その懐に包み入れ



  夕暮れ時の教室。
  龍麻が1人頬杖をついたままぼんやりと窓の外を眺めていると、ガラリと戸の開く音と共に美里が教室に入ってきた。
「 龍麻。まだ帰っていなかったの?」
  美里は生徒会の用でもあったのだろう、それらの資料らしいプリントの束を両手に抱えたまま、不思議そうな顔を龍麻に向けてきた。龍麻はそんな美里に曖昧に返事をしてから、力なく笑ってみせた。
「 帰りたいんだけど。京一に待ってろって言われたから」
「 そう。うふふ…きっとまたラーメンね」
「 多分ね」
  微笑する美里につられるように龍麻も笑う。けれどすぐにそれをしまうと、龍麻は再び自らの視線を窓の外へと移した。赤々とした西日が強く差し込んできて眩しいはずなのに、何故かそちらから目を逸らしたくなかった。
「 龍麻」
  そんな龍麻に美里はゆっくりと近づいてから机の前にまで立つと首をかしげ、何やら問い質したそうな顔をして見せた。しかし龍麻はそんな美里の視線を感じながらも、敢えて知らないフリを決め込んだ。
「 龍麻」
  それでもその時の美里はそんな龍麻の態度を許容してはくれなかった。
「 ここから出たいの?」
  美里は突然そう言った。
  龍麻がゆっくりと視線を向けると、そこにはひどく静かな目でこちらを見やる顔があった。
「 何……」
  不意に胸の奥がズキンとし、龍麻は再び顔を逸らした。誤魔化すように唇だけで笑って見せて、 龍麻は小さな声を返した。
「 どういう意味? 帰りたいは帰りたいよ。今日はさ、正直ラーメンって気分じゃないから」
  それどころか、今こうして誰かと向き合っていることが嫌だ。
  美里に腹の底を探られているのが嫌だ。
「 ……でも、仕方ないよね」
「 貴方の宿星がそう言うの?」
「 ………美里」
  どうしたのだろう、ヘンだ。
  そう思いながら、龍麻はやりきれない思いで真摯な目を向けてくる美里を見返した。
  《聖女》と呼ばれ、周囲から尊敬と憧れの念を一身に浴びつつも一切の揺らぎがない、完璧な女性。実際に当人がどう感じているかはともかくとして、少なくとも龍麻にとって美里は何ものにも動じない強い人間に見え、そんな彼女を時に胡散臭く感じる事もあった。
  だからあまり2人きりにはなりたくなかったのに。
「 どうしたの? ……今日、何だかおかしいよ?」
「 京一君たちがいないから」
  美里はそう言い、それから抱えていたプリントを背後の席に置くと再び龍麻に向き直った。長い漆黒の髪を細い指先でさらりと撫でてから、美里は目を細めて微かに首をかしげた。
  そして実に淡々とした口調で言った。
「 ねえ龍麻。貴方、今好きな人はいる?」
「 え?」
  龍麻が途惑って言い淀むと、美里は更に可笑しそうに口元を緩めた。
「 この街を…いいえ、誰かを護りたいと願う気持ちはある?」
「 別に……」
  思わず本音が漏れてしまい、龍麻ははっとして口をつぐんだ。いつだって隠してきたのに、どうして今更こぼしてしまったのだろう。しかも、よりにもよってこの美里に。
  だから今日は誰とも話したくなかったのに。
「 そういうの、あまり深く考えない方なんだ。……悪いけど」
  言い訳のように、そしてややいじけたようにそう言うと、美里は「いいの」とかぶりを振った。
「 そうじゃないかと思っていたもの。何でもない事だわ。龍麻がどう思おうと勝手だもの」
「 本当にそう思うの?」
  意外にもあっさりと紡ぎ出された相手のその素っ気無い反応に、龍麻は一瞬言葉を失い、そうしてすぐに訝しげな視線を向けた。
  いつだって誰かの為に、この街の為に立ち上がらなければと言っていたのは美里だった。祈り、嘆き、そうしてすぐに立ち上がる。その強さと潔さが龍麻は苦手だったのに。
  今、どうして美里はこんな冷淡な態度を取った自分を驚きもせずに受け入れようとしているのだろう。心の中でぐるぐると美里に対する様々なイメージが駆け巡る。
「 ………」
  一方の美里も暫しそんな龍麻を見つめ黙っていた。けれど龍麻が何事か話そうと口を開きかけた途端、それを遮るように美里は2人を包んでいた沈黙を破り捨てて言った。
「 龍麻はどんなに苦しくても、それでも私たちと闘ってくれるでしょう? 私たちの傍にいてくれるでしょう? ……私にはそれで十分」
「 ……何それ」
  龍麻は美里のそんな台詞にやや抗議めいた口調で返してみたが、喉の奥が乾いていたせいだろうか、その掠れた声は目の前の相手には実にあっさりとかき消されてしまった。
「 隠そうとしても駄目。私には隠さなくていいの。だって、分かってしまうんだもの。龍麻のこと、龍麻がいつもどうしようもなく辛くて哀しくて…怒っていること。それをいつだって隠していること。今だってそうよ。それが…私には分かるの」
「 俺は怒ってないよ」
「 そうかしら」
「 そうだよ。何の話なんだよ、一体」
  嫌だ、嫌だ。
「 俺には美里の話は分からないよ」
  美里とこれ以上の話をしていたくなくて、龍麻は無理にその話を切ろうとした。そしてその瞬間、不意に「ああ、そうか」と思い立った。
  確かに美里にはこんなところがよくあった。仲間といる時はただ柔らかく笑んで、ただ優しくて静かなだけなのに、時折こちらに見せてくるその氣はひどく不敵で、美しくて。
「 美里」
  そして、こちらの全てを暴かれてしまいそうな、剥き出しにされてしまいそうな、そんな恐ろしい雰囲気があった。
「 どうしたんだよ、美里。こんな話、もうやめよう?」
「 駄目」
「 だっ…。どうして? 俺はただ1人でいたいだけだよ。今だってそうだ。特に何も考えてなんかいないんだ。そうやって…俺に近づくのやめてくれ」
「 ねえ龍麻。貴方のこと、今抱きしめてもいい?」
「 え……?」
  必死に拒絶しようとする龍麻に、それでも美里は唐突にそう言った。訊いているくせに、それを断ることなど許さないといった、強烈な光が龍麻の全身に突き刺さった。
「 抱き…しめるって…」
「 そうよ。今。龍麻のこと抱きしめたいの。駄目かしら?」
「 何で」
「 だって龍麻、泣き出しそうだもの」
「 …………」
  それはやはり不敵な笑みだった。美里は龍麻をただ真っ直ぐに見下ろし、そう言っていた。
  教室に入ってきた時から。


