歯ブラシ
ひどく鬱々とする時期があった。
自らの中にある《力》が抑止しきれないと感じる時に、それがくる。
それは血生臭くて、重々しくて…。自分はそんなに強い人間ではないのだから、これ以上の苦痛は正直勘弁してほしいと…そう思う時が龍麻にもある。それでも、そういった気分を祓うのはなかなか難しい。
「 おい、ひーちゃん。ラーメン食って帰ろうぜッ」
放課後になると、京一は大抵そう言っては龍麻に害のない笑顔を見せてくれる。この相棒の明るさにどれだけ救われているか分からないと龍麻は思うが、それでも「その時期」になると、誰に対しても余裕のある態度をとれなくなってしまう。
「 ごめん。俺、今日は帰るよ」
少し素っ気なく言い過ぎたかなと言った後に思うのだが、もう止められない。龍麻は具合が悪そうに表情を暗くしたまま京一から視線を逸らせた。
「 何だよ、どしたひーちゃん。風邪でも引いたか?」
京一はそう言って龍麻を心配そうに見やってきたが、龍麻がうざったそうに顔をそむけると、やや慣れたようにふうとため息をついて両肩を軽く上下させた。
「 ひーちゃんって女みたいだよな。月にいっぺんは、そうやって不機嫌になるじゃねえかよ」
「 …悪かったな」
「 悪ぃよ。…けどまあしょうがねえ。そんなひーちゃんも可愛いと思っちまうんだから、俺は」
京一はそう言ってにやりと笑ってから、「あいつらが余計な心配し出す前にさっさと帰れよ」と顎で教室の入り口を指し示しながら言った。
こういう時の京一は癪に障るが、ちょっと好きだと龍麻は思う。
確かに美里や小蒔たちが深刻に自分のところにやってきて気遣いの言葉を投げかけてくるのは、このままでは目に見えていたから、
龍麻は京一の言葉に甘えてそそくさと学校を出た。
段々と寒くなってきて。
戦いも激しさを増してきていた。
だからかもしれない。自分は本当に情緒不安定だと思う。皆の前では一応「強い緋勇龍麻」の役どころ通り、今のところ完璧な主役を演じている…と、思う。けれど自分とて生身の人間だ。疲れる時もあれば愚痴を言いたくなる時だってある。
それをやるとカッコ悪いと思うから我慢しているだけだ。
「 実はこんなに情けない奴なのにな」
龍麻はそう言って独り苦笑した。みんな、知りもしないでよくもまあこんな頼りない自分についてきてくれるものだと思う。
そんなことをつらつらと考えながら家路に向かっている途中だっ
た。
「 あ〜、アニキやん!」
底抜けに明るい声が背後から聞こえたと思った途端、どんといきなりぶつかられ、龍麻は前のめりになった。
「 何やこんな所で会えるなんて〜。わいはついとるな! アニキ、学校の帰りなん?」
「 劉、いきなり体当たりって何だよ…」
恨めしそうに振り返ると、そこには龍麻の仲間であり、自分のことを兄のように慕う劉弦月がにこにことして立っていた。
「 だって何や、アニキがらしくもなくしょげた背中しとったから。わいとしては抱きつきたかったんやけど、天下の往来でそういうわけにもいかんやろ?」
「 そんな事しやがったら黄龍くらわしてたよ」
「 ま〜た冷たいこと言いよるわ、アニキは!」
劉は軽くかわしながらにいっと笑うと、懐をごそごそと探ってから地鶏マンをさっと差し出した。
「 何や元気のないアニキにこれあげるわ! わいからのプレゼントや!」
「 …お前、それどっから出した、今?」
「 まあまあ細い事気にしたらあかんで!」
劉は半ば強引に地鶏マンを龍麻に押し付けてからぐいっと顔を近づけて、今度は本当に心配そうな顔をした。
「 けど、ほんまにアニキ顔色悪いで。具合でも悪いん?」
「 あ、ああ…別に何でもないよ」
せっかく早くに学校を出てきたのに、ここで劉に心配をされたのでは何にもならない。
龍麻は素っ気なくそう答えてから、再び足を動かし始めた。
劉もそんな龍麻の横をたたたと走ってから並んで歩き始めたのだが。
「 なあ、アニキの学校の名前て」
「 ん」
「 魔人学園やったっけ?」
「 真神学園」
「 ああ、そうやったっけ。ところでアニキはわいの学校の名前知っ
とる?」
「 ……知らない」
そう言えば知らないなと龍麻は思った。聞いたような気もするが忘れてしまった。
