貴方を見ていた



  いつも気づいた時にはその姿がなくなっているので、龍麻は「今日こそ、ちゃんと気をつけていよう」と決めていた。

(あ…!)

  そんな気合のお陰か、案の定その日も劉は旧校舎での修行後、「ラーメンを食べに行こう」と言う仲間達を尻目に独りその距離を取ろうとしていたのだが、龍麻はその「消える瞬間」を捕まえられた。
「劉」
  京一達に「先に行っていいよ」と告げた後、龍麻は皆に背を向けていた劉に声を掛けた。
「ん?」
  劉は龍麻に声を掛けられるとは思っていなかったのか、とても驚いた顔をして振り返った。細い目を僅かに見開いて、「急にどうしたのだろう」という顔をしている。
「劉…お前な…」
  それはこちらの思う事なのにと心内で呟きながら、龍麻は溜息をついた。
「こんな所から一体何処へ行こうってんだ?」
「へ…?」
「へ、じゃないよ。早く上がろう? 旧校舎内で単独行動取るな。最初にそういう事言ってあっただろ?」
「あ。ああ…そやな。すまんすまん」
  アハハと軽い笑いを浮かべながら、劉は何かを誤魔化すようにガシガシと黒い髪をかきむしった。
  照れたような困ったようなその表情に悪気は見られず、龍麻の責めるようなその言葉には心底申し訳なさそうな態度を取っている。
「……ったく」
  それで龍麻もそれ以上文句を言う事も出来ず、仲間達のいなくなったその暗闇で劉と二人、何ともなしに肩を並べた。

