偶然でなく
その日は大層虫の居所がよく、村雨は珍しく新宿以外の場所でぶらぶらと当てのない散歩をしていた。普段滅多に立ち寄らないその土地で、殆どの人間が目に留めそうもない裏通りや、息抜きをするのに丁度良さそうな店を探したりする。要はただの暇つぶしなのだが、村雨は割にそういう事をするのが好きだった。こんな寒い季節には吐く息がゆらゆらと空へ舞い上がっていくのが見えて、より一層歩くのが楽しくなる。
1人が好きだ。
横で御門がごちゃごちゃと煩く小言めいた台詞を喚きちらす事も、芙蓉が苦々しい顔をしながらこちらを見つめてくる事も。そして護衛を兼ねてマサキと共に行動する事も……決して嫌いというわけではない。むしろ居心地は良い方だ。今まで感じた事のない柔らかい空気、そこに大人しく身を委ねる事を、村雨はらしくもなく心のどこかで許容している。「楽だ」と感じる。
けれど、だからこそ。
「 こうして…たまに素に戻るのも悪かねェな」
――そう、村雨は思うのである。
「 ん……」
だから、そうしている自分の前にいつもの「知り合い」が現れたとしても、本来ならば声は掛けずに知らぬフリを通すはずだった。
それなのに。
「 先生じゃねェか…」
「 ……あぁ、村雨」
思わずそうつぶやいてしまった声は、容易くその相手に聞こえてしまった。
「 どうしてこんな所に…?」
村雨に呼ばれたその相手…自分たちの戦闘においてのリーダー・緋勇龍麻は、突然目の前に現れた村雨に確かに驚いたようだった。自分たちのホームグラウンドである新宿からこの町は、電車で裕に2時間も離れた場所にある。誰か知り合いが住んでいるか余程の用でもなければ、こんな平日の夕刻の時間にこのような所に来る事はないだろう。
それがまさか、こんな風にして偶然出会ってしまうとは。
( これも俺の運の為せる業かねェ?)
村雨は心の中でそうつぶやきながら、こちらに気づきつつも傍に来ようとしない龍麻に自ら数歩歩み寄った。たまに1人が良いと言っても、やはりこの男は別なのだなと何やら自嘲したい気持ちになりながら。
「 どうしてってのはこっちの台詞だぜ。先生こそ家から遠いこんな所で一体何の用があるってんだい?」
「 …………」
龍麻は何故かすんなりとは応えず、何かを探るような目で村雨を見やった。村雨はそんな龍麻に、表情こそ笑みを湛えたまま見返していたが、明らかに様子のおかしい相手に密かに途惑った。
龍麻がいつもと違う。
「 ……どうしたい、先生。ハラでも痛いのかい?」
試しにカマをかけてみた。いつもの龍麻ならこんな風に訊かれれば、にこりと優しく微笑んで、「大丈夫だよ」とですぐに返してくれるはず。
龍麻は仲間に心配をかける事を何より嫌う男だから。
「 何で?」
しかし龍麻の即答はその一言だけだった。
いよいよ村雨は不審に思った。1拍置く為に「参ったね」とこぼしながら、帽子の中でぐしゃぐしゃに乱れている髪の毛を指でかいた。しかしそうした後、再び龍麻を見やった時には、相手はもうこちらを見てはいなかった。
仕方なく村雨はまた自分から口を開いた。
「 何で…ときたか。いや、いつもの先生ならもうちょっとこう…可愛らしく笑ってるだろう? それとも何かい、あの笑顔のサービスは他の連中がいない時にはやらないものなのかい?」
「 うん」
龍麻が即答するものだから、村雨は思わず吹き出した。
「 はっ…。俺にはサービスしてくれないってわけか?」
「 ここにあと……」
「 ん……?」
何かをぽつりとつぶやくのを聞き逃さず村雨が問うと、龍麻は少しだけ気分を害したようになりつつも言った。
「 ここにあと御門と芙蓉がいればね…。きっと笑ったと思うけど」
「 何だそりゃあ…」
「 違うよ、お前が嫌いって事じゃない。数が多ければ…って意味」
「 …………」
村雨が胡散くさそうな目をしたまま黙りこむと、龍麻は不意に居た堪れないような顔をちらとだけ見せた。それからくるりと踵を返し、後はもう何も言わずにその場を離れて行ってしまった。