そもそも劉は龍麻のことは色々と聞くくせに、自分の話をあまりしない。龍麻も進んで聞くことをしないから、いつも会話をしているようでいて実はそれがひどく一方的なものである事に、龍麻は今更気がついた。
「 わいの学校な〜。この間テレビに出たんやって! 何や知らんけど、1コ上の先輩に芸能人がいるらしいわ。えらい騒ぎになっとった」
「 へえ」
劉の話を何となく耳に入れながら、龍麻は何かが喉に詰まっているかのような感覚に襲われ、それが気になって仕方がなかった。
「 で、その先輩、何たらいう歯ブラシのコマーシャルに出てるらしくってな。みんながそれ買いよって、何や怖かったわ〜」
「 何で」
「 何でて。みんなが揃って同じもん買うて、同じ話ばっかしてるんやで。不思議やん、そういうの」
「 ふ〜ん」
そういうものなのだろうかとぼんやりと考えて、龍麻は隣の劉の顔をちらりと眺めた。
こんなどうでもいい話をころころと実に表情豊かに劉は話す。
好かれる性格をしているなと龍麻は思う。
「 アニキは学校でどんな話するん?」
「 え?」
「 京一はんや美里はんたちがいて何や楽しそうやけど、まさか毎日戦いの話してるわけやないやろ」
「 それはまあ…」
とは言いつつも、頻繁に起きる事件についての話題が際立って多いが、それでも明るい京一や小蒔など、ムードメーカー的存在のおかげで、暗い雰囲気には確かにならない。
「 アニキは結構考えこむタイプやから、気をつけなあかんで!」
「 気をつけるって…何をだよ」
「 取り込まれてまうで」
付け加えのように劉が言ったその科白に、龍麻はぎょっとして足を止めた。劉は気づかずにまだ何やら楽し気に言葉を出して先を行っていたが、やがて横に龍麻がいないことに気づいて振り返った。
「 アニキ、どないしたん? 帰らんのか?」
「 劉、お前…」
「 ん〜?」
害のない笑顔がそこにある。けれど、先ほど龍麻に「忠告」をした劉は、明らかに底抜けに明るい劉とは違っていた。
けれど、向こうにとぼけられてはもう何も訊くことはできない。
龍麻は気を取り直して、劉の横についた。
再び、二人は並んで歩き始めた。
「 アニキ、日本ってほんまおもろいとこやな」
「 そうか?」
「 何もかも新鮮やもん。この戦いが終わったら、あちこち観光したいて思てんのや、わい」
「 ああ、それいいかもな」
「 アニキ、そしたら案内してくれるか?」
「 え? あ、ああ…別に良いけど」
「 ほんま!? 嬉しいわあ、約束やで、アニキ!」
「 ああ、そんな詳しくもないけどな」
龍麻は勢いのある劉に押されながらも、次第に笑みを作って答えていた。
不思議な奴だと龍麻は思う。
郷里では相当な苦労とつらい思いをしてきたに違いないのだ。
それでも、笑みを絶やさない。
「 あ、駅やな! そんじゃな、アニキ!」
「 あれ、お前は?」
途中まで方向は一緒だったはずだから、てっきり劉も電車に乗るとばかり思っていたのに、自分に別れを告げる劉に龍麻は不審の声をあげた。
劉は何ともないように軽く答えた。
「 わいなあ、ほんまは今日、旧校舎行こう思ってたんや。せやけど折角アニキと会うたし、駅まで歩けたらええなあって思って、逆戻りしてしまったんや。今からならまだ相当潜れる思うし、行くわ」
「 そうだったのか、じゃあ俺も…」
「 ああ、ええわええわ。今日のアニキ、何や元気ないもん。無理せんといてや」
劉はひらひらと手を振って龍麻から離れた。そうして10メートル程歩いた所で再び振り返り、龍麻がまだこちらを見ていると知ると嬉しそうにまた大きく手を振った。
「 アニキ、またな! ゆっくり休みや!」
そうして、真神の校舎がある方向へと駆けて行ってしまった。
「 元気だな、あいつは…」
龍麻は誰に言うでもなくそうつぶやくと、ふとため息をついた。
その夜。
何だか寝付けなくて、龍麻は目を覚ました。やはり気分が優れないせいだろうか。頭も重い。ズキズキとする痛みに顔を歪め、龍麻はそれを振り払うように身体を起こした。
洗面所で顔を洗い、目の前の鏡に映る自分の姿を見る。
何て顔だ。
「 はー…サイテーだな…」
静か過ぎる部屋で独りそうつぶやき、龍麻はそのままうなだれた。
夕食も食べずにベッドに入ったせいもあり、力も思うように入らない。これはいよいよもって明日は学校を休もうかと思う。
