ひとすじの糸から
御門が客間の障子を開けて突然の訪問者を中に通すと、かの相手は実に唐突にその遊びを持ちかけてきた。
「 なあ、あやとりしよう」
突然言われたこともあり、御門は最初何を言われているのか、珍しくすぐに理解することができなかった。勿論、その遊び自体を知らなかったわけではない。ただ、戸惑っただけともいえる。しかしそれを努めて表には出さないよう注意して、御門はそんな事を持ちかけてきた人物を黙って見つめた。
久しぶりに顔を見せたと思ったら、彼はどこで拾ってきたのか、妙に薄汚れた毛糸を取り出し、目の前に掲げてみせる。それからその糸の両端を二重結びにして程よい輪を作り上げると、別段楽しそうでもなく、「やろう」ともう一度言ってきた。
「 ………あやとり、ですか」
「 そう。じゃあ御門からな。はい」
両手の指に絡めた糸を差し出して、相手は無表情のまま御門がその糸を取ってくるのを待った。しかし御門は手にした扇子を開いたまま、ただ部屋の入り口近くに立ち、相手の事をじっと見据えた。
いつもの事とはいえ、どうにも読めない人だと思う。
「 龍麻さん」
「 何」
声をかけられてその相手―龍麻―は、抑揚のない声で返事をした。
「 何か話したいことがあるのではないのですか」
「 別にないよ。はい」
表情を変えないまでも、明らかに不審の声を出している御門に対し、龍麻は平然とそれだけを返した。そして御門が相手をしてくれないものと諦めたのか、「田んぼ」などと言って、一人で糸を操り始めた。割と器用だ。
「 こっからさ、東京タワーとか蝶々にする方法知ってるか」
「 いいえ」
御門が答えると、龍麻は「仕方がないなあ」というような、半ば馬鹿にしたような顔をしてから続けた。
「 じゃあ、川なら分かるだろ。いっちばん簡単なやつ」
「 先ほどの田んぼなら知っていますが」
「 あれは誰でもできるから知っているうちには入らないよ」
龍麻は軽く言い捨ててから、一人でひょいひょいと糸を操っては、自らの手の中でより細かく綺麗な模様を作り上げていった。
「 龍麻さんがこういう遊びがお好きだとは知りませんでしたよ」
実際本当に意外だと思って御門がそう口を開くと、龍麻はやや目を細めてから、ぽつりぽつりと話し始めた。
「 小学校の頃さあ、これが流行って。ま、男はやらなかったけど、女の子はすっごいしょっちゅうやってたんだよな。ホント、よく飽きないなってくらい」
龍麻が過去の話をするのは初めてだと御門は一瞬ためらったが、勿論口には出さなかった。
龍麻は続けた。
「 でさー実は俺もちょっと一緒にやりたいな〜って思っていたんだけど。やっぱ男連中はそういうの馬鹿にしてたし、まさかそん中で一人だけやりたいって言うわけにもいかないじゃん? だからこっそり女の子たちのやっているの見ていたりして」
話しながらで気が削がれたのか、龍麻は途中で「あっ、失敗した」と言って糸をもつれさせ、もう一度最初の田んぼからやり直し始めた。
御門はただ黙って龍麻の指の動きだけを目で追っていた。
「 それでさ。家に帰って毛糸を適当な長さに切って、今みたいにこうやって端っこ同士を結んで。一人あやとりやってたりしたんだよな」
「 龍麻さんが、ですか」
「 そうだよ。意外?」
「 いいえ、そういうわけでは。ただ―」
「 何?」
「 外で遊んだりはしなかったのですか」
「 ん?」
「 男友達と一緒にですよ」
「 してたよ。ほどほどに」
龍麻はあっさりと返してから、また同じところでつっかかったのか、「あー、この先がうまくできない!」と言って、また糸を指先に絡ませた。御門は龍麻のどことなく苛ついたような声が気になりながらも、まずは自分が感じたことから言葉にしてみた。
「 しかし龍麻さんがあやとりをしたいと言えば、周囲の者も一緒に遊んでくれそうな気はしますがね」
「 え? 何だよそれ」
御門の発言に不審の声を出しながらも、しかし龍麻は視線は指先に集中したまま、声だけで訊ね返してきた。御門はそんな龍麻を相変わらず数歩離れた窓越しから眺め、あっさりと言葉を返した。
「 今がそうだからそう思っただけですよ。貴方の御学友たちは貴方がこうしたいと言えばそうし、ああしたいと言えばその通りにしているでしょう?」
「 そうかな」
「 少なくとも私にはそう見えますが」
「 そんな事ないよ。……全然」
龍麻は最後は何かを抑えるようなくぐもった声で返事をしてから、ふっと動きを止め、それから静かにため息をついた。
御門の家に龍麻が急に押し入って来てから、まだ三十分にも満たない。それでも、屋敷内は何やら騒がしかった。当主の大事な客人を、ひいては自分たちにとっても大切な客人である龍麻を、何とか自分たちの出来得る限りもてなしたいと、使用人たちがぞろ騒々しく立ち振る舞っているせいだった。
御門はそんな邸内の騒ぎに、心の中だけでため息をついた。
「 なあ…御門」
その時不意に龍麻が声を出した。糸を絡めた指は止まったままだ。
「 お前って…遊び、得意?」
「 は…?」
「 だから…ッ」
すぐに意味が通じないことにむっとしたのだろうか、龍麻は少しだけ顔を赤くしてから焦ったように言葉を継いだ。
「 遊びだよ。みんながよくやる遊び。みんなでよくやる遊び。お前、どういう事してた?」
「 子供の頃の話ですか」
「 うん、まあ…そうだな」
「 さあ」
「 さあ?」
「 よく分かりませんね。しかしまあ、私は龍麻さんが求めているような幼少時代は送っていないと思いますよ。私は元々他人と群れて行動するのがあまり好きではないもので」