まさかこのままお別れする気かい。
「 先生、何処へ行くんだい」
冗談じゃないと去りかけの背中に声を投げかけたが、龍麻はうんともすんとも応えなかった。
「 おいおい……」
いい加減ひどい態度じゃないかと思ったが、それでも村雨はもう龍麻の後を追って歩き出していた。もしかすると龍麻こそ、今の自分と同じ状況の中、1人の時間を過ごしたくてこんな遠い空の下までやって来ていたのかもしれない。そう思ったけれど、だからといってこのままあの寂しい後ろ姿をただ見送る気はなかった。
「 今、アンタの背中を護れるのは俺しかいないわけだしな」
村雨はそう独りごち笑うと、後は黙って龍麻の後を追った。
龍麻が自分の後ろをついて歩く村雨に何も言わずに向かった先は、1件の古びた質屋だった。
「 随分と汚ェ店だな…」
村雨が見つけていた通りとは別の、また一段と人目につきそうもない場所にぽつねんと建っているその店は、白かったであろうはずの壁が今ではすっかり薄汚れて見るからに貧相だった。そしてこれまたボロボロの、けれどそれがなければ質屋という事も分からなかっただろう木看板が入口の所にただ立掛けてある。
「 先生、金に困ってんのかい?」
村雨が店の外観を見上げながら呆れたように言うと、龍麻は「逆」と言ってそのまま中に入って行った。
内装は至って普通、清潔で、店内は簡素な間取りで構成されていた。
「 ああ…緋勇さんの……」
店の中はやや薄暗かったが、カウンターの所にいた店の主は 気さくな感じの中年の女性で、龍麻が名乗り一言二言言葉を交わすと、勝手知ったるような態度で話し始めた。村雨は店の入口に立ったままその様子を眺めていただけだから詳しい会話は聞き取れなかったが、やがて龍麻はその主から紫色の風呂敷包みにくるまれた正方形の小さな箱を渡され、代わりに一枚の封書を渡していた。
ものの数分で龍麻は店を後にした。
「 それ。一体何なんだい」
店を出た後村雨はすぐに訊ねたが、龍麻は「質に出してたもの」としか応えなかった。それでも表通りを出て尚自分についてくる村雨を振り返ると、龍麻はここでひどく不思議そうな顔をした。
「 村雨はどうしてついてくるんだ?」
「 アンタにかい? そりゃ…面白そうだからだろ」
そこまで疑問に思われると何だか調子が狂うと思いながら、村雨は苦笑しつつ応えた。
「 いつも仲間と群れてる先生がこうして見知らぬ土地で何かやってるとあっちゃあ…俺でなくても同じ行動を取ると思うがね」
「 でも今分かったろ。俺は別に大した事しているわけじゃない。家族があの店に入れていた物を引き取りに来ただけだよ。本当…それだけ」
「 家族?」
いやに聞き慣れない台詞だと思った。
龍麻の出生については人づてにではあるがそれなりに聞かされていたから、現在の彼に両親がいない事は村雨も知っていた。ただ、東京の真神に来るまでは遠縁の養父母に育てられたという事だったが、彼らがどんな人物なのか、また龍麻との関係が良好なのかなどといった事に関しては何も知らなかった。それは村雨だけの話ではない、それらの事を詳しく知っている者は誰もいないはずだった。
龍麻が自分の家族について語りたがらないという事は、仲間の誰しもが知っている事だったから。
「 あ…空き地」
考えこもうとしていた時、不意に龍麻がそう言って歩き出した。意表をつかれて追うのが一歩遅れたが、それでも村雨が後に続くと、龍麻は表の大通りを一つ挟んだ先にある小さな野原へ入りこんだ。老人養護施設が建つ予定らしい。ショベルカーや鉄材が幾つか放置されているそこは、それでも未だ詳しい工事実施の目処は立っていないのか、ぼうぼうに生えた草地で少年たちがひたすらサッカーに興じていた。
龍麻は空き地の隅に置いてあった土管に近づくと、その上に座りこんで子供らの遊びを何ともなしに見物し始めた。だから村雨もそれに倣い、自分は立ったまま龍麻の隣を陣取った。
