夕闇
劉が龍麻の住むアパートにやってきたのは夕刻。
薄紅い陽の光が空に広がるあたりの頃だった。
「 アニキ、何ぼーっとしてるん?」
いつもならチャイムの音と共にドアを開けてくれるはずの龍麻が、今日に限っては劉が部屋の中に入ってくるまでその存在にすら気づかなかったというような顔をして、ぼんやりと外の景色に目をやっていた。
窓を少しだけ開けたその部屋の中は、外気の侵入で少しばかり寒い。
それでも、龍麻はその冷たい温度すら感じてはいないようだった。
「 ああ劉。来てたのか」
それでも不思議そうに声をかけてきた劉に、龍麻はうつろな瞳ながらも少しばかり笑ってみせた。心ここに在らず、という微笑みではあったが、やはりそんな顔も綺麗だと劉は思った。
「 アニキ、何かあったんか」
「 何が」
「 何がて。何か様子がおかしいやんか。いつもと違うで」
「 ああ……。別に何でもないよ。眠いのかな」
「 ………」
そう言って再び窓の外へと視線をやる龍麻を、劉は益々不審な目で見つめた。
緋勇龍麻という人間が時々こんな様子になることは、
劉ももう十分に知っているはずだった。
《力》に関しては無敵の黄龍の器も、さすがにその精神構造まで無敵というのではないらしく、 普段は明るく皆を引っ張っている龍麻が時折こんな風に憂鬱そうな顔をするのを、劉はもう何度となく目にしていた。
それを今更咎める気は勿論ないけれど。
「 ……アニキ、眠いんならベッドで寝たらどや」
「 うん」
適当な返事をして、龍麻は相変わらず窓の外へと目をやっていた。
いよいよ。
胸の内が黒いもので覆われる。劉はそんな自分が嫌だったが、こればかりはどうしようもできなかった。
自分を見つめない龍麻というのを、劉は心の半分では認めていたが、残りの半分では嫌悪していた。
「 ……アニキ」
劉は龍麻に近づいて、そっとその肩に触れてみた。反応はない。龍麻はひどく無反応だった。劉は何だかそんな龍麻に不安を覚えて、今度は無理に龍麻の肩を強く掴むと、強引に自分の方へと身体を向けさせた。
それでようやく龍麻と視線が合った。
「 何だよ劉…?」
龍麻は別段不快でもなさそうな、けれどもだるそうな声を出した。 劉はそんな龍麻に眉をひそめた。
「 何だはアニキの方やろが。わいが来たのに目も合わさんと、一体何を考えてるんや? いつもやったら話してくれるやろ」
「 ………」
「 何かわい…アニキの気に入らんことしたか」
劉の一瞬沈んだような声に、ようやく龍麻は明らかに動揺したような顔を閃かせると、「そんなことないよ」と言ってきた。その答えに劉はひどく安堵する自分を自覚していたが、それでも翳った表情はそのままに龍麻の肩を掴む手に力を込めた。
「 なら…何であんな顔してたん? 何見てたん?」
「 ………いつものことじゃん」
「 いつもと違うで。 いつもアニキが何や悩む時はすぐにわいに言うてくれるやろ? 今日はわいのことも…何も見えとらんような顔して」
「 劉は…俺のこと好きなの?」
突然龍麻はそう聞いてきた。あまりにもはっきりとした質問に劉は思い切り途惑ったのだが、口だけはすぐに動いた。
「 当たり前やろ。そんな事も気づかんかったのか」
「 うん」
「 わい、いつもアニキのこと好きやて言うてたやんか」
「 俺も」
「 え?」
「 劉のこと好きだよ」
龍麻はひどく美しく微笑してからまた視線を劉から逸らした。
いつの間にか劉も龍麻への拘束を解いていたから、それは割と簡単なようだった。
「 アニキ」
「 …ごめん。今日さ、何か一人になりたいんだ。悪いけど帰ってくれるか」
龍麻が何故か自分を拒絶している。そう思った。
不安な気持ちに一層拍車がかかり、劉は激しくなる鼓動を抑えるので必死になった。何故この人はいつもあんなに優しいのに、時にこんな風に誰をも受け入れまいと冷たくなるのだろう。何を怖がっているのだろう。それがたまらなかった。
初めて出会った時は、その雰囲気に惹かれた。不敵な、神々しい感じがした。選ばれた、自分とは違う世界の住人。そんな人と自分は以前から強い絆で結ばれていたのだ。弦月というこの名前が。彼と自分を引き合わせてくれた。そう考えると嬉しかった。
しかし段々と親しくなるにつれて、劉のそんな龍麻への憧憬の念は、徐々に薄くなっていった。
その代わり強くなっていったものは。
「 ………何」
龍麻がひどく抗議めいた声を出した。
「 何だよ、劉? …離せよ」
劉は気づくと龍麻を力まかせに押し倒し、肩を掴んで床に組み伏せていた。
「 俺、今日は――」
「 それはアニキの都合やろ」
「 …………」
「 わいは……アニキと一緒にいたい」
「 明日会うから……」
「 明日会えるいう保証、どこにあるん」
「 え?」
「 そんな、今にも死にそうな顔しとるくせに」
「 劉……」
