もして、龍麻は湿った肩を隣に立つ壬生の腕にとんとくっつけた。 身長差のせいでそうなってしまうのだが、この際そんな事はどうでも良かった。
龍麻は壬生の身体に触れて言った。
「 俺、お前のそういうのは嫌じゃないんだけど」
だから、謝るなよ。
そして龍麻は、壬生がこちらを見る前に1人で赤面してしまった。
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