どきん、と。



  尊んで止まない主である御門晴明が珍しく不機嫌な顔をして「お前に頼みたい事があります」と言ってきた時、芙蓉は従順に頭を垂れながらも心の中で密かに首をかしげた。心優しい主人は、普段から式神である芙蓉にも冷たい態度など決して取らない。どんなに多忙でも、時に理不尽な仕事を任された時でも、それらの感情をこちらに見せる事はなく、主は常に平常心だ。御門の旧友である村雨などは「俺には我がままし放題の毒あり放題だ」などと言い、「あいつは芙蓉にだけ甘い顔をしているんだ」などと茶化すのだが、芙蓉はそんな遊び人の発言などは髪の毛先ほどにも信用していなかった。
「 何なりとご命じ下さい」
  しかしだからこそ芙蓉はこの時の御門が発するどことなくむっとしたオーラを不審に思ったし、それにより一層自分で役立てる事なら何でもしたいと考えた。
  すると御門はそんな芙蓉の想いを素早く察したのか、多少罰の悪い顔をしてコホンと軽く咳き込んだ。
「 何、そんなに畏まる事はありません。芙蓉、お前には私の代わりに龍麻さんの相手をしてもらいたいのです」
「 は…龍麻さまの…ですか?」
「 そうです」
  手にしていた扇子を開くと御門は口元を隠し、くるりと芙蓉から背を向けて庭が臨める窓際へと視線を移した。御門の私邸は純和風造りの広々とした庭園がどの部屋からも見渡せる。もっとも、この時の御門は、視線はそちらに向けていても実際には何も見えていないようだった。
  御門は淡々と言った。
「 実は彼はもうこちらにいらしていて、今は客室でお待ち頂いているのですよ。私はどうしても外せない急用が出来てしまったので出掛けます。……頼めますか」
「 は…。わたくしで宜しければ」
「 お前でなければ」
「 は…?」
「 ……いえ。それでは頼みましたよ」
  御門はそう言うと、パチンと扇子を閉じてさっさと部屋を出て行ってしまった。芙蓉はそんな主の背中を見送った後、やはり腑に落ちず今度は思い切り首をかしげた。
  今日は久しぶりに仕事の予定もなくゆっくりできると言っていたはずであるのに、一体どうした事だろうか。たとえ急用が入ったとしても、御門があの龍麻を放って何処かへ出掛けてしまうなど珍しい…というよりも初めての事だ。いつでも冷静で、秋月兄妹以外には心を揺さぶられる事のなかった主が、あの龍麻と出会ってからは確実に変わったと思う。堅い口調は相変わらずとしても、不意に柔らかく微笑んだり冗談を嗜むようにもなった。村雨などは「気持ち悪くて仕方がない」などと、やはり聞き捨てならない事を言っては芙蓉を憤慨させるのであるが。
「 …いけない」
  芙蓉はそこまで考えた後、はっとして急いで客室で待っているであろう龍麻の元へと足を向けた。
  とにかくは主に頼まれた大切な接待である。誠心誠意事に臨まなければと思った。



「 芙蓉」
  龍麻は広々とした客室のソファに深く身体を預け座っていたが、芙蓉が現れると嬉しそうな顔をして寄りかかっていた背中を浮かした。そうして芙蓉が恭しく礼をして傍に寄ると、その笑顔はより一層嬉しそうに花開いた。
「 御門は仕事なんだって? さっきちょっとだけ会った」
「 はい、申し訳ございません。晴明様より、龍麻さまのお相手をするようにと仰せつかりました」
「 ふっ…お相手かぁ」
  芙蓉の畏まった言い方が可笑しかったのか、龍麻は目を細め鼻で笑った後、改めて助走をつけるような勢いで椅子からぴょんと立ち上がった。
「 うん。じゃあ、付き合えよ」
  そうして目の前の芙蓉に偉そうに言うと、「外、行こう?」と先を歩き始めた。
  芙蓉は大人しくその後を追った。



  何処か龍麻の見知った場所に行くのかと思ったが、龍麻は「ここから出たくはない」と言って、御門の私邸内にある池の辺の所で立ち止まった。