そして、次に。
「 腹…減った…」
そう思った。まさに、その時。
ピンポーン。
「 ……!」
いきなり鳴った玄関のチャイムに、龍麻は意表をつかれて顔を上げた。こんな真夜中に一体誰だ? 京一が突然のこのこと現れることがたまにあったが、今日は機嫌の悪いことをアイツは知っているはずだし、だとすると村雨か雨紋あたりか。
ピンポンピンポンピンポン。
「 …るっせーなあ…!」
龍麻がなかなか出ないと知ると、来訪者は不躾に激しくチャイムを鳴らしまくった。これには龍麻もむっとして、ずかずかと足を速めると勢いよくドアを開けて怒鳴り声を上げた。
「 誰だこんな時間にっ! 何時だと思ってんだっ!」
「 ごめんなぁ、アニキ…」
「 りゅ、劉!?」
しかし、ドアの前にいたのは…しかもその場にしゃがみこんでしまっていたのは、村雨でも雨紋でもなく、今日会ったばかりの劉だった。
「 ど、うしたんだよ、お前…?」
「 う〜アニキ〜。何か食わして〜」
「 はっ?」
「 腹減って、死んでまう〜」
そう言って、劉は大げさにばたりとその場に倒れ伏した。
「 ったく、何考えてんだよっ」
自分の分と劉の分、二人前のラーメンを作ってどんとテーブルに置くと、龍麻は呆れたように目の前の食べ物に目を輝かせている劉を見やった。
「 時間を忘れて地下まで潜って、その上財布をなくしたあ? そんでこんな時間に人をたたき起こしやがって」
「 アニキ〜説教なら後で聞くよって〜」
食べていい? と、お預け状態の犬のように劉は恨めしい顔を龍麻に見せた。それで龍麻もため息をついてから、黙って頷く。
「 やったー♪ いただきますぅ」
「 気色悪い声出すなって…」
しかしもう龍麻の声など聞いていないという風に、劉はずるずると一生懸命ラーメンをほうばった。その姿があまりにも熱心なものだったので、龍麻は思わず自分の食事も忘れて見入ってしまった。
そうしてあっという間にドンブリが空になって。
「 は〜! 満足満足! おおきに、アニキ! 美味かったわ〜!」
「 インスタントだけどな」
「 そんな事ないで! このラーメンにはアニキの愛情がたっぷり入っていたもん! もうごっつ美味かった! アニキのラーメンは世界一や!」
「 はいはい、そうですか」
「 ほな、片付けるな」
しゃきっと立ち上がってどんぶりを運ぶ劉に、龍麻は苦笑しながら手を振った。
「 おいおい、そんな事しなくていいって」
「 何言うてんの! 食ったら片付ける、これ当然のことやで! しかも
アニキがごちそうしてくれたものやもん、絶対洗わせてもらうわ!」
「 ああそう」
ばしゃばしゃと乱暴に水が飛び散るのを見ながら、龍麻は劉の背中を何となく見つめ、やがて表情を翳らせた。
始めこそやたらと元気の良い劉に翻弄されそれを微笑ましくも思っていたが、どうにもそれがただの空元気のように感じられたのだ。
現に。
「 なあ、劉。お前何階まで潜ったんだよ」
「 ん? さあ、どこまで行ったんかな。覚えてないなあ」
「 …随分疲れてるんじゃないか?」
「 へっ?」
洗い終わって水道を閉じた劉が、あっけにとられた顔をして振り返った。龍麻に訊かれたことに驚いたようだった。
「 な、何でそんな事言うん?」
「 だってお前の氣がかなり弱っているからさ」
「 ……」
劉は龍麻のその科白にぽかんと口を開けていたが、やがて苦笑して頭をぽりぽりとかいて見せた。
「 ああ、そうかなあ? そうかもしれんけど…。アニキに心配かけて何や申し訳ないわ」
「 何言ってるんだよ」
「 わい、もっと強うならなアカンな」
「 劉…?」
怪訝な顔をする龍麻に、劉は応えなかった。代わりに、今度は劉が心配そうな視線を龍麻に向けてきた。
「 それより、アニキの方は具合どうなんや? 夕方会うた時と、あんまり変わってないようやけど」
「 あ? ああ、平気だよ。ずっと寝てたしな」
「 そうか。あんまり無理せんといてな」
「 ははっ。何か俺たち、お互いの心配ばっかしてんな」
龍麻がそう言って笑うと、けれど劉は逆に真剣な顔つきをして龍麻に詰め寄った。
「 何言うてんのや。わいがアニキの心配すんのは当たり前や。…アニキは大事な人やもん。何かあったら、わいは生きてられん」
「 おいおい劉」