  こうして改めて目を向けると、当たり前だが地下のこの異世界は果てしなく広く、そして暗い。学校の地下にこんな世界があるなんて、初めてそれを見た時はあまりに現実離れしたそれに思わず笑ってしまった程だ。
  それでも、時を重ねるにつれてその尋常でない世界に包まれていると、その呑気な笑みもとうに消え去り、今ではこの闇にいつか吸い込まれて消えていくような感覚に苛まれ、龍麻は時々本気で憂鬱になった。今さら自分の境遇を嘆く気はないけれど、気分が落ち込む事だけはどうしても消す事が出来なかった。
  ちらりと。
  隣に立つ劉の横顔を見やると、劉は龍麻のその視線には気づかないのか、今はもう龍麻の存在を忘れたかのように、何処か遠い闇のそのまた先の闇を見つめていた。そこに悲壮感はないけれど、その懐に入り込む余地はない。そんな近寄り難い、どこか圧倒するような眼で、劉は龍麻の知らない何処かを見ていた。
  だからつい言葉を失ってしまった。
「……とと」
  先に我に返り声を出したのは劉の方だった。
「すまん、アニキ」
  劉は慌てたように龍麻を見下ろし、やはり困ったように笑った。それで龍麻も、「ああ、こいつは今俺が隣にいる事をすっぱり忘れていたんだな」と思い、少しだけむっとした。
「何で謝るんだよ」
  平静な態度でいようと思ったのに、意図せずぶすくれた声が出てしまった。これじゃ構ってくれないからと駄々をこねる子どもだ。情けないと思いつつも、出してしまった顔を引っ込める事はもう出来なかった。
「あーあ…」
「ん?」
「何でもないよ…」
  投げ遣りのように答えてから、龍麻は自分こそが無視してやるとばかりにそっぽを向いた。今度は完全に自棄になった、いじけた様子丸出しで、だ。何故か劉の傍で龍麻は気を張るという事が出来なかった。いつも仲間達を前にし行っている「リーダー然」とした威風を漂わせる事が出来ない。
  劉の前で、龍麻はいつでも自然でいられた。
「何でいつまでもここにいるんだ?」
  だから龍麻は諦めて、視線はやらないまま劉に問う事にした。
「この間から気になってたんだ。お前、ここ潜った後って、時々だけど知らない間に俺たちから離れてどっか行ってるだろ。地上に戻ってからそれに気づく事なんてしょっちゅうで……俺、リーダー失格だな。まあ好きでリーダーやってるわけじゃないけど」
「アニキってリーダーやってん?」
「醍醐だと思ってただろ? でも実は表向きの看板背負ってるのは俺なんだぞ。俺が主人公だからな」
「は? ハハハ、アニキはやっぱりおもろいなぁ。そういう事、フツー自分で言うてもうたらアカンやん」
「知らないよ。それより、さっきの話」
「は?」
「だから、『は?』じゃない。ここで何してるかって話!」
「んー? ここでって?」
「……劉ぅ〜」
  とぼけているのだろうかと多少訝しみながら、龍麻はここでやっとくるりと首を元へ戻し、隣に立つひょろりとした「弟」を睨み据えた。まだ自分達の仲間になってから日も浅い。けれど劉は龍麻の事をいつからか「アニキ」と呼び、龍麻も劉の事を「弟がいたらこんな感じなのかなぁ」と思っていた。
  劉の事は好きだし、自分に一番近い存在だと感じていた。
「……だから、お前の事が分からないのは嫌なのに」
「んん?」
「もういいよ!」
  まだ劉の答えを聞いていないのに、龍麻はハアと大袈裟に溜息をつき、一人先を歩き出した。今から急げば、まだ京一達ラーメン組に追いつけるかもしれない。余計な詮索などせずにさっさと彼らと行けば良かった。
  何だか自分だけが劉を気にして、バカみたいじゃないか―…ふとそう思ってしまったから。
「アニキ」
  龍麻の背中に劉が声を掛けた。突然現れて呼び止めたくせに、また勝手にむくれて勝手に先に帰ろうとする龍麻に途惑っているのだろう。当然だ。龍麻は劉のその声に僅かな動揺を感じ、それを理解しながらも、それでも足を止める気がせずに先を歩き続けた。
「アニキ」
  劉がまた呼んだ。声が先刻よりも近い。後をついてきているのだろうか、何となくそう思いながら、龍麻はそれでも返事をする気がおきなくて無言でいた。
「ちょお、待ってや」
  するとその直後。
「あ」
  がっつりと手首を捕まれ、龍麻は驚いて振り返った拍子、劉の顔をその眼前に認めて思い切り面食らった。いつの間にか劉は龍麻のすぐ傍にまで来ていて、龍麻のその手を捕まえていたのだ。
「な、何だよ…っ」
「それはこっちの台詞や。何? アニキ、もしかして怒ってんの?」
「別に怒ってないよっ」
「けど! わいの事、知らんフリして帰ろうとしたやんか」
「お、お前のが……お前のが、先だろッ!」
「はあ?」
  龍麻の急にカッとしたような大声に劉はまた驚きながら、それでも納得がいかないというように、らしくもなく厳しい顔を見せた。
「何やの? わいにも分かるように説明してや。何が先なん? それにアニキ、やっぱり怒ってるし」
「怒るだろ!? 劉が何考えてるか分からないからだ!」
  離せと強い口調で言い、龍麻はまるで絶交だと言わんばかりの力で劉の自分を掴む手を振り解いた。ブンと力強く振られたその腕に劉も思わずその拘束を解いたが、やはり憮然としたまま、龍麻の何が自分への怒りとなっているのか理解できないでいるようだった。
  確かに、龍麻の急な不機嫌は単なる八つ当たりと取れなくもないのだけれど。
「……わいはアニキと喧嘩なんかしたないで」
  劉が小さな声で言った。
「アニキの事、知らんフリしてるつもりもない。むしろアニキの事いつも追ってる」
「え?」
「アニキの“陰”も全部追ってる」
「……?」
  言いながらついと劉が指差した方向に、龍麻は眉をひそめた。
「………」
  別段何があるというわけでもない。見えるのは、先刻まで自分達が激しい戦いを繰り広げていた闇の荒野が広がるのみで、ゴツゴツとした岩や血の色のような池が各所に点在しているだけだ。特に目立った何かがあるわけではない。
  無数にあった屍すら、今は影も形も見えない。