「 うわー。高そうな鯉がいっぱいいるなあ」
  身体を屈めて感心したように水の中を覗く龍麻を、芙蓉は背後でじっと見守った。主が気に入っているからというだけではない、芙蓉自身も龍麻の事は好きだったから、この時間は芙蓉にとっていつもの命とはまるで異なる種類のものだと思った。龍麻はいつでも楽しそうで、優しく、明るく笑んでいる。眩しい、というのが一番ふさわしい彼を形容する言葉で、芙蓉はいつでもこの力強く美しい龍麻の事を奇異と、そして憧憬の想いで見つめていた。
「 なあ芙蓉。この鯉釣ったら怒られるかな?」
  そうして、時々はこんな風におちゃらけて言う龍麻も。
  芙蓉は好きだった。
「 申し訳ございません。ここの鯉たちは皆、晴明様が幼い頃より慈しんできた者たちですので…そればかりは…」
「 ふふ、冗談だよ。そりゃそうだよな」
「 はい」
「 芙蓉」
  龍麻は律儀に自分に答える芙蓉に片手を振ると、もっと近くに来いと暗に示した。
  芙蓉が従順にその通りすると、龍麻は自分がまずその池の近くの大岩に座り、芙蓉にも隣に腰掛けるように言った。芙蓉はまた言う通りにした。
「 ホント、贅沢な家だよなあ。こんなちっさい東京に、どんだけ独りで土地取ってんだか」
「 龍麻さまは晴明様のお屋敷がお嫌いですか」
「 ん? んーん。好きだから来てるの。ごめんごめん、そう真に受けるなよ。ただの…八つ当たり」
「 八つ当たり…ですか」
「 そう」
  龍麻は大岩の上で膝を抱えるといじけたようになりながら視線を目の前の池にのみ注いだ。その横顔は目だけは笑っていたが、どことなく寂しそうだった。
  芙蓉は不意につきんとする胸の痛みに眉をひそめた。
「 あのな、芙蓉」
  龍麻が口を開いた。
「 ここはさ、安全なんだよな。俺の好きな場所のひとつ。御門はああいう奴だから、屋敷中におかしな結界やら封印術やらを施しているだろ。だから中に入るのは結構大変なんだけど、逆に一旦懐に入れてもらえると凄く安心できる所になるんだ」
「 安心ですか」
「 そう。幾らでも泣ける」
「 は……?」
「 ………」
  聞きとがめた芙蓉に龍麻はしんと黙りこんだ。まだ目は笑っていた。
  けれど芙蓉の胸はまた痛んだ。「それ」は一体何だろうと芙蓉は思った。
「 あのさ、御門はこういう時の弱気な俺にはいつも嫌そうな顔して怒るんだよな。『貴方はご自分の立場というものをまるで分かっていない。そのようなくだらぬ事で心を惑わされてどうします』とか何とか言ってさ。つまり、あいつは今日そんな俺の相手をしたくないから逃げたんだ」
「 そ…そのような事はありません」
  龍麻の言葉に一瞬は絶句したものの、芙蓉はすぐに否定した。
「 晴明様は龍麻さまがいらっしゃる事をいつも楽しみにしておいでです。今日とて、わたくしに龍麻さまのお相手をさせるのは不本意だった事と思います。無論わたくしも…わたくしなどでは龍麻さまを退屈させるのではないかと、とても申し訳なく思います」
「 何言ってんの…」
「 本当です。わたくしは…ただの式ですから」
「 そんな事言わないでよ」
  龍麻は自身を卑下するような言葉を放った芙蓉に顔をしかめると、すぐに激しく首を振った。それから組んでいた膝を抱え直すと更に小さく丸まりながらハアと小さくため息をついた。
「 芙蓉がそんな事言うなら、俺なんかただの人間だよ。つまんない、ただの高校生なんだよ」
「 何を仰います。龍麻さまは素晴らしいお方です」
「 素晴らしいお方は世界が大変だって皆が頑張っている時に、たかが色恋沙汰でこんなに落ち込んだり湿っぽくなったりしないよ」
「 は…?」
  龍麻の突然のいじけた口調に芙蓉は開いていた口をそのままに動きを止めた。
「 だから、色恋沙汰」
  いきなり固まった芙蓉に微かに肩を揺らして龍麻は笑った。
