甘い菓子
その、忘れようにも忘れ難い青年と男が再び巡り会ったのは、まだ春も遠い冬の日のことだった。
男が仕事の関係で東京に来ることは、さほど珍しい事ではなかった。父親は未だに心身共に健在で、組の人間を隙なく束ねてはいたが遠出はさすがに億劫らしく、外の付き合い、特に関東圏での仕事は全て息子である男に任せるようになっていた。
だからその日も、男は懇意にしている関連会社の役員と会食した後、最早見慣れた東京の街並みを1人散策している際中だったのだ。普段は煩いほどに自分の周りをまとわりついている部下共をようやくの思いで追い払って。
そこで、その街並みの一角で、男は青年と再会した。
「 煩いな」
けれどその偶然の再会は、決して穏やかなものではなかった。咄嗟に様子がおかしいと思ったのは、青年がひどく迷惑そうな顔をしていたから、そしてその周りを囲んでいる3人の男たちがどことなく殺気立った様相で何事かを喚いていたからだった。
建物の影になっている人通りの少ない路地で、青年と男たちは険悪な雰囲気で対峙していた。
「 どうかしたかい」
お節介は自分の性分とばかりに、男は迷わずにその群れの中に入っていった。
「 何だか物騒な雰囲気じゃないか」
「 な、何だよテメエは…」
不意に現れた見知らぬ人間に、男たちは思い切り警戒したような声でたじろいだ。いや、多分それだけではないだろう。男は自身ではそれほど意識していないのだが、この容貌はどうにも大抵の人間を威嚇するものであるらしい。そのせいで青年以外の男たちは明らかに怯んだような様子を見せていた。
「 関係ねえだろう…ひっこんでろよ…っ」
それでも1人の人間が強がって押し殺したような声を出してきた。
「 いや…そこの兄サンは俺の知り合いでね…」
「 え……?」
青年はその男の台詞に、明らかに不審な顔をして眉をひそめた。ああ、やはり覚えていないのかと男はそれでちらとだけ失望したが、努めて顔には出さないようにして青年以外の男たちに向かった。
「 この兄サンが何かアンタたちの困るようなことをしたかい」
「 こ、こいつが…! ふざけたことを言いやがるから…!」
「 何を言ったんだい」
「 そ、それは…っ」
男が訊くと、何故か訊かれた人間たちは躊躇したように皆口ごもった。そうしてもごもごと何かをつぶやいた後、どうにも居た堪れなくなったように、バラバラと路地から出て行ってしまった。青年に悪態をつきながら、ではあったが。
「 何なんだい、あれは」
男が呆れたようにそう言いながらその人間たちを見送ると、その背後に残った青年の方は、未だ警戒したような目をしたまま男に視線をやっていた。
「 あの……」
そして、ようやく意を決したように男に声をかけてきた。
男はそこでようやく振り返って改めて青年を見やった。黒の学生服に身を包み、少し思案めいた眼をした綺麗な顔立ちは、あの時と同じだった。
「 貴方は……?」
「 覚えてないかい」
「 …………?」
すぐに名乗りを上げるのが何となく癪で、男はわざと一拍置いてそう訊いたのであったが、青年はやはり思い出せないのか、怪訝な顔のまま微かに首をかしげた。
「 確か龍麻君…だったよな。君の友達がそう言っていたのを覚えているよ」
「 何処で会いました…? すみません、俺、人の顔って覚えるの苦手だから」
「 そうかい。いや、いいんだ。大して話したわけでもない。お互いに名乗りもしなかったしね。京都で会っただろう。天狗山で」
「 え…? ………あぁ」
恐らく「京都」という名を出さなければ、この青年―龍麻―は絶対に自分との接点を見出せなかっただろう。諦めて早々にあの時のことを口にした男は、それでもようやく自分のことを思い出したような龍麻に破顔した。
「 そういえば君は東京の高校生だったよな。……今、三年生だったか?」
「 はい。おじさんは……」
「 お……」
あまり言われ慣れない呼ばれ方をしてさすがに戸惑う。しかし確かにこの年の子にしてみたら自分は「おじさん」ではある。男は多少面食らいながらも、苦笑いをして龍麻に先を続けさせた。
