神の手3秒
「 ぎゃああああああ!!!」
深夜の桜ヶ丘病院に龍麻の叫び声が響き渡ったのは、草木も眠る丑三つ時。
産婦人科も兼ねているその一風変わった病院に龍麻が「緊急」入院したのにはちょっとしたワケがあるのだが、その入院自体を知っている者も実に少数に限られていた。
「 煩いよッ。今何時だと思ってんだいっ!?」
「 だ、だってだって…!」
バタンと勢いよく開いたドアからドカドカとやってきたこの病院の主―院長・岩山たか子―の怒りの形相に怯えながら、龍麻は上体を起こした姿勢でわなわなと目の前の壁を指差した。
「 あ、あんな物一体いつ貼ったんですか…。何の嫌がらせ…っ」
「 アアン?」
豊満な胸を揺らし腰に両手を当てた格好で憤慨していた岩山は、龍麻が指し示したものをちらと見やり眉をひそめた。
「 あれが何だってんだい」
「 だから…だからつまり、びびった…」
「 はっ倒されたいのかい。それとも、アタシに可愛がって欲しいって?」
「 い、嫌だ…!」
「 だったらくだらない事で叫ぶんじゃないよ、みっともない!」
薄っぺらい布団を鼻先にまで当てている涙目の龍麻は食ってしまいたい程に可愛い。
岩山は細い目を一層細めてその姿をたっぷりと鑑賞した後、龍麻の悲鳴の原因である「それ」を壁からぴりりと取り去った。
「 折角お前の眠れない夜の為にわざわざ飾っておいてやったってのにねぇ」
「 余計眠れなくなります」
「 何か言ったか」
「 いえ別に!」
ギロリと睨んでやると途端にびくっとして黙り込む。こういうところを見せられると、本当にこんな子どもが世界を救う救世主たりえるのかと、どうしても疑いたくなる。
そんな事を考えながら岩山は壁からはがした1枚の写真―自らの水着姿を写したものだ―をまじまじと眺め、ニヤリと笑った。
「 今年の夏は南の島でこのビキニをつけて…ヒッ、バカンスと洒落込もうと思ってんだよ」
「 誰と行くんです?」
「 龍麻、お前どうだい?」
「 結構です」
「 フン、即答かい」
「 だって…」
もごもごと口元で何かを呟く龍麻を多少恨めしい目で見やりながら、岩山は指に挟んでいた写真をピッと床に投げ捨てた。
「 ん…?」
それによってふと気づく。
ひらりはらりと舞いながら床へ落ちた写真の傍には、見慣れぬ黒い紙袋が置いてあった。はて何だろうと更に近づき目を凝らすと、岩山のその行為に気づいた龍麻がさっとそれをベッドの上に持ち上げた。
「 ……何だい」
「 な、何がです…」
「 何か見られたくないもんでも入ってんのかい」
「 別に…」
どことなく焦った様子の龍麻を岩山は訝しげに見つめた。
次いで抱えられるようにベッドへ上げられたその紙袋も。
「 お前、そんな物持ってきてたかい?」
3日前からこの病室を占領している患者―緋勇龍麻は荷物らしい荷物を何も持ってきていないはずであった。元々着の身着のままでここへ駆け込んできたようだからそれも承知の上だったが、着替えなど必要な物は高見沢が用意していたと思っていたが。
この紙袋は知らない。
「 えっと…。これは、高見沢さんが……」
「 舞子が? じゃあ、いつもの着替えかい?」
「 い、いえ……」
「 ………?」
何事か言いにくそうにしている龍麻を岩山は「ああ」と得心して無意識に頷いた。純粋な高校生の秘密を無理に暴こうとする程無粋ではないが、これはもしかしなくとも今回の「緊急入院」に関係している奴の仕業だろうとピンときたのだ。
「 壬生かい」
「 ……っ」
だからそのままその名前を言ってやったのだが、相手はものの見事に素早い反応を見せた。
「壬生」というたった二文字にびくんと肩を揺らす龍麻は本当に分かりやすい子どもだと思う。岩山は心の中でほくそ笑みながら、しかし顔は平静を装いわざとらしい腕組などもして見せて、品定めするような目線を向けてやった。
「 奴と会ったのかい? ここ数日はずっとここに篭っていると思ってたが、一体いつの間に?」