  否、出会ったその時から見透かされていた。


  いつもいつも、心細い気持ちでいたこと。それを隠し通す為に拳を奮い続けていた事を。
  バレていると思っていたから、自分は美里と2人きりにはなりたくなかったのだ。
「 ………は」
  もう逃げられない。そう感じた時、龍麻はもう笑っていた。それはとても苦い笑いだったのだけれど。
「 ……ねえ。そういうのって普通は逆じゃない?」
「 どういう事?」
  龍麻の意図を読み取っているようであるのに、美里は余裕の表情を浮かべながらわざと訊いてきた。龍麻は両肩を軽くあげてから参ったというように笑んだ。
「 普通はさ…。男の俺が抱きしめる方だろって事」
「 関係ないわ。私は抱きしめられるのは嫌。私は龍麻を抱きしめて、この両手とこの身体全部で貴方のことを温めてあげたいの」
「 別に寒くない」
「 ふふ…今更抵抗しても無駄よ」
  美里はそう言ったかと思うと身体を揺らし、そのまま席に座っている龍麻を両手でふわりと包み込んだ。
「 ………」
  顔に影を感じたと同時に、美里の両腕がそっと自らの頭を抱えるように回されてくるのを龍麻は感じた。そのままぎゅっと抱きすくめられ、鼻先に美里の胸が掠ったと思うと同時にもうそれは押し付けられていた。
  温かい。
  あ、この感じ。
「 ………龍麻。私に隠し事はしないで」
  命令のような言葉が降ってきた。龍麻ははっと息を吐き出し、ゆっくりと目をつむった。とくんと鳴り響く美里の心臓の音を聞きながら龍麻はゆっくりとそう言った美里の背に両腕を回した。
  今、母親の胸の中にいるようだと言ったらきっと美里は怒るだろう。
「 ふ……」
  可笑しくて思わず笑みがもれた。けれど龍麻はもうそれ以上声を出さず、ただ美里の温度を感じるために目を閉じた。


  そして夕闇の迫る教室の中、龍麻は暫し安寧の時に身を沈めた。




<完>





■後記…美里様は抱きしめられる方じゃないんです。龍麻を抱きしめてぎゅうぎゅうと抑え付けて放さないんです。それくらいの執念は感じる。オンナはコワイんだ〜。特に菩薩様は何でもお見通しだから。弱っているひーは1人で留守番している子羊のように危険。この場合、狼=美里、お留守番をさせていたお母さん=京一です。