「 ホンマやで。だから、絶対無理せんといてな。わいなんかと違うんやから、アニキは」
「 …どういう意味だよ」
「 ほな、わいそろそろ帰るわ。ホンマにおおきに!」
「 おい、劉!」
龍麻の質問には答えずに、劉はさっさと玄関へと向かって行った。
こんなに遅い時間だし、龍麻としては当然劉を泊めるつもりでいたから、完全に意表をつかれた。
けれど追いかけようとして不意にまたひどい目眩を感じてしまい、龍麻は思わずよろけてしまった。
「 ア、アニキ!?」
驚いた劉が慌てて駆け戻る。
「 だ、大丈夫か、アニキ!? どっか痛むとことかあるか!?」
おろおろする劉に龍麻は苦笑した。
そして、ああ、この目眩がコイツを引き止めるのに役立つなんてとぼんやり思う。
近くに来た劉を龍麻は軽くこずいた。
「 …違うよ。お前が突然帰るなんて言うから、びっくりしてこけちゃったんじゃないか」
「 ほ、ほんまに…? 具合悪いのと違うんか?」
「 平気だよ。まったく。今日の劉は何かヘンだぜ?」
けれど、そう軽く応えた後、龍麻ははっとして口を閉ざした。
劉がひどく不安そうな、悲しそうな顔をしてこちらを見つめていたから。
「 劉…」
「 アニキ…頼むから…」
劉は言ってから、龍麻のことを抱きかかえ、そうしてすがるように頭をもたげかけてきた。
「 頼むから、わいを独りにせんといてな。わいは、絶対強うなる。アニキを護れるくらにに強うなるから」
「 ……」
「 今のわいはアニキの足元にも及ばんけど、けど、わいは絶対に・・・
わいは、強うなるから」
「 劉…」
いつから…劉はこんな気持ちを抱えていたのだろう。
いつも自分のことばかりに気がいって、コイツのことを考えてやっていなかった。こんな戦いは異常だ。おかしくならない方がどうかしている。生き残る為には強くなるしか道はなく、龍麻は半ば自分自身の為だけにいつも自らを鍛えていたように思う。
それなのに、劉の強さは。貪欲に強さを求めてやまないその心は、こんな風にいつも自分の為に向けられていたのだ。
「 悪い、劉…」
「 何…謝っとんのや…?」
不意に龍麻に言葉をかけられて、戸惑ったように劉は顔をあげた。
そうして、つらそうな龍麻の顔を怪訝そうに見つめる。
「 俺、ホント情けない兄貴だよな」
「 何、何言うてんのや、アニキは…」
「 俺も…」
劉の言葉を制して、龍麻はふっと笑んだ。
「 俺も今よりもっと強くなるから。だから、追い越したかったら、
もっと強くなれよ。…見ていてやるから」
「 アニキ…」
「 あと、もう一つ」
言って龍麻は劉の髪の毛をくしゃりとやった。
「 弟のくせに、勝手にこんな夜中に出て行こうとすんな。もう寝ろよ。歯、磨いてからな」
「 ……」
「 ? どうした?」
「 アニキー!」
「 わっ! だ、抱きつくな!」
「 もうとっくに抱きついてたもんー! わい、わい、アニキのことめっちゃ好きやー!」
「 わ、分かったから、とにかく離れろー!」
ぐりぐりと頭をこすりつけてくる劉にあたふたとしながら、龍麻はいつの間にか自分の苦痛を忘れていた。
そして。
「 なあ、アニキ。今日、コマーシャルに出た芸能人がうちの学校におるて言うたやろ」
洗面所で龍麻から貰った歯ブラシで歯を磨きながら言う劉に、龍麻は居間から「ああ、言ってたな」と興味ないように答えた。
「 アニキがくれたこの歯ブラシ。これやで、みんなが使うてるの」
「 あ、そうなんだ。偶然だな」
「 わい、めっちゃ嬉しいわ」
「 ? 何が」
ガラガラとうがいをしてから、劉はすがすがしい笑顔を向けて言った。
「 うちのガッコで流行ってん。彼氏が彼女の部屋に初めて泊まった夜に、この歯ブラシ使うてわざとそれ置いておくとな。2人は幸せカップルになれるんやて〜」
「 はあ?」
「 これ、彼女が彼氏の家に泊まりに行くってやつも有りらしいわ。けど、この青いやつは彼氏バージョンやな」
「 おいおい…」
「 わい、このアニキにもろた歯ブラシ置いてくわ〜。捨てんと、たんと取っておいてな〜」
「 …誰が彼女だよ」
呆れたようにつぶやく龍麻に、劉はにこにこしながら言った。
「 アニキ。好きやで」
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