「 お、俺は…会ってません…。ただ、高見沢さんが俺んちに着替えを取りに行ってくれた時、壬生がこれって…」
「 お前のアパートの前にいたってのかい」
「 はい……」
「 なるほど」
「 ……っ」
堪えきれなくなってついニヤニヤしてしまった岩山に龍麻がむっとした顔を向けた。からかわれていると感じたのだろう。ベッド上にあげた紙袋をぎゅっと抱きしめていじけたように唇を尖らせる。
勿論、岩山はそんな龍麻にもまるで動じる事がないのだが。
「 お前は奴に何も言わずここへ駆け込んできたわけだからな。あいつも心配でお前の部屋の前から離れられなかったというところだろう」
「 ………」
「 それでその中身は何なんだい?」
「 あ…別に。俺の着替えです。高見沢さんだと何が何処にあるか分からないだろうからって…。あいつが用意してくれたって」
「 つくずく出来た男だねえ」
ヒッヒと笑う岩山に龍麻はもう視線を合わせようとしなかった。ただ、それは岩山に気分を害しているというよりは、照れと恥ずかしさで熱くなってしまっている顔を見られたくないからという感じだった。
そんな龍麻を半ば呆れたように見つめつつ岩山は言った。
「 龍麻。お前がここに駆け込んで来てからもう3日だ。その間、食欲はない、外にも出たくない、夜は眠れない。折角出してやったアタシの精神安定剤の写真には悲鳴をあげる。症状はどんどん悪くなるばかりだねえ」
「 いや…あの水着写真は健康でもびっくりしますって…」
「 煩いね」
ぴしゃりと黙らせ、それから岩山はのっしのっしと龍麻のいるベッドにまで歩み寄るとどすんとその端に腰を下ろした。それによって一人用のベッドはギシギシと苦しそうな呻き声をもらしたが、当の岩山は涼しい顔をしてすぐ近くになった龍麻の顎を指先で捉えた。
「 お前は本当に自分が病気だと思ってんのかい?」
「 俺…」
「 お前はウチに来て開口一番こう言った。『俺はひどい病気らしいです、先生早く治して下さい』ってさ。果たしてその病気は治るものなのかい? また、治せるものだとしてだよ、本当に治したいと思っているのかい?」
「 先生……」
「 たとえば……」
「 ぎゃっ! せせせ先生、何…っ!?」
顔を近づけた岩山が突然耳元にベロンと舌を這わせたものだから、それをされた龍麻は途端全身を総毛立たせて素っ頓狂な声をあげた。
「 ヒッヒ…。こんなもんで驚かれても困るよねえ」
しかし岩山は相変わらずびくともしない。龍麻の上にある布団の中へ空いている手を突っ込ませると、ぞわぞわとそれはいやらしい手つきで龍麻の身体をまさぐり始めた。
「 わあああっ!? なな、何すんですか先生ーっ! わあっ!」
「 色気のない声出すんじゃないよ。折角『女』のアタシが気持ちよい事してやるってのにさあ」
「 いいっ、いいです! 全然気持ちよくないですっ!!」
「 そうかい? 少なくとも、同じ『男』の壬生にされるよりは良いだろう?」
「 ………っ!!」
岩山に指摘され、龍麻は途端ぎくりと顔を強張らせて抵抗していた動きを止めた。
「 ……ふ」
それによって岩山もセクハラ三昧の神の手を止めると、じいっと間近にある綺麗な顔を観察した。
「 ……み、壬生のは」
すると龍麻はセクハラが止んだ事で少しは落ち着いたのか、目元まで真っ赤にさせながらもたどたどしく口を開いた。
「 壬生にされたのは、こんな………嫌じゃなかった」
「 だけどお前は《その事》を病気だと思ったんだろう。奴に触られ迫られても嫌じゃなかった、そう思ってしまった病気を治したいんだろう? 異常だから」
「 ………い、異常じゃないのかな」
「 どう思うんだい」
縋るように顔を上げてきた龍麻に岩山は依然として表情の見えない顔で問い返した。龍麻は既に「答え」を持っている。だから下手に誘導せずとも大丈夫だというのは分かりきっていた。
だから岩山はもう何も言わなかった。
「 俺…」
