しゃべる傘



  じとじととした雨の日。 龍麻はお目当ての人物が丁度出掛けようとしている時に、その家主の館へやってきた。
「 どうしよう…御門」
  小雨と言っても随分前から振り出した雨だ。全身をぐっしょりと濡らしたような龍麻の手には、しかし丈夫そうな傘がしっかりと握られていた。 黒いスタンダードなそれだったが、穴が開いているようなボロには見えない。
「 そう仰られても、何に困っているのか解らないのですが」
  運転手を待たせ、背後で不思議そうな顔をしている芙蓉をちらと見てから、御門は数歩、今にも泣き出しそうな「世界の救世主」に歩み寄った。
「 どうしよう…どうしよう…恐ろしい……」
  けれど龍麻の方は自分の身体が濡れることにも構わずに、ただすがるような目だけを御門に向けてきた。いつもは精悍とした顔つきの無敵黄龍も、こうして見ると同年代には思えないような幼さが感じられる。それでも御門は自分がそう思ったことを決して顔には出さないのだが。
「 とりあえず中にお入りなさい」
  そう言って御門は、今ではもう中で龍麻の着替えを用意しているであろう、芙蓉がいる邸宅を視線だけで指し示した。





「 それで。 貴方ともあろう人が、何に怯えているのです」
  美しく整えられた庭を一望できる和室の客間に龍麻を通して、御門は開口1番そう切り出した。
  梅雨の時期に入り、今年は例年よりも雨が多いとのことだったが、その水景色も御門の邸宅をより一層際立たせるもののように見えた。
  もっとも、客人にはそのせっかくの庭景色も目には入っていないのだが。
「 ……笑わないか」
「 さあどうですかね。 しかし笑うという作業も案外とエネルギーのいるものですし、無駄に疲れることはしませんよ」
「 ……しゃべったんだ」
「 何がです」
「 ……信じるか、俺の話?」
  龍麻は芙蓉が用意した和装姿で、同じく芙蓉から受け取ったお茶の入った湯のみを両手で包むように持ちながら、ただ俯いてそう言った。
「 信じますよ」
「 本当?」
  しかし御門が意外にもあっさりと自分を信じると言ってくれたことから、龍麻はほっとして顔をあげた。御門はそんな龍麻を探るように見つめてから冷たい声で言い放った。
「 私は貴方という人が信頼に値する人間だと思ったからこそ、先の戦いも共にしたのです。龍麻さん、貴方はこの私が認めた人なのですよ。それなのにその曖昧な態度と言い、煮え切らないような目といい、あまり私をがっかりさせないで下さい」
「 ……そんな突き放すような言い方しなくてもいいじゃん」
「 私は忙しいんです。さあとにかく話してごらんなさい」
「 俺が持ってきた傘、どこやった…?」
  ようやく口を開く気になったのか、龍麻は思い切ったようにそう切り出した。
「 ああ、貴方が屋敷の中にまで持ち込もうとしたあれですか。当たり前ですが傘立てに入っているでしょうね」
「 誰が入れた?」
「 は? …さあ誰ですかね。芙蓉、あれを受け取ったのはお前ですか」
「 いいえ。佐賀だと思います」
  少し後方に下がっていた芙蓉がかしこまって屋敷の使用人の名前を告げた。御門は忠実な式神をちらと見てから、再び龍麻に視線を戻した。
「 その貴方の傘がどうしました」
「 しゃべったんだ」
「 しゃべった? 傘がですか」
「 そ、そう」
「 何と言ったんですか」
「 お、驚けよ、少しは!」
  龍麻はがばりと顔を上げ、御門に詰め寄るように体勢を崩してから、半ばぶつけようのない怒りを当てるように声を荒げた。
  御門はそんな龍麻に眉を少しだけ吊り上げて平然と答えた。
「 では何と答えれば宜しかったのです?  傘がしゃべるはずはないと言わせたかったのですか、貴方は? この私に?」
「 い、いや…。御門だから…そんな事は言わないと思ったから…だから来た」
  龍麻はたちまちしゅんとして俯いた。両手を膝の上に置き、えらくかしこまった姿勢に戻る。御門はそんな相手のことをただじっと眺めた。
  しばらくしてから龍麻はぽつぽつと言葉を出した。
「 あれな。俺、今日初めて使ったんだ。午後出かけようとしたら雨降ってて、いつもの使おうとしたらそれなくて。そう言えば前のは駅で失くしたんだって思って」
  戦闘に関しては比類なき力を発揮するこの緋勇龍麻という人間が、こうして話をさせるとどうにももどかしい。御門はただ黙って相手の言葉を聞いていたが、元々人と話すのが苦手なのだろう、ひきつった顔でたどたどしく喋る龍麻を珍しいものでも見るようにただ眺めた。
「 それで、傘なかったっけって色々探してたら、押し入れの中にあったんだ。そういえば引越しの時にしまった気がするんだけど、どこで買ったのかとか全然覚えてない。とにかくそれがあったことを思い出してそれ持って外に出たんだ」
  つらつらと語る龍麻は、ここまで喋るとふっと息をつき、それからぶるりと身体を震わせた。不思議な話だ。今まで鬼だの悪霊だのと戦ってきたくせに、傘がしゃべったと言ってこうまで怯えているのだから。
  そして龍麻は次にこう言った。
「 それで、それでな。あの傘、バッて開いたら、突然『グエッ!!』って…」
  御門を脅すような物言いだった。勿論、そんな事で動じる人間ではないのが御門晴明という人物なのだが。
「 鳴いたのですか」
  そうやって訊くと、龍麻は意表をつかれたような顔をした。
「 鳴いた…!?  …ああそうだな、そんな感じだな…。とにかく…とにかくさ、『グエッ!』だよ『グエッ!!』。こ、怖いだろ!?」
  龍麻は傘の台詞のところは特に強調してそう言った。一瞬ふざけているようにも見えるのだが、本人は至って真面目だ。それはこの怯えた様子を見れば分かる。
  御門はようやく話を理解したという顔をしてみせてから、ここで初めて自分にも出されていたお茶に手を出した。 龍麻はそんな御門の様子をちらちらと見ながら、恐る恐る言った。
「 どう…思う?」
「 何がです」
「 な、何がじゃないよ…っ! 傘が突然そんな風に喋ったら誰だってびっくりするだろ? ましてやそれはずっと忘れられて使ってなかった傘だぞ!? 何かの怨念なんじゃないのかな?」
「 それで私のところに来たのですか」
「 そう…だよ」
「 そういえば貴方は出かけるつもりで外へ出たのでしたね。何処へ行くつもりだったんです?」
「 え? あ、ああ…今日は美里たちと会う約束してて……。京一が美味いラーメン屋見つけたからって」
「 京一…。ああ蓬莱寺君のことですね。彼は中国へ行ったのでは?」
「 ……そ、そんな事今は関係ないだろ」
  御門との今一つかみ合わない会話に業を煮やして龍麻は再び声を荒げた。それでも御門の静かな様子はちっとも変わらなかった。
「 まあいいです。それで皆さんとの約束を放ってここへいらしたのですか」
「 ち、違うよ」
「 では、まずは元真神の人々と会ってこの事を話した」
「 うん……」
「 皆さん、何と仰いましたか」
「 京一は…あの馬鹿は俺がこんな必死に言ってんのに、げらげら笑い転げたんでぶん殴った」
  龍麻は先刻親友に笑われた事を思い出してまたむっとしたのか、ひどくくぐもった声で続けた。
「 醍醐と桜井は『具合でも悪いのか』とか『ひーちゃん、疲れてるんじゃないの』とか心配して…」
「 美里さんはどうです」
「 いつもと同じだよ。にっこり笑って『そう喋ったのね』とか言ってさ。『傘ともお喋りができるなんて龍麻ってすごいのね』って」
  はあとため息をつき、龍麻はヤケになったように傍にあった残りのお茶を一気に飲み干した。
  それからふいと横を向き、いじけたようになった。

