クラシックを聴きに行こう
龍麻のところに一通の封書が来たのは、柳生との闘いも終わり平和な日々をのほほんと楽しんでいる時だった。
ピンク色をした花柄の派手な封筒に龍麻は一瞬嫌な予感がしたのだが、まさか開けずに捨てるのもためらわれて、勢いでその封を切った。
「 こら劉! いきなり寝るな!」
「 ふえ〜?」
寝ぼけた顔をした隣の劉を龍麻は非難がましい目で見ながら声を荒げた。 劉はがりがりと髪の毛をかきむしった後、未だ覚めやらぬようなとろんとした目で怒っているような龍麻を見やった。
「 ええやん。まだ始まってないんやから」
「 いいや、お前はここで寝たら絶対最後まで寝続けるに決まっている! そしたら何か俺だけ我慢して聴いている感じで不公平だ」
「 あ…あのなぁ、アニキ。そもそも何で…」
劉は自分に八つ当たりをしてくる龍麻を呆れたように眺めてから、ちらと周囲に視線をやった。
2人が来ているのは、都内でも名のあるコンサートホールである。
日曜日ということもあって、結構な人数だ。 まだ開場時間まで間があるということもあり、立ち上がって休憩室へと足を運ぶ人の姿も見られるが、基本的に周囲は静かだ。そもそも客層が龍麻たちとは大分違うのである。見たところ上品そうな壮年の男女が目立つ。それより若い年代ももちろんちらほらとはいるが、いずれも音に造詣の深そうな知的人といった雰囲気がある。もっとも劉の色眼鏡のせいでそう感じるだけなのかもしれないが。
どのみち2人はちょっと、というか、かなり浮いていた。
「 何でクラシックコンサートなんかにわいを誘うんや。 自慢やないけど、わいはそういうモンとは果てしなく縁のない人間なんやで」
「 俺だってそうだよ!」
龍麻はぷんぷんとした感じで頬を膨らませてから、やり場のない苛立ちをやはり隣の劉にぶつけた。
「 けどしょうがないだろ! チケット貰っちゃったんだから。それに言っておくけどな、クラシックコンサートってめちゃくちゃ高いんだぞ! 普段だったらぜーったい行くことなんかできないものなんだぞ!」
「 そないな事言われても、わいにはそのありがたみが今イチ分からんのや」
「 俺も……」
ぶすっとした龍麻の顔を見て、ようやく劉は表情を緩めて苦笑した。
こういう時のこの人は何でこんなに可愛らしいのだろうと思ってしまう。
「 まったく、鳴瀧さん言う人もけったいなお方やなぁ。
何だってアニキが興味ないの分かってて、そんな高い券贈って来たりしたんや?」
「 ………嫌がらせじゃない」
「 はあ?」
龍麻がはあとため息をつくのを不思議な顔で見ながら、 劉は首をかしげた。 確か鳴瀧という人物は龍麻の武術の師匠で、 しかも東京での生活の面倒も見てくれた人ではなかったか。 言わば龍麻にとっての保護者的な役割の立場でもある人間のはずだ。龍麻は普段鳴瀧の話をあまりしないが、当然2人の間には大きな信頼関係があるものと思っていたのだが。
「 あの人って俺が困るの見るの好きみたいだし」
「 はあ。何や複雑なんやなあ」
「 そうだよ。俺は大変なんだ。色々。劉がちゃんとしてないから」
「 へ?」
龍麻の突然の文句に訳が分からず、劉は思わず間の抜けた声を発してしまった。龍麻はそんな劉に更にイラついたようになってふんと横を向いた。
「 とにかく! 俺はこのコンサートの感想文を書いて、今はイギリスだかドイツだかに行っているあの髭親父に『ちゃんと好意は受け取りました♪』って手紙を送らなきゃならないんだよ。お前もしっかり聴いて、俺が作文書くの手伝えよ」
「 …………何やねんそれ」
「 何か言ったか」
「 いや、別に。アニキのためや、わいは頑張るで!」
「 ……ふん!」
劉は龍麻の事が時々分からなくなりながらも、 とりあえずはまあいいかと視線を前方の壇上へとやった。
音楽にはほとほと、それこそ舞園さやかくらいにしか興味がないのだが、それでもこんな事もたまにはいいかと思い直す。
何と言っても龍麻と2人っきりでいられるのだ。
龍麻は他の誰でもない自分に声をかけてくれた。これは何か意味があるような気がした。 京一や醍醐に限っては自分と同じようにこういった芸術には無粋な人間だから、もしかしたら逃げたのかもしれないが、それにしてももし美里にでも声をかければ彼女は喜んでここに来ただろう。 感想文だって自ら書いてくれてしまうに違いないのだ。それでも、龍麻は彼女ではなく自分に声をかけた。それだけでも良しとしなくては。
しかし。
だがしかし、この如何にも「眠っていいよ」という柔らかい雰囲気はどうしたものだろうか。
いつもピリピリとした空気の中で生きてきたから尚更だ。
ひどくくすぐったくて、居心地が悪くて、 劉はこの席に果たして何時間もの間おとなしく座っていられるだろうかと不安になった。ましてや気持ちいい音楽などを聴かされた日には。
( 間違いなく寝てしまうな )
不謹慎な確信を抱きながら劉は小さくため息をついた。
「 何だよ」
「 わっ!」
その時、横からぼそりと暗い声が聞こえてきて、劉は思わず驚いて大きな声をあげてしまった。 隣に視線をやると、どうやら龍麻は考えに耽っていた劉のことをじっと観察していたようなのだ。なので、劉のため息にも目敏く反応してきたのだった。
「 今のため息何? どういう意味?」
「 ど、ど、どういう意味て……」
「 もしかしてこんな感じ? 『はあ〜何でこんなかったるいもんに貴重な休日を裂かなアカンのや。アニキも何かの嫌がらせちゃうか』とか」