「 俺、フラれた。凄い好きな奴に」
「 ………」
「 ずっと好きだったんだ。苦しいくらいに好きで好きで、辛いからもう顔見たくないって思う事もあった。でも本当は友達としてでも話したり、あいつが俺に笑ってくれると凄く嬉しかった。幸せだったんだ」
「 ………」
「 芙蓉。分かる?」
「 ………申し訳ありません」
  謝りながら芙蓉の胸はまたキリリと痛んだ。
  分からない。「恋」とか「好き」とか、そういうものは。自分には分からないと思う。以前、龍麻の仲間たちである藤咲や高見沢たちと集まってその手の話になった時も、芙蓉はどことなく独り蚊屋の外というかで、半ばポカンとしてその話を聞いていた。そういう人間独特の感情は自分にはあるモノではないし、別段必要なものでもないと思う。相手を理解したくないというのとは違う。嫌いになるというのでもない。
  ただ、恋というものは分からない。
「 謝るなよ」
  しゅんとなった芙蓉に、今度は龍麻が申し訳ないような顔をした。
「 分からないなら分からないでいいよ。ただ俺は自分のこの気持ちを誰かに聞いてもらいたかったんだ。でも、誰にも言いたくなかったんだ。だからここに来たんだ」
「 ……?」
「 ああ。ごめん。めちゃくちゃな事言ってる」
  ぐしゃりと髪の毛を片手でかき混ぜて、龍麻は苦しそうに息を吐いた。芙蓉の顔はそれだけで曇った。
「 俺、明日からもうこの気持ちのことは忘れるようにする。努力する。だってあいつには俺のこんな気持ちは負担なだけだし、実際俺のその気持ちは自分にはキツイって言われた。はは…ホント酷い奴だよな。あんだけ俺の近くにいて、いざ俺が告白したら思いっきり引いてさ…。あんなに触れてたのに今じゃ指1本触れてこない。気持ち悪いんだろうな」
「 龍麻さま」
「 ごめん、大丈夫だから」
  芙蓉の方は見ずに龍麻は片手を少しだけ挙げて制するとまくし立てるように続けた。
「 俺は黄龍の器だか何だか知らないけど、そんなゴミブン、知ったこっちゃない。俺は俺だろ。それなのに…。ああ、違うか。もしかしたらそんな事じゃない、俺のこの容姿とか性格とか…或いは俺が男だって事がそもそもNGなのかな…。ああ、結局全部があいつにとってはアリエナイのか……」
「 龍麻さま、どうか…」
  次々と自身に対する否定の言葉を吐く龍麻に、芙蓉はどんどんとおかしくなる自分を感じていた。どうしたことか、「気分が悪い」と感じた。おかしい、式神である自分が体調不良になるなどありえないというのに、ましてや今は外敵もおらず、外から何の干渉も受けていないというのに…この不快感は一体何だというのか。
  そしてズキズキと痛む胸はより一層酷いものとなっていた。
  思わずぎゅっとそこを掴む。片手でぎゅっと押さえ込む。
  痛みが消えない。
「 俺はね、ただ…。触れて欲しいだけだったんだ」
  龍麻が言った。
「 どうしようもない時に、大丈夫だって言って傍にいてもらいたかったんだ。…ああ、十分高望みだ。嫌いな奴にそんな風に思われたら迷惑だよな。バカだよな、そんな事にも頭が回らないなんて」
「 龍麻さま、触れるというのは…」
「 ん。こういう事」
  芙蓉が思わず言いかけると、龍麻がさっと顔を上げて手を伸ばしてきた。傍の芙蓉の指先にまでそれが届くと、龍麻は力なく笑った。
「 好きだとね…。これだけでドキンってするんだよ」
「 どきん…?」
「 そうだよ。どきどきして、嬉しくて切なくて…もっとぎゅっとしたくなる」
  言いながら龍麻の手が芙蓉の手をぎゅっと握った。
  すると芙蓉の胸は―。
「 龍麻さま」
「 逆に嫌いだとね、こういうの、もうすぐにでも突き放したくなるんだ。……あいつみたいに」
「 龍麻さま」
「 ん……」
  何かに急かされるように自分の名を呼ぶ芙蓉に、龍麻が不思議そうになって視線をあわせてきた。