「 こんな所で何をしてるんですか?」
「 仕事だよ」
「 ああ…出張ってやつですね」
「 まぁ、そんなようなもんだな」
「 ヤクザでも出張ってあるんだ」
今は普通の企業と同じように建設関係の仕事をしているのだがと思いながら、古いヤクザの慣習を捨てていないうちの家系ではそう言われても仕方がないと男は思い直し、その龍麻の台詞には特に何も言及しなかった。そして今度は自分の番だとばかりに訊ねてみる。
「 そんな事より、龍麻君こそ何をしていたんだい。さっきの連中、どう見ても君の友達という風には見えなかったが」
「 ああ…。いきなり人の顔見て『3万でどうだ』なんて言うから」
「 ん……」
何でもないことのように龍麻が言った台詞に、男は多少眉をひそめた。しかし龍麻はふいと横を向きつつも続けた。
「 ふざけるなって思って、『30万出せ』って言ったら、出すって言うから焦っちゃって」
「 ……それでやっぱりやめるって? それじゃあ、連中も頭にくるだろう」
「 そうですよね。だから、悪いのは俺かも」
勿論、声をかけてきた男共も悪いのは悪いのだがと男は心の中で思いつつ、けれど何やら物憂げな調子の龍麻を黙って見つめた。
どうにも。
あの時に出会った彼とは違う感じがする。
( あの時はもっと仲間の中心に立って、堂々としていたような感じだったが…)
「 あの…それじゃあ、俺はこれで」
しかしふと考え込もうとした時、 龍麻がそう言って自分の横を通り過ぎようとしたことで、男は焦って我に返った。そして一もニもなくもう声を出していた。
「 折角会ったんだ。ちょっと俺に付き合わないか」
「 え……?」
「 今日の夕方にも向こうに帰らなきゃならないんだが。丁度、今は東京見物していたところでね。どうせなら、君がいてくれた方が俺も楽しい」
「 でも……」
「 駄目かい」
「 俺、貴方と寝る気はないですよ」
「 ん……?」
龍麻はひどく真面目な顔をして真っ直ぐな視線を向け、きっぱりとそう言ってきた。男はひどい勘違いをされた事で一瞬はむっとしたが、あまりに真摯なその目には非難の声を出す気が削がれた。
すると龍麻が先に声を出した。
「 俺、付き合っている奴がいるから」
「 ……それは結構なことだ」
なら何故あの男たちに「30万」などという話を振ったのかとも思ったが、男は敢えて口には出さなかった。
「 生憎、俺にはそういう趣味はないんだよ。残念だがな。俺はただ純粋に君と話がしたいだけだよ」
「 何で……」
「 さあ、何でだろうな。今日日の高校生に興味があると言ったら信じるかい」
「 まさか」
龍麻はすぐにそう言ったものの、男の害のない表情を汲み取ってほっとしたのか、ようやく小さく笑って見せた。
好きなものを御馳走してやると言ったら、龍麻は「行きたい店がある」と、直ぐに男をある甘味処へと連れて行った。
「 俺、クリームあんみつ。おじさんは?」
龍麻は慣れたように店の女性に注文すると、熱いおしぼりで手を拭いながら男を見た。
「 ……じゃあ同じ物を」
正直、甘い物は苦手な部類に属するが、それ以上にこういった場所にあまり立ち寄らなかった。男は慣れない場所に居心地の悪い思いを抱きながら、それでも自分の目の前で涼しそうな顔をしている龍麻を興味深気に眺めた。
「 こういう所には良く来るのかい」
「 女の子と一緒なら抵抗はないですよね。さすがに1人ではあんまり。周りの客も女の子ばっかりでしょ」
龍麻は店内で明らかに浮いている自分たちを卑下するように言った後首をすくめた。なら何故自分をこんな所に連れてきたんだと男は少しだけ思ったが、やはり口に出すのはやめた。
「 ……あの正義感溢れるお友達は皆元気かい」
「 よく覚えてますね、あんな昔のこと」
龍麻は心底感心したようにそう言ってから、「みんな元気ですよ」とあっさり答えた。そうしてお茶の入った湯のみに口をつけてから、つまらなそうに付け足した。
