シャッターチャンスを逃して
( あ…これは非売品にしとこう)
アン子こと新聞部部長の遠野杏子が放課後の部室で写真片手に独り悦に入っていると、真横のドアがとんとんと遠慮がちにノックされた。
「 どうぞー?」
誰だろう、もう随分と遅い時間だというのに、こんな時間に来る生徒は。或いは「そろそろ下校しろ」という教師の催促だろうか。
そんな事を考えながら遠野が何気ない仕草で開くドアの方を見やると、果たしてそこから現れた人物はまるで予想のしない相手であった。
「 げ」
思わず漏れたその声に、目の前の人物は一瞬だけ訝し気な目を見せた。
「 何?」
「 そ…れは、こっちの台詞。龍麻クンこそどうしたの。1人?」
「 うん」
言われた当人…龍麻は静かに笑ってから素直に頷いた。
そんな龍麻を見て遠野は「相変わらず綺麗」と思ったが、それは特に口にせず、別の事を言った。
「 珍しいわねえ。誰ともつるまずにこんな所に来るなんて」
「 こんな所、なの。ここ」
「 まあね」
はじめこそ驚いたものの、遠野は先刻まで自分が見ていた物を隠そうともせず、平然として答えた。それからドアを閉めて完全に中に入ってきた龍麻に傍の椅子を勧めると、率先して手にしていたそれをぴらりと差し出した。
「 どう、これ?」
「 ……俺?」
「 そう。君」
遠野はしれっと答え、それから「まだあるのよ」と言って机の上に無造作に置いていた写真をずらりと掌で広げて見せた。幾十枚とあるそれがずらずらと龍麻の目の前に晒される。それは場所やアングルこそ違えど、全てが龍麻の写真で、またその全てが当人にとっていつ撮られたものか覚えのないものであった。
「 これって肖像権の侵害とかにならないの?」
「 ならないわよ」
「 そう…?」
「 そう」
きっぱりと言い切ればどんな罪とて罪ではなくなる。
将来ジャーナリストを目指す遠野にとってそれが正しい方向なのかそれとも否かは置いておくとして、とりあえず彼女は楽し気な笑みを閃かせると最初に見せた物とは別の物を取り出して龍麻に見せた。
「 これなんかアタシの会心作。ね、龍麻クンが妙に色っぽく写ってるでしょ? 高く売れると思うなァ」
「 ………」
「 こっちは体育の時でしょ。それからこっちは昼食摂ってるところ。あ! こっちなんか眠そうにしている一瞬を逃さず捕らえた秀作よ! 今ねえ、《緋勇龍麻コレクション》の第二弾として作品の整理してたの。まとまったら売値を決めて一般公開して焼き増し数を計算するのね。案外面倒なのよね、それが」
「 ふうん」
「 ……あら。怒らないの?」
最初こそ驚いたような呆れたような顔をしていた龍麻が、しかしやがてひどく眠そうな顔をし、興味を失くしたような声を出した事で、遠野はぴたりと動きを止め首をかしげた。龍麻の事だから渋い顔をして「ひどい」とか「やめてくれ」とか言ってくるかと思ったのだが、何故か妙に静かだ。
「 もしかして元気ない? どうしたの?」
「 んーん…」
遠野の問いかけに龍麻は首を振りつつも、やがて写真がちらばる机上に無造作に倒れ込んだ。
「 ちょっ…!?」
これに慌てたのは当然遠野で、大抵の事には驚いたり焦ったりする事などないはずなのに、らしくもなくすっかりうろたえ、動揺してしまった。龍麻が相手ならばどんな状況もいつもと話は別なのだ。
「 ちょっとちょっと龍麻クン!? 本当にどうしたの、具合でも悪いの!? みんなを呼んでこようか?」
「 嫌だ」
「 え?」
「 誰も呼ばないで」
「 …た…龍麻、クン?」
「 写真、売ってもいいからさ…。ちょっとここで休ませて」
「 それは…いいけど…」
「 ………」
「 ………」
遠野が黙りこむと、机の上に突っ伏し顔を上げない龍麻との間で部室の中は途端沈黙に包まれた。遠野は傍にいる龍麻の不安定な様子に尋常でないものを感じうろたえたが、それでも自分は今立ち上がったり騒いだりしてはいけないのだという事だけは分かった。
だから黙っていた。いつもだったら耐えられない、ずっと口を噤んでいるだなんて。
それでも遠野は黙っていた。
「 遠野さん」
やがて龍麻が机に顔を押し付けたままくぐもった声で呼んだ。
「 あ、うん」
「 ………」
「 何? 苦しい? 何か飲む? お茶とかコーラとかジュースとか…」
「 いらない」
「 あ、そう…」
拍子抜けしたようになりながら、それでも遠野はバカみたいに龍麻の黒々とした髪にただ視線を合わせていた。龍麻の一挙手一投足を見逃してはならないと思った。
何故なのかは分からなかったが。
「 遠野さん」
するとまた龍麻が呼んだ。
「 何?」
遠野がすぐに返すと龍麻は続けた。
「 今日、俺がここに来たって言わないで」
「 誰に…」
「 誰にも。俺がこうしてくたばってんのも誰にも言わないで」
「 どうして?」