「 みんな…ちっとも分かってないよ。俺がどれだけびっくりしたと思ってんだよ…!」
  それから今度はきっとなって御門を見た。 ころころとよく変わる表情だと御門は密かに感心した。
「 言っておくけどな、幻聴とかじゃないぞ。俺、絶対聞いたもん! あの傘が喋ったの、絶対間違いない!」
「 何と言ったと思います」
「 え?」
「 鳴いたというよりは喋ったという感じだったのでしょう? たとえ『グエッ!!』だとしても、ね」
  御門が突然先ほど龍麻がやった傘の鳴き声を真似したことで、 龍麻はもちろん、背後の芙蓉までびくりとして目を見開いたが、当の御門は何でもないような顔をしていた。
「 どうかしましたか」
  しかし周囲の人間の様子に気づいたのだろう、不審の声を上げる。
「 い、いや…。まさかお前が『グエッ!!』と言うとは思わなかったもんで…」
  龍麻が正直に言うと、ここで御門は初めて気分を害したような顔を見せた。
「 龍麻さん。私は貴方が真剣に怖がっていると思ったから、こうして真摯な態度で話を聞いているのですよ。貴方がそんな態度を取るのなら―」
「 う、嘘! ごめん! 悪かった…うん、本当ごめん」
  龍麻は慌てて頭を下げ、それからまた恐る恐る御門のことを伺うような視線で眺めた。
「 あ、あのな…。あの傘、な。俺、俺にこう言ったって思ったんだ」
「 …………」
  龍麻はどうしようというような仕草をした後、ずるずると座りながら移動して御門の目の前まで来ると、彼の耳に口を近づけてそっと言った。