「 ただ、正義の味方ごっこは年始めに終わったんです。皆、引退です」
「 ……? どういう意味だい」
訳が分からずに訊き返したが、龍麻は素っ気無かった。
「 そのまんまの意味です。最大の敵は闇に葬り去られ、東京の地には平和が戻ったんです。だから今俺たちは普通の高校生として高校最後の期末テストを控えて猛勉強中ってとこです」
「 ………」
何となく投げやりな物言いをする龍麻が気になりながらも、男は黙って話を聞くことにした。龍麻も今日限りの相手だと思うと余計に話がしやすいのか、あの時会った無口な印象とはうって変わって実によく唇を動かした。
「 でもね、俺は思うんです。一体世の中の何が悪で何が正義かなんて、その人間によって違うでしょ。あいつらにとっては俺たちの方がよっぽど悪い奴だったろうし、他の人間からしてみても、正義の名のもとに殺ったり殺られたりっていうのは、何か違うんじゃないかって思う人もいると思うんですよ」
龍麻がそう言ってふうとため息をついた時、注文していたあんみつがテーブルに運ばれてきた。龍麻はそれで一瞬虚をつかれたようになって押し黙ってから、ふっと男を見て笑って見せた。
「 これ、おじさんの奢りなんでしょ?」
「 え…ああ。好きなだけ食べるといいよ」
「 はは、一杯でいいですよ。いただきます」
龍麻はそう言ってから、嬉しそうにスプーンを手に取った。ふと目にするその手の指は、細く長く…白かった。
そして男にはひどく美しいものに見えた。
それが物騒なことを口にし、どこか自暴自棄なのが男にはやはり気になったのだが。
そんな男の心意など気づく風もなく龍麻はあんみつを口に運びながら交互に話も続けた。
「 おじさん…。おじさんもヤクザなんて家業をしていると、色々とあるでしょ。でも俺、昔っからきっとヤクザさんって人は自分の正義を疑ったりしたことないんだろうなって思ってたんですけど。本当のところどうですか」
「 ん……」
「 だって自分に自信がなかったら、あそこまで偉そうにはできないと思うもん。ヤクザってみんな偉そうでしょ」
「 偉そうかな」
「 俺が会ってきた人たちは、大抵そうだけど」
「 そうか」
男は否定も肯定もせず、ただおかしそうに目を細めて龍麻を見やった。こういうところはやはり子どもに見えた。あの、どこか達観したような目の奥に宿る、純粋な光。
「 良かれ悪しかれ、自信のある人は幸せです」
「 君はないのか、自信」
「 あるわけないでしょ」
怒ったように龍麻は答えた。
「 そうなのかい」
「 あったらね…色いろ悩んだりしないから」
そして龍麻はふっと視線を店の窓の外へとやり、
何事か考えこむような表情を見せた。そしてぽつりとつぶやいた。
「 自信がないのってあいつも同じだけど」
「 誰だい」
「 付き合ってる恋人」
「 ………そういえばそんな人がいるんだったな」
「 そうだよ。だからおじさんとは寝られない」
「 頼んでないんだがな」
男は未だそれにこだわる龍麻に苦笑してから、ようやく自分も手元のあんみつに手を出した。やはり甘い。甘すぎて、自分には合わないと思う。
「 そいつさ。馬鹿なんだ。そいつも俺に輪をかけて悩み症なんだけど。やっぱ駄目だね。ネガティブの奴同士がくっつくと。どろどろで、もう救いがない」
「 君が明るい方になればいいんじゃないか」
「 駄目。俺は落ちると、とことんまで落ちちゃう方だから」
龍麻は言ってから、「おじさんはそういうことないの?」と何故か腹を立てたようにそう訊いてきた。龍麻が他人である自分に対して心底知りたいという顔で質問をしてきたことで、男は心の中で微かに笑んだ。無関心でいられるよりも、やはりこちらの方が嬉しいと思う。
「 おじさんだって色々悩んだりすることはあるぜ?」
「 ふーん……」
「 自信だってな。ある時もあるが、ない時もある」
「 何だよ、その答え。ずるい」
「 大人はみんなずるいのさ」