「 どうしても」
「 ……龍麻クン、疲れてるの?」
「 うん」
「 ……みんなに言った方がいいわよ」
遠野が悩んだ末にそう口を開くと、龍麻は息遣いで微かに揺らしていた肩先の動きを止めた。そして更に微動だにしなくなった。
遠野は何故か龍麻がそのまま死んでしまうのではないかとすら思え、とにかく気が気ではなかった。だからまくしたてるように声をあげた。
「 だって龍麻クン、何かあるなら1人で抱え込むのはなしよ? ほら、最近異常な事件ばかりでしょ。龍麻クンにばっかり負担がかかるのはみんなだって本意じゃないだろうし。京一なんか、もし龍麻クンがこんな状態なの見たら絶対ほっとかないわよ。あいつ、何てったって龍麻クンにぞっこんだし」
「 あいつも」
「 え?」
「 あいつも、写真買うの?」
「 え?」
「 ここにあるやつ……」
「 あ、ああ、これね。そうね、買うわね」
「 ………」
「 あいつだけじゃなくって、美里ちゃんは勿論、小蒔や醍醐クン、それに佐久間だって買いに来るわよ。そうそう、マリア先生も!」
「 ………」
「 だからうちとしては非常に助かってるんだけどね。あっ、でもモデルの龍麻クンに今まで何のお礼もしてなかったから、今度ラーメンの1杯でも奢るわ。あ、ラーメンじゃなくても龍麻クンの好きな物なら何でも! 何でも奢ってあげる!」
「 ………」
「 何がいいっ? どうせなら丸1日デートしちゃうとかね!」
「 やだよ」
「 あ…そ、そう……」
勢いに任せてどさくさに誘ってみたものの見事に玉砕で遠野はがっくりと肩を落とした。それでもようやく龍麻が息を吹き返したようになり、やがてゆっくりと身体を起こした事で遠野はほっとして頬を緩めた。
思えばこの学園に突然現れた転校生…緋勇龍麻は、いつでも不思議で美しく、そして強いのに。
いつでもこうやって儚げなのだ。
「 そこがまたイイんだけど」
「 何?」
「 あ、な、何でもないっ。それより、本当に大丈夫?」
「 うん。遠野さんが俺がここに来た事誰にも言わないなら」
「 ……本当に内緒なの?」
「 うん」
「 京一にも?」
「 あいつには特に」
「 なん……」
何故と言いかけて、けれど遠野はその先の言葉を継ぐ事ができなかった。龍麻の目がそれを許していなかったし、何より遠野自身、その既に薄っすらと見えてきている真相をあまり知りたくはないと思ったから。
知りたくないなどと、そんな感情を自分は抱いてはいけないというのに。
「 でも、誰にも知られたくないならどうしてアタシの所に来ちゃったの? 自分で言うのも何だけどアタシってお喋りよ?」
「 そんな事ないよ。記者だもん」
「 ん?」
「 そういう区別はちゃんとつく人でしょ」
「 …あ。何かズルイなあ、その言い方」
「 それに休むならここしかないよ。ここなら絶対見つからないと思ったから」
「 何で?」
「 俺がマスコミ嫌いなの、あいつよく知ってるもん」
「 ……龍麻クン?」
「 こんなのよく撮ったねえ」
「 え、えーと、龍麻クン? 今の発言はだから、つまり…」
「 うまく撮れてる」
「 ………」
ひきつった顔をしている遠野をよそに、龍麻は何事もなかったかのように自分が突っ伏したせいで潰してしまった写真の1枚をぴらりと指に挟んで掲げた。
それは遠野が先刻「非売品にしよう」と決めた、とっておきの龍麻の着替えショットだった。
「 これは没収」
「 え!!!」
「 遠野さんの夜のオカズにされそうだから」
「 うぐっ…。よ、よくお分かりで…」
取り返そうと身を乗り出したところをそう言われ、遠野は再びがくりと脱力して項垂れた。龍麻はふっと小さく笑い、またひどく眠そうな顔をしながらその遠野にとってとっておきの1枚をぼうと眺めた。
ひどく疲れた顔。それでもやはり綺麗だと遠野は思った。
「 ねえ龍麻クン…。黙っている代わりにアタシと1日デートとか…どう?」
「 嫌」
「 うう〜…。そんなすぐに断らなくても〜!!」
悔しそうに歯軋りする遠野に龍麻が今度こそ笑った。けれど遠野がカメラをと思った時にはもうそのシャッターチャンスは終わっていて、龍麻は再びばたりと机の上に突っ伏して「寝る」とだけ告げた。
「 あーあ」
しかし遠野はそんな龍麻にわざとらしいため息をつきながらも、実はちっとも残念でないと思っている自分を自覚していた。
龍麻がいる。いつもフレーム越しにしか見ていなかった、実は遠い相手がここに。
「 それにこの寝顔は今アタシだけのものよね」
遠野は龍麻に聞こえるか聞こえないかくらの囁くような声でそっと言い、傍にあるカメラをちらとだけ見たまま、それに手を伸ばす事はしなかった。
別にいいと思ったから。
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