「 …………」
「 龍麻さんはどうでしたか」
「 俺…?」
「 先ほどは、『ほどほど』と仰っていましたが」
「 …………」
龍麻は御門の問いには何故か答えようとせず、どことなく宙を浮いているような曖昧な目線のまま、ぼんやりとして動かなかった。
しかしそれから数分の後、やっと口を開いた龍麻は。
「 なあ御門。俺、卒業したらさ…何処かへ行こうかな」
「 …………」
御門が何の反応も返さずにいると、龍麻は夢から覚めたような顔になって、ふっと顔を上げてきた。
「 誰にも何も言わないで、どっかへ消えちゃおうかな」
「 何故そのように思うのです」
「 ……俺、自分から誘えないんだ。遊びでも、何でも。いつも誘ってもらえるの待って、結局誘われないでそのままなんだ。やりたいって思っている事もできないままで」
「 その事と何処かへ行く事とは、どのような関係にあるのです」
「 断られるくらいなら、誘わない。一人になるくらいなら、自分から一人になった方がいい」
「 ……龍麻さん」
御門の威厳ある声に、龍麻は怒られると思ったのだろうか、すぐに後悔したような顔になって俯いた。それから妙に気まずくなったようになって目を逸らす。
「 ……一人で行きたいと思う場所などあるのですか」
仕方なく先に口を開くと、龍麻は激しく首を振り、それから再び困惑したようになってぎゅっと唇をかんだ。
「 ………龍麻さん。もっとはっきり口に出したらどうですか、ご自分の想いを」
「 …………」
「 だからここにいらしたのでしょう」
「 ………分からないよ」
龍麻はひどく心細そうな顔をしてから、手にまとわりついている毛糸をぎゅっと握り直した。ばらばらになったそれは、しかし相変わらず龍麻の指に絡みついたままである。
「 ………龍麻さん」
「 …………」
「 ……結局、その時は誰かとあやとりをしたりはしなかったのですか」
仕方なく御門が話を別に振ると、龍麻はようやく重く閉じたままの唇を動かした。
「 俺は、本当は―」
「 …………」
「 本当は、あの時『一緒にやりたい』って言いたかったんだ」
「 …………」
「 楽しそうだったし…。やってみたかった」
「 そうですか」
「 ………でも、馬鹿馬鹿しい。男が、あやとりなんてさ」
何かを抑えるように、龍麻はそれだけを言った。
その時、部屋の向こうの渡り廊下から使用人たちの足音が近づいてくるのが分かった。龍麻をもてなす準備が整ったのだろう。その音はいやに軽快なものだった。御門は一瞬だけそちらに意識をやってから、しかしすぐに龍麻に視線を送ると、手にしていた扇子をぱちりと閉じた。
そしてゆっくりと龍麻に近づいて。
「 龍麻さん」
「 え……?」
音もさせずに自分の方に来た御門に驚いて、龍麻が驚いたような顔をした。御門はそんな龍麻をじっと見やりながら傍に座ると、実に澄んだ声できっぱりと言い放った。
「 やりましょう。あやとり」
「 え?」
「 先番はどちらに致しましょうか」
「 い、いいよ…ッ」
慌てたようになって、龍麻は手にしていた糸を背後に隠した。しかしすぐにそれは腕を伸ばした御門に奪われ、その言葉自体も両断されてしまった。
「 それでは最初は龍麻さんからにしましょうか。私が田んぼを作ります」
「 べ、別にやりたくないだろ、御門は」
「 はい、特別には」
「 !!」
実に正直にそう言う御門に、龍麻は面食らったようになって声を失っていた。しかし相変わらず涼しい顔のままの御門に腹が立ったのか、みるみるうちに頬を赤らめた龍麻は、抗議するように詰め寄って声を荒げた。
「 なら…ッ! 無理しなくていいよ! そんな、嫌々やってもらわなくていい…ッ」
「 嫌ではありません。この遊び自体には特に興味ありませんが、龍麻さんの望む事をするのは好きです」
「 えっ……」
「 龍麻さん。今は、言っていいのですよ。無理をしないでいいのですよ」
「 何で……」
「 貴方の望むようになさって下さい。遊びたい相手がいるのなら、そう言えばよろしい」
「 …………」
「 一緒に行きたいと思うのなら、行きたいと言えば良いのです」
「 御門…?」
「 そして私は、いつでも貴方の傍に」
「 御門……」
龍麻はひょいひょいと糸を操る御門の変わらない静かな瞳をただ凝視して、黙りこくった。
その時、使用人の一人が静かに襖を開けて、茶を淹れて来た旨を告げてきた。その者は恭しく下げていた頭を上げた瞬間、いつもは厳格な主が薄汚い糸であやとりをしている姿を見つけたものだから、さすがにぎょっとした…が、幸い声は上げなかった。龍麻はそんな使用人の姿をちらと見てから、広い客間にきちんと正座して、自分の誘いに乗ってくれた男の顔をじっと見つめた。
「 御門……」
「 さあ、龍麻さん。どうぞ」
しかし御門は相変わらず平然として、龍麻にさっと両手を差し出してきた。そこには「誰でもできる田んぼ」がただ正しくそこに在った。
「 …………ありがと」
龍麻はそれを見て、何故だか急に泣きたくなった。
それでも必死にその気持ちを抑え、龍麻はもう一度、消え入るほどの小さな声で「俺って、本当に臆病者だな」とつぶやいた。
そうして龍麻は、心の中に絡まっていた糸を一つ一つ解すように、確かめるように、御門が作った糸に自らの指をかけた。
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