「 あんたはいつもそうやって……」
遠くばかり見ている。
近づいたと思ったら突き放して。そうかと思えば近づいてきたり。
「 好きやて…言うたやろ」
「 ………」
劉はつぶやくように言ってから、龍麻の唇に自分のそれをそっと落とした。
龍麻は抵抗しない。そのまま受け入れて、ただじっとしていた。
胸が痛い。
ヤケになったように、 劉は何度も龍麻に口付けをした。それから徐々にそのキスを下ろしていって、首筋へも唇を向ける。
「 劉……」
掠れたような声が聞こえたが無視した。 制服の白いシャツのボタンを一つ一つ取っていき、露になった龍麻の白い肌を見つめた。
「 もう…やめろって」
龍麻が言った。劉はその声で余計ムキになると、龍麻の胸の飾りに唇を寄せた。そっとキスをしてから、そこに何度も舌を這わせる。しつこく舐めては少し噛み付き、もう一方のそれにも指で刺激を与えた。
「 ん……っ」
龍麻が声をあげた。 自分を責めている声だと劉は思った。
けれど。
龍麻はそっと劉の髪の毛に自らの手を差し入れて、優しく撫でてきた。
「 ………!」
劉ははっとして動きを止め、顔をあげて龍麻のことを覗きこんだ。 龍麻もうっすらと目を開き、自分を見つめる劉に視線を向けた。
そして。
「 弦月」
「 え…?」
驚いた。 懐かしい響きだった。 龍麻に呼ばれたのはこれが初めてだというのに。
「 弦月」
しかし龍麻はもう1度、今度はもっと優しい口調で言った。胸が痛んだ。
こんな風に呼んでもらいたかったわけじゃないのに。
「 馬鹿だなあ、お前は……」
「 アニキ……」
「 俺…弟に抱かれちゃうわけ……?」
「 ……そうやない。わいがしたいのはこんなことやないけど……」
「 ………ううん。いいんだよ」
龍麻は言ってから、もう一度ゆっくりと劉の頭を撫でた。
何で。
優しいような、それでいて実は何も考えていないような。
龍麻はそんな目をしていた。
「 アニキの考えていること…わいには分からん」
劉はむくりと身体を起こすと、乱れた龍麻のシャツを直して顔を背けた。
今、この人を抱くことは容易いのだろうけれど、それをしてしまえば、もうこの人は二度と自分を見てくれないのではないだろうかと劉は思った。
「 俺……お前のこと、傷つけた…?」
龍麻が上体を起こしてそっとそう聞いてきた。 劉は投げやりな声で「別に」と答えた。すると背中にふとした重みを感じた。龍麻が頭をもたげて寄りかかってきたのだった。
「 嫌うなよ。俺のこと」
「 何を言うてるんや…?」
「 だから…俺のこと嫌うなよって言ったんだ」
「 ……できたら苦労せんわ」
「 うん」
龍麻は頷いたのだろうか、背中にあった感触が少しだけずれた。振り返ってそんな龍麻の顔を見たかったけれど、それによってこの人から離れられるのも嫌で、劉は身動きが取れなかった。
「 何考えてたか教えてくれんの?」
「 うん」
「 何でや」
「 ………俺、言葉下手だからうまく言えない」
「 ええよ、そんなの。喋ってや、アニキ」
すると龍麻は一間隔後にいやに澄んだ声で言った。
「 ………俺、本当は誰も好きじゃないのかもしれない」
窓からさわさわと緩やかな風が流れてきた。
外はいよいよ闇が降りかかり、 明かりのついていない部屋は急激に視界を遮断していった。
それでも今の劉にはそんな風景はどうでもよくて。
龍麻の言葉にただ声を失くして。
「 ………ごめんな、劉」
「 …………」
「 俺はまたこうやってお前に甘えるんだな」
お前が傷つくの分かってて。
龍麻はそう言ってからすっと劉の腕を掴んできた。
力はこもっていなかったけれど、しかし全身が震えているのは分かった。
劉には龍麻の苦しみというものがよく分からなかった。
多分、この先も分からないのではないだろうかと思う。
どれほど理解したい、理解しよう、理解できたと思っても、結局はそれは自分の思い込みに過ぎないのだ。いくら近づこうとしても、この人の宇宙の中には入れない。そのことを痛いほどに感じてしまう。
「 今日は……だからお前にだけは来てほしくなかった……」
龍麻は言って、か細い声を出した。泣いているようだった。
ああこうやってこの人は。いつも。
劉はぎゅっと目をつむった。
ああこうやってこの人はいつも結局こうやって、誰をも、自分をも受け入れようとはしないのだ。
それでも。
それでも変わらない、変えることができない気持ちがあって。
「 でもわいは…あんたのことが好きなんや」
龍麻の顔を見ることも叶わずに劉は独白のようにつぶやいた。
「 だから…いつでもわいはあんたの傍にいるから」
劉は言い、そうして自分の腕を掴む龍麻の手に自らのそれを重ねた。
それに対する返答はなかったけれど。
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