「 先生はああいうスポーツが好きだったかい」
「 見るのは」
龍麻は短く答え、それから無意識にだろうか、膝に抱えていた包みを片手でさらりと撫でた。村雨の方は見ない。視線は遠くにやったままで続けた。
「 野球もサッカーも大勢でやる球技だろう? 俺が住んでいた所は子供の少ない過疎地だったし…。もっとも人数が足りていなくても…俺は仲間に入れてもらえなかったから」
「 ……へえ?」
子供の頃はみそっかすだったのだろうか。意外だと思っていると龍麻はそんな村雨の真意を読み取ったようになってくすりと笑った。
「 別人?」
「 あ…?」
「 今の俺とはさ…」
「 まあな」
村雨が短く応えると龍麻は何故かふうとため息をついた。疲れているのだろうか、ちらとだけそんな考えが頭の隅をかすめた。
「 俺、皆と会えて良かったな。東京に来られて良かった。…これは本心だよ。居心地の良い場所ってあったんだ。そう思った」
「 先生?」
村雨が視線をやるのにも構わず龍麻は続けた。
「 でもな、たまに…本当にたまにだけど、昔の自分に返りたくなる。独りでいた、独りでもいいなって思っていたあの頃の自分…。あの時の俺を否定する気は今の俺にもない。だから今日は…ここに来た」
「 ………やっぱりお邪魔だったかねえ?」
村雨が自身を卑下するように笑うと、龍麻はゆっくりと首を振った。
「 嫌だったら嫌だって、さっき会った時点で言ってたよ。村雨も俺と同じだと思ったから、こうやって話してる」
「 ん……」
「 『 何で1人でこんな所にいるの? 』 って台詞。今度は俺がお前に返してやろうか?」
「 ………」
龍麻の台詞に村雨は表情こそ変えなかったが、心内では何かがごそりと蠢き慌てるのを感じていた。
1人でいるのも悪くない。
連中と一緒にいるのも好きだが、それでも。
さっき俺が考えていた事と同じじゃないか。
「 ……先生。一つ調子に乗って聞かせてもらうぜ。その包み…何が入ってるんだい?」
村雨が体勢は正面を向いたまま視線だけ送って静かにそう言うと、龍麻はしきりに包みを撫でていたその手を止めた。それから子供らへやっていた視線を外し、その抱えた物にそっと目を落とす。
「 先生?」
そのどことなく陰鬱な横顔が村雨の脳裏に強烈に焼きついた。
「 ……両親が使っていた盃だって」
やがて龍麻は言った。村雨が何も言わずにいると龍麻は続けた。
「 俺、小さい頃から自分が養子だっていうのは知っていたけど、別に本当の両親のことを知りたいと思った事はなかったよ。でも、その家の爺さんは本当に変わった人でさ…。事あるごとに俺は普通と違う、他とは違う人間なんだって言い続けた」
それは鬱陶しかったけれど、心のどこかでありがたくもあったと龍麻は村雨に言った。
「 そんな俺を作った両親も…つまりは普通とは違うんだって爺さんはよく言ってた。でも、写真も何もない。いつも話は爺さんから聞く思い出話ばっかりで…形見もなかったし。やっぱり自分の本当の両親の事なんて、どこかでどうでもいいって思ってた」
「 ……それが?」
間を空けて村雨が訊くと、龍麻は少しだけ困ったような顔をした。
「 それが…どうしてだか、やっぱり知りたいと思っていたのかなあ…。ついにこれを引き出しちゃった」
まるで悪い事をしてしまった子供のように、龍麻はひどくバツの悪い顔をして苦笑した。ようやく村雨に視線を送ったその目は、やはりいつもの「可愛らしい」ものに村雨には思えた。
「 爺さんは俺が東京に来る時、さっきの質屋のことを教えてくれてさ。俺の誕生日が来たらいつでも引き出せるように店には言っておくって言って…これの事を教えてくれたんだ。別に遺書があるわけじゃない、ただ杯があるだけだと言っていたけど…そうか、形見ってあったんだって思ったね」
「 先生の誕生日…確か以前に誰かから聞いたぜ。俺と同じ7月じゃなかったか…?」
「 7日ってのも同じなんだよな。はは…最近バラしたんだけど、村雨と同じってのは俺も驚いた」