「 ――…ッ」
  それが交錯したと思った瞬間、芙蓉は龍麻から触れてきた手を激しく振り解くと。
「 あ…」
  その一瞬の事に思わず驚きの声を上げた龍麻には構わず、芙蓉は小さくなっていた龍麻の身体を無理やり自分の元へ引き寄せ、その肩を抱いた。
「 ふ、芙蓉…?」
「 龍麻さま…」
「 どう…した、の?」
「 わたくしは…人ではありません」
「 ……?」
  震える唇でやっとそれだけ言ったが、意味が通じなかったのだろう、龍麻は困惑したように芙蓉の胸元から顔を上げ訊ねるような視線を向けてきた。それでも芙蓉は内心でうろたえながらも尚も強く、今度は両腕で龍麻の事を抱きしめると声を上げた。
「 人では…。ですが、龍麻さまが悲しまれているとわたくしも……とても、悲しいのです」
「 芙蓉…?」
「 龍麻さまの痛みがわたくしの中に流れ込んでくるのです。わたくしは…そういった感情など、本来持ち合わせてはおりませんのに」
「 ………」
  大人しく自分に抱きしめられている龍麻の鼓動を感じながら、芙蓉は未だ引かない胸の痛みを意識しながら続けた。
「 どきん、と…致しました」
「 え……」
「 でも、すぐに離れたくなりました。驚きと、途惑いと。もしかすると、龍麻さまを突き放された方もそうなのかもしれません」
「 ………」
「 どきん、として。驚いて離れてしまったのかもしれません。こうして引き寄せたいと思った時には、もう龍麻さまは…こちらにいらしてしまったのかも」
「 そんなわけ…ないよ」
「 そうでしょうか」
「 そうだよ」
  芙蓉の言葉に龍麻は初めて怒ったような声を出した。それはとても弱々しいものだったのだが。
「 あいつは…芙蓉みたいに、こんな風に優しく俺を護ってはくれない。抱きしめてはくれないよ。俺にこんな風に触れてはくれない」
「 ………」
「 ……不思議だな」
  すっと龍麻の手が芙蓉の腕に触れてきた。きゅっとそこに力が込められ、龍麻は芙蓉の胸に顔を埋めた。
「 どうしてだ…。芙蓉、こんな優しいの…酷いな」
「 申し訳ありません」
「 違う…。凄く、嬉しい」
「 龍麻さま……」
「 もう暫く…。酷いのは俺の方だな」
「 ……いいえ」
  優しく静かに言って龍麻を抱く腕に力を込めると、やがて懐から小さな小さな嗚咽が漏れた。芙蓉はそれを努めて聞かないようにしながら、ただ自分の元で小さくなっている龍麻の身体を包み続けた。恋というものがもし自分にあるのなら、それは今この瞬間の痛みのことを言うのかもしれない。そう、思った。
  それは確かに苦くて哀しい、けれど何にも代え難い温かい気持ちを芙蓉の中に芽生えさせた。 



<完>




■後記…初の芙蓉主です。ホントはらぶらぶふわふわ甘々なものを書こうと思っていたのに何故かこんな事に。芙蓉は人を慰めるのがうまそうだと思ったらこういう展開にせずにはいられませんでした。と、同時に、人が持つ感情というものを自分は持ち得ないと思っている芙蓉が、それらを自分の中に見つけて途惑う…っていう流れは、芙蓉というキャラを書く上では大前提みたいなものかな、とも考え。いわばお約束みたいなお話です。ちなみに御門が消えたのは龍麻の愚痴を聞きたくないからではなく(笑)、今の龍麻を癒してやれるのは芙蓉しかいないと考えたからです。「人に聞かせたいけど聞かせたくない」と己の感情に苦しむ龍麻は、感情がないという事に苦しむ芙蓉となら素直に向き合えるだろうと御門は考えたわけです。…ちなみに、我らがひーちゃんを「フッた」らしい不届き者とは誰なのか。それは皆様お好きな方をチョイスして想像して頂けると嬉しいです。まあその攻めさんも実は芙蓉の言う通り、ただ単にびっくりして逃げちゃっただけで、事実はひーちゃんラブだと思いますけどね。