「 そ、そんなわけあらへんやろ! 何でわいが…」
「 あ、じゃあきっとこうだ! 『 ああ絶対寝るわ。こんなんで寝ないでいられるわけあらへん。けどもし寝たらアニキにしばかれるし』とか」
「 う…。ち、近いかも……」
「 寝たらしばくぞ、実際」
「 アニキが荒んでる……」
「 お前がつまんなそうな顔してるからだろ!」
「 つ、つまんなくないで」
「 嘘だ! だってさっきから全然喋らないし、寝ようとするし。
俺といるのが嫌なわけ? コンサートうんぬんじゃなくて?」
「 アニキ、もう勘弁してや」
「 ………劉は」
龍麻は自分で言っていて興奮してきたのか、
やや顔を紅潮させて劉のことを見つめた。
「 いっつもそうやって俺に合わせているくせに、肝心なところは何にも言わないんだな」
「 え? 何言うてるんや、アニキ…」
「 そういうのは優しさとかじゃないぞ。そういうのは……人を傷つけるんだぞ」
「 …………」
龍麻が言いたいことが何なのか、劉にはよく分からなかった。
しかし龍麻が退屈そうな自分の姿を見て傷ついているということだけは確かだった。実際、劉としては龍麻とこうしていられることは嬉しかったのだが、どうもそれを表にあまり出していなかったし、事実コンサートにもまるで興味がなかったから、それは確かに自分が悪かったと思った。
「 …………」
しかしここで謝っても多分龍麻は余計怒り出すのだろう。
劉は漠然とそう思い、何と声をかけていいのか分からなくなった。冬に出会って一緒にいて。随分と知れた仲になっていたような気もしていたが、やはりどこかで距離を取っていたのかもしれない。
何故なら、龍麻には自分以外にも大切な人がたくさんいるから。
「 劉………」
その時、龍麻の方が口を開いた。
「 劉、あのさ……」
しかしその時照明がふっと消えた。一気にホールがしんとした空気に包まれ、人々の視線が前方に一斉に集中されるのが分かった。
「 あ……」
それで龍麻は口をつぐみ、劉の視線から逃げるように自らも前へと視線をやってしまった。それで劉も訊き返すことができなくなってしまった。
クラシック音楽と一言で言っても、その音調は様々だった。
ひどく激しく辺りを震撼とさせる篭った曲調が流れることもあれば、嵐が過ぎ去ったかのように優しい色調で会場を包み込んだりもする。
照明を落とされた薄暗い空間の中で、しかし前方のオーケストラだけに注がれる明るい光を、劉は夢を見るような思いでぼんやりと眺めていた。
割と。
割といいものかもしれないなどとも思う。
「 ………」
もっともそれも、この隣にいる人間のせいだろう。
劉は龍麻の方に視線はやらないまでも気配を感じて微笑した。この人がいるから。
きっと何処にいても楽しいのだろうと思う。
もうすぐ……季節は春になるけれど。
「 ………ん」
「 ?」
その時、こつんと劉の肩越しに龍麻の頭が当たってきた。
「 は…?」
驚いて視線をやると、どうやら龍麻は眠ってしまったようだった。すうすうと軽い寝息をたてながら、劉の肩にしっかり寄り添って、何やら気持ち良さそうである。
「 わ、わいには寝たらしばくとか言っておいて…」
劉は多少非難の目で隣の龍麻を見やったのだが、
しかしそれでも肩にのるその重さを苦痛に思うことはなかった。
そうして、そっと龍麻の手に自らの手を重ねた。これくらいは役得だろう。
しかしそのすぐ後に。
「 ………!」
気づかれないように触れたつもりだったのに、龍麻が劉のその手をしっかりと握ってきたのだ。
龍麻は目をつむったままだったが、劉を握るその手には力が込められていた。劉はそんな龍麻を覗き込むようにして小さく囁いた。
「 すまん、アニキ。起こしたか?」
「 ……………」
しかし龍麻は答えなかった。代わりにそっと目を開いて、訊ねてきた劉の顔をじっと見据えてきた。
ああ綺麗な瞳だなあと劉は思った。
そう思った矢先、龍麻が口を開いた。
「 帰る時は…絶対起こせよ」
「 え?」
「 家に帰る時は……絶対置いて行くなよ」
「 何言ってるんやそんなの――」
言いかけて劉はぎくっとした。 龍麻のそう言ってきた目が。
ひどく真面目でひどく哀しそうで。
ひどく…怒っているようなものだったから。
「 アニキ…」
「 …………勝手に帰ったら許さない」
「 ………」
「 俺、お前と帰るからな……」
劉は押し黙って龍麻のことを見つめた。
この人は自分が春になったら故郷へ帰ることを知っていたのだろうか。
それとも、何ともなしにそう感じていたのだろうか。今までこの話をしたことはなかったのに。ただいつも楽しく呑気な会話ばかりで。
「 アニキ…」
「 兄貴じゃない……」
龍麻は言って劉の手をぎゅっと握り直した。それで劉も反射的に龍麻と絡めている自分の指に力をこめた。
なめらかな曲調の中、ホールは温かい雰囲気に包まれていた。戦いが終わり、全てが終わり、これから新たな旅立ちを迎える自分たちを物語るかのような静かな優しい音色だった。
劉はそちらに一度だけ視線を向け、そしてまた龍麻の方を見やった。龍麻はもうとぼけたように目をつむっていたが、劉に寄りかかる身体を起こそうとはしなかった。
その場の空気は実に穏やかな時間を2人に与えてくれていた。
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