「 それじゃあ…」
「 うん。こうして来るまで、随分時間がかかっちゃった…」
「 ………」
それはやはり自らの出生を改めて聞かされたせいなのか、来る戦いが近づいている事を感じ取っているからなのか。
龍麻は包みを両手でぐっと抱え直し、再び子供らの遊ぶ姿に目をやった。
村雨はそんな龍麻をただ黙って眺めやった。
「 俺」
龍麻が言った。
「 誕生日なんてどうでもいいって思ってた。実際皆に訊かれるまで仲間の誰にも言った事なかったし。大体、本当にその日に生まれたのか、それすら疑わしいって思っていたからさ。でも18才になったこの年にさ…本当の親が使っていたものを渡されるって事には…やっぱり意味があったんだな」
「 意味?」
「 うん」
「 ……どんな意味だい」
「 ………」
龍麻は応えなかった。それから不意にぐんと顔を上げ、改めて村雨を見やる。それは静かで厳かで、どことなく淋しげな顔に見えた。
そんな龍麻は、しかししばらくしてから村雨に対し少しだけ笑んで見せた。1人には見せないと言っていたくせに、無理をするなと村雨は少しだけ皮肉な気持ちになった。
「 なあ村雨。ところでさ…こんな所に、何でお前はいるかなあ?」
「 ん…」
「 突然過ぎるよ」
「 マズかったかい?」
「 そうじゃないよ。びっくりしたけど…嬉しかった」
「 ………」
どうやら気を遣って言っているわけではないようだ。村雨は龍麻の顔をまじまじと見やりそう思った。目の前の龍麻は今度こそ本当に楽しそうな笑顔を見せ、「お前って本当フェイントうまいな」と言っておどけた。
「 はっ…」
だから村雨も思わずつられ、口の端をくっと上げた。せいぜいとぼけてやろうと思った。
「 俺が何故ここにいるかって? それは俺が誰よりも強運の持ち主だからだろうぜ」
「 どういう意味?」
「 そのまんまの意味さ。思わぬ所でこうやって先生と2人っきりだ。運がなくっちゃこうはいかねえだろ」
「 こんな鬱っぽくなってる俺に会っちゃって、ツイてないだろ」
「 ははっ」
龍麻の言葉に村雨は思わず軽い笑いを飛ばした。天然なのか何なのか、本当に分からない奴だと半ば呆れた。
こんな風に、仲間内の誰も知らないアンタの顔を。
俺だけが見られた。
「 先生は分かっちゃいないがね」
村雨は腕を伸ばして龍麻が抱えていた包みに少しだけ触れ、それから龍麻の指先にも自らの手をそっと重ねた。龍麻は逆らわなかった。
だから村雨は理解した。
「 俺って奴はきっと先生の為だけに存在しているんだな。だから今日ここで会った。先生が1人ぼっちにならないために」
「 何…それ……」
龍麻が戸惑った風に言うと、村雨は笑った。
「 だから同じ日に生まれたんだって事さ。だから俺は生まれつきツイていて…今日ここに来たんだって事さ。しかもそこにあるのは盃なんだろう? 2つあるんだろ?」
「 あるけど…」
「 今日は飲むか」
「 え…けどこれ……」
「 夫婦盃。いいねえ、先生となら結婚してもいいぜ?」
「 ば…っかだろ、お前……」
村雨の軽い口調に龍麻が初めて焦ったようになって言葉を詰まらせた。
「 お前、誰にでもそういう事言ってるの?」
そうして龍麻は慌てて触れられていた手を振り解き、赤面してしまった自らの顔を隠すようにしてそっぽを向いた。
「 誰にでもって…同じ日に生まれたってのは事実だろうよ」
村雨はいよいよ楽しくなってそうに笑いかけたが、困ったような龍麻からは目を逸らしてやる事にし、さり気なく前方の景色へと目を移した。
もうすぐ完全に陽も暮れてしまうというのに、少年たちの熱中する様子はとどまるところがないようだ。そんな光景に仄かな温かさを感じながら、村雨は結構本気だってのに、と心の中だけでつぶやいた。
見知らぬ土地だというのに、「還って来た」ような感覚に捕らわれる。
それが隣にあるこの存在のせいだと、今、村雨は確かに自覚していた。
|