  オマエ、バカダナ。

  芙蓉の元までその声は届かなかったのだろう。怪訝な顔をしながらも、控えめな式神はただじっと主と龍麻の顔を見つめている。
  龍麻はそっと御門から離れると、いけない事をしてしまった子供のような顔をして再び下を向いた。御門は始めきょとんとしてしまっていたが、やがて気を取り直したようになって龍麻に言った。
「 ぐえ、とは大分違うニュアンスですね」
「 ぐえとは言ってんだよ。耳にはそう聞こえるの。 けど、その後にばんと響いてくるのがこの言葉なの」
  龍麻はまた泣き出しそうになり、ぐっと唇をかんだ。
  龍麻が黙ると、部屋の中は一気に静かになった。障子を開けて外の景色へと目をやれば、未だ降り続ける雨の音にも意識を向けることはできようが、この時は聞こえるはずのその音も薄い戸一つで遮断されているようだった。
  そんな中、しばらくして御門が口を開いた。
「 ……そういえば卒業してからこうして会うのは久しぶりですね」
「 え…?」
  龍麻が顔を上げると、御門はうっすらと笑んで見せた。 龍麻は急に笑顔を見せた御門に驚いて声を失っていた。
「 私も忙しいですし、貴方は貴方でこちらには足を向けてくれませんしね」
「 ……だって御門は忙しいと思ったし」
「 ええ、そうですよ」
「 今も、でしょ」
「 そうですね」
「 ごめんな」
  龍麻が申し訳なさそうにそう言うと、御門はすぐに話題を変えた。
「 龍麻さんは最近では何をなさっているんですか」
  御門が訊くと、龍麻はふっと笑んでから自分自身を嘲るように言った。
「 何にもしてないよ。俺、醍醐や桜井と違って将来の夢なんかないし。美里みたいに大学行く頭もないし。京一みたいに修行して、もっと腕を磨きたいとも思わないし」
「 蓬莱寺君は帰ってきているのでしょう」
「 俺が帰って来いって言ったの。だって暇だったから」
「 ひどいですね」
「 みんなさ…みんな、何かあってズルイよな。俺だけだよ、馬鹿みたいに何にもしてないの。だって何にもしたくないんだ。する気が起きないんだ」
「 それで何もせず家にいるのですか」
「 そう。お金は別に困らないっていうか。家賃、鳴瀧さんに頼んで払ってもらってるし、ご飯は壬生がくれるし、何か欲しくなったら如月におごってもらうし」
「 ……まったく」
  呆れているのか、軽蔑しているのか。御門のその言葉を当然のものと受け止めながら、龍麻はヤケになって続けた。
「 御門もさ。もし俺が路頭に迷ったら拾ってくれな。お前、金持ちだし、俺一人くらい面倒みたってどうってことないだろ」
「 …………」
「 俺、この世界を救った黄龍の器様だもん。それくらいやってもらったって罰は当たらないよな」
「 いいですよ」
「 え…っ」
  あっさりと返答をしてきた御門に龍麻は面食らってまた口を閉ざした。
  当の御門の方は先刻から時間を気にしているらしい秘書がちらちらと部屋の外からこちらに視線を送ってくるのを思い切り無視して、ただ目の前の龍麻にだけ優しい瞳を向けた。
「 いっそのこと、もう他の人たちを頼るのはおよしなさい。私の所に来ればいい。私の所なら何もせずに好きな事だけしていられますよ」
「 …………」
「 貴方に煩い事も言いません。何をするべきだなどとも言いません。ただ、私の傍にいれば宜しい。貴方の望む事をしてあげます」
「 ……そんなの嫌だ」
  龍麻がぼそと言った。御門が黙ると龍麻はむっとしたように押し殺したような声を出した。
「 そんなの御門らしくないよ…。もっとさ。俺のこと、俺の駄目なとこいっぱい指摘して、いっぱい怒ってくれればいいんだよ。俺、だから―」
「 龍麻さん」
  御門がすっくと立ち上がって龍麻を呼んだ。
  龍麻が弾かれたように顔をあげ御門を見上げると、不敵の陰陽師はそんな相手を見下ろしたまま、すっと滑らかな足取りで庭の景色がよく見えるように障子をすらりと開け広げた。
  途端に雨景色とさらさら落ちてくる水音が龍麻の感覚を刺激してきた。それは激しく強いものではなかったが、穏やかに優しく龍麻の何かをかき立てた。
「 ……………」
「 こうやって」
  御門が言った。
「 こんな時間を送るのも悪くはないでしょう?」
  御門は龍麻にではなく、 まるでその場にいる全てに語りかけるように澄んだ声でそう言った。龍麻は自分も立ち上がると、ゆっくり御門の傍に歩み寄り、それから外の景色に目をやった。
「 あ、あれ!」
  そして庭の池近くをぴょんとはねる生き物を指差すと嬉しそうに笑った。
「 蛙! すっごい小さいな! 久しぶりに見た!」
  龍麻のはしゃいだような声に御門は目を細めた。そして龍麻の未だ乾ききっていない前髪に触れると優しくかきわけて。
「 いつも私が貴方を怒ると思ったら…大間違いですよ」
  そう言って、笑った。



<完>





■後記…いつもながら読者様の洞察力に期待した曖昧な小説書いてますが(笑)、私にとっては「おお!御門ってかなりナイス!」という事に気づけた貴重な作品となりました。そんな素敵な体験をさせて下さったみさき様、遅くなりましたが4000キリの御門主です!でももっと甘々の方が良かったですかね…。