すると思った通り、龍麻はその正解をそれ程の時間もかけずに言葉にしてきた。思い切ったような、決意を秘めたような顔ではあったが。
「 い、異常じゃないのかも」
ごくりと唾を飲み込んで一拍空けてから龍麻は続けた。
「 少なくとも…。もし壬生にされるより先生にされた方が気持ちイイって思ったとしたら…。その方が異常だと思うし…」
「 ハッ……言うねえ」
「 す、すみません…」
たらりと汗を流しながら龍麻はすぐに謝ったが、既に頭の中は完全に唯一人の事でいっぱいになっているらしい。考えあぐねるような顔をしつつも龍麻はゆっくりと言葉を切った。
「 先生…。俺、変だと思わなくて良いのかな…。壬生に抱…抱きしめられても、嫌じゃないって…そう思ったこと…」
「 大体ねえ」
岩山はくだらないという風にフンと鼻を鳴らし、バカにするように口端を上げた。
「 今更自覚されてもこっちこそ調子が狂うよ。お前がこんな事で悩むなんて予想もしてなかったからね。あのぶきっちょ男とはとっくに両想いだと思ってたし、そんなのは周りの連中だってそうだ。当の壬生にしたってそうだろうよ」
「 そ、そうなんですか…?」
驚きで目を見開く龍麻に岩山はいよいよ呆れたように肩を竦めた。
「 壬生とて、そろそろいいだろうと思ってお前に触れたものを、お前が『自分は病気だ』なんてほざいて入院じゃ立ち直れんよ。しかも嫌だとも思ってないっつーのに…」
「 だ、だからそれは…今、岩山先生に触られて気づいたんですって…」
「 だったらさっさと襲ってやれば良かったねえ」
「 ふざけないで下さいっ」
「 アタシは大真面目だよ」
赤面して怒る龍麻を迷惑そうに見やって岩山は苦笑した。
「 まあ本当は入院初日に教えてやっても良かったんだがね。あんまりくだらないから自分で気づくまで放置してようと思った」
「 せ、先生…」
「 だが、アタシの折角の親切…あのセクシー水着ショットにあんな悲鳴をあげられたんじゃあ、こっちもいい加減うざったいんでね」
「 す、すみません…」
「 本当に反省してんのかい?」
「 それは…ハハ…」
ふにゃりと情けない顔をして笑う龍麻は心底気弱で頼りない感じがした。岩山は再度大きくため息をついた後、のっそりと立ち上がって病室のドアを指差した。
「 こんな時間だが起きてるだろ。掛けてやんな。この先の廊下の突き当たりにあるから」
「 え?」
「 電話だよ電話」
「 電話…?」
きょとんとしている龍麻に岩山は今度は自分がへにゃりと眉尻を下げて笑った。
「 壬生の奴、今頃自殺でもする勢いで落ち込んでるだろうからさ。さっさと行って、『病気は治った、明日退院するから朝イチで迎えに来てくれ』…そう、言うんだよ。治療代は…ヒッ、まあイイもん触らせてもらったからね。金は持って来なくて良いと付け加えな」
「 ……先生」
ありがとう…と、聞こえるか聞こえないかくらいの声で龍麻は言ったが、岩山はそれには聞こえないフリをして「さあ寝るかね」とわざとらしい大欠伸をしてみせた。
「 お前のせいでアタシまで寝不足さ」
軽い厭味を放ちつつ、岩山は(ただ…)と心内だけで呟いた。
本音としては、もし今夜の「絶叫」がなければ、もう少しだけこの「あまりにくだらない事」で苦悶する龍麻を見ていたかったと思う。今やすっかり諦めもついたが、やっぱり龍麻は可愛いから。だから名残惜しいし、もうちょっと触れば良かったという後悔もちらりと浮かんできたりする。
けれど全ては、「あんな声をあげられては仕方がない」という結論で落ち着く。
( まあいい…。また新しいエモノでも探すさね)
あくまでポジティブ、そして不穏な野望を抱きつつ、岩山は「それにしても何とまあ治療の簡単な患者だったことだ」と、未だ自分の背後で紙袋を抱く龍麻へ小さな笑みを送った。
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