「 その答えもずるい」
「 そうかな」
「 そうだよ。でも……ふーん。おじさんでもそうなんだ」
龍麻は少しだけ憮然としたような顔をしていたが、男のどことなく訴えるような目に押し負かされたのか、それだけを言うとしばし押し黙った。そうして、何かをふっきるようにあんみつを食べることに没頭し始めた。
がつがつとそれを頬張る龍麻を、男は可愛いと思った。
「 ……ねえ、おじさん」
それからしばらくして、すっかりあんみつを食べ終えた龍麻がふっと顔をあげて訊いてきた。
「 俺ってね、つくずく貧乏性っていうか不幸体質っていうか。満たされていなかった今までがすごく嫌だったくせにね。いざ、自由になって、好きな奴と両想いになって、さあ何でも好きな事して下さいって言われたらさ。これは何かの罠なんじゃないか、本当の本当に俺は自由になったのかってすごく不安になったんだよ」
「 ……君の好きな人にそのことを言えばいい」
「 駄目。言ったでしょ。あいつは俺より重症なんだから」
「 ……………」
「 だからムカムカして。実はさ、喧嘩した後だったの。馬鹿みたいだろ? それであんな変態男共の相手なんかしちゃってさ。せいぜいおじさんを相手にしておけば良かったのに」
龍麻はふざけたようにそう言ってから、空になったあんみつの皿を傾けて見せ、「ごちそうさまでした」と丁寧に礼を言った。男はそんな龍麻が妙におかしくて、声をたてて笑った。
店を出ると、辺りはもう大分薄暗くなっていた。
「 手下の人が心配してるんじゃない」
龍麻が気をきかせてそう言ってきた。男は苦笑してから、「まあ、何とでもなるさ」とだけ言い、遠くの空を眺めた。
今日の夜には、もうこの青年とは遥かに離れた遠い地での生活が始まっている。それはそれで構わないけれど、きっと今のこの時間を恋しく感じる時も来るだろうと男は思った。
「 そういえばさ…俺、おじさんの名前訊いてなかったね」
「 あぁ…そうだな」
龍麻が思い出したようにそう言い、男も同調したように何気なく返した。
「 聞きたいかい」
「 んー……。いいや」
龍麻はしばらく考えたような顔をしたが、何かを決めたような目をしてからきっぱりと断った。
「 きっとまた、会えるような気がするし。名前を聞いてしまったら、余計に何だかもう会えないような気がする」
「 そうかい」
逆じゃないのかと思いながら、男はしかし進んで名乗ろうとも思わなかった。龍麻がそれでいいというなら、それで良いと思った。
「 龍麻」
その時、通りの方から切羽詰まったような声が聞こえた。
「 紅葉……」
その声に、龍麻がつぶやくように返す。男はそんな龍麻と青年とを交互に見やった。
龍麻を呼んだ青年はすらりと背の高い、切れ長の眼をした実に美しい青年だった。龍麻とは違う学生服を着ているが、年は同じくらいのようだ。
そんな青年は明らかに焦ったような顔をして、龍麻と男のことを遠くから見やっていた。
「 友達かい」
訊くと、龍麻は困ったように笑ってから「違うよ」とだけ答えた。そしてもう一度、なかなかこちらに近づいてこようとしないその青年をちらと見てから、再び男に視線を向けた。
「 今日はありがとう。俺、もう行くね」
「 ああ…。こちらこそ、ありがとうよ」
「 うん。またデートしよう。おじさんとなら、さんまんえんでもいいよ」
「 ははは。覚えておくよ」
男は龍麻のいたずらっぽい笑顔につられて笑ってから、軽い足取りで「紅葉」という名の青年の元へと駆けて行く龍麻に軽く片手を挙げて別れを告げた。
龍麻は青年の近くに行ってからもう一度そんな男に振り返り、自分も同じように片手を挙げて挨拶をしてから、もう男のことは忘れたように、背の高い青年と共に歩き去って行った。男は2人の姿が消えるまでそれを見送り、「またな」とつぶやいた。
口の中はまだあの甘い密の味が残ったままだった。
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