  それで「アニキのカゲを追ってる」とは、一体―……

「あ……!」
  視線を戻し、再び劉に抗議しようと口を開きかけた瞬間。
  しかし龍麻は思わず声を漏らした。
「何…?」
  今の今まで何もないじゃないかと思っていた所へ―ふいとそよいだ生温い風と共に、薄らぼんやりとした映像が急に浮かび上がってきた。「それ」は何十年も前に作られた古いフィルムで再現されたかのように質の悪い画像だったが、それに映った「人間」は、紛れもなく龍麻自身だった。
「何で……俺?」
「アニキは器用なんか不器用なんか、ほんま分からん」
  劉が笑ってそう言った。その笑みには苦いものが含まれつつも龍麻への慈しみが混じっていたのだが、しかしこの時龍麻は劉のその表情を見る事が出来なかった。
「―……ッ」
  ただ崩れ落ちそうな自分の掠れた姿に胸が悪くなっていた。
「アニキは辛い事があってもわいらに話さん冷たいお人や。…どうしても耐えられん事があると、“そういう部分”をこっちに斬り捨ててそのまんまにする癖がついてる。見てるこっちは堪らんで。せやから。ここでアニキが捨てた魂の欠片、拾ってから帰ってきてん」
「魂の欠片…?」
  龍麻が何となく繰り返すと、劉は深く頷いた。
「せや。あんなぁ、生身の人間がこういう事しちゃアカンで? 幾らすぐ切り替えしなきゃならん身や言うても、こういうんは、言うてみれば魂削ってるみたいなもんやからな。危険過ぎるでホンマ」
「………」
  龍麻が唖然として何も言えずにいる間に、劉は一度印を組んで呪を唱えると、ふいと手を差し出して虚ろな“もう一人の龍麻”に向かって手を差し出した。
「アニキ」
  すると、その「壊れた映像の中」にいる龍麻は、最初こそ何処も見ていないような眼をしていたものの、ついと劉の存在に気づくと、特に抵抗するでもなくその手に引かれるように近づいてきた。
「う…」
  そうして、実体のある龍麻に一瞥をくれる事もなく、劉の手にふっと触れてそのまま消えた。
「何だ…?」
「ほい、返す」
  劉が何でもない事のように言って動いたのは、その直後だ。
「ん!?」
  龍麻が避ける暇もなかった。
  劉は驚きでほぼ固まっている龍麻を良い事にその頭をがっつりと掴むと。
「……っ」
  そのまま引き寄せて龍麻の唇に軽く触れるキスをした。
「な…に、すんだよ…っ!」
  触れられた瞬間、龍麻は慌てて劉の胸を押してその口づけから逃れたが、まるで何か悪いものを入れられたかのように心臓がドクドクとして早鐘を打ち出し、声を出した後も暫くは息が苦しくて後の言葉はもう出せなかった。
「口から返したんは今のが初めてやけど」
  しかし劉は龍麻のそんな苦悶には知らぬ存ぜぬだ。
  何やら妙に上機嫌な顔になっている劉は、「へへへ」と悪戯小僧のような笑みを浮かべた後、得意気に両の手を頭の後ろに組んだ。
「魂の欠片は元の身体に戻しておかなな? 大事なアニキが知らん間に衰弱してたら大変やで」
「……今まで」
  まさかと声にならない声で呟きながら、龍麻は片手で劉に触れられた唇を拭った。
「お前が……俺に触ってた時って、もしかして…い、今の気味悪いヤツを毎回俺ン中に戻してたのか…?」
「ハハ、気味悪いって、あれもアニキやで? それに、別にその為に触ってたんと違うけど?」
  劉はにこにこしながら今度は自分が龍麻に背を向け、誰に言うでもなく軽快な声で言った。
「アニキに触ると最高に気持ちがええからな。だから。触っててん」
「………」
「あー、腹減ったなぁ。アニキ、どっか飯食いに行かへん? 出来ればわいはアニキと2人っきりがええんやけど……」
  未だやや石化状態の龍麻をよそに、劉はもうどんどん先を行っている。或いは劉も相手の意表をついてしたキスに照れているのかもしれない。
「………だ」
  それでも、龍麻は未だドキドキした心臓の音を聞きながら、「お前のせいで余計病気になった」と毒づきながらも首を振った。
「お前と2人きりなんて、危なくていられたもんじゃないよ…っ」
  もっとも、その声は劉には気づかないくらいの小さな小さな呟きだったのだけれど。



<完>




うちの龍麻は悩み性ですが普段はそれを押し隠している為、溜まったストレスをどのように解消するかがいつも大きな課題だったりします。今回は負の部分を切り離しにかかったようですが、それがちゃんと見えていた劉ちゃんに回収されて、口移しで戻してもらったと。
……もっとラブラブなお話が書けるように精進します。