閉店午後7時



「 ねえ麗司。今日はあんたに大事な話があるのよ」
「 どうしたの亜里沙…? そんな怖い顔をして…」
  学校帰り、校門の所で藤咲に声を掛けられたというそれだけで、嵯峨野麗司の1日はとても幸せなものと言えた。昔から気が弱くいつもオドオドしているせいで常に周囲からいじめの対象として目をつけられていた嵯峨野だが、藤咲亜里沙という芯に強い女性と出会い、彼女に庇ってもらえるようになってからというもの、心無い嫌がらせの数も格段に減った。藤咲にはどんなに感謝してもし足りない。そう、だから嵯峨野は藤咲の事が大好きだった。
  それは嵯峨野が「ある人物」に対して抱いている恋心とは違う種類の「好き」なのだけれど。
「 あ、そうだ亜里沙…。この間ペットショップ『kirica』でね、犬用の新しいおやつが発売されてたんだけど、それが凄く可愛かったんだ。エルの為に買っておいたから、今度家に持って行くね」
「 それはありがとう…って。今日はそういう話じゃなくて」
  2人で入った駅前の喫茶店で藤咲は深くため息をついた。窓際の席に2人は向かい合わせで座っていたが、先刻からそこに嵯峨野を誘った藤咲はどうも落ち着きがない。ウエイトレスが運んできたコーヒーカップをガチャガチャとスプーンで忙しなくかき混ぜるだけでそれに口をつける事もしないし。
  嵯峨野はぼんやりとした視線を向け、不思議そうに訊ねた。
「 一体どうしたんだい? こんな亜里沙は珍しいね。新しい彼氏の事?」
「 ……そんな話じゃない」
「 じゃ、何? ボクのこと? ボク何かした? 幸い退院してから体調も良いしさ、もうあんな事をする気もないし…。心配しなくてもいいよ?」
「 本当?」
  嵯峨野のその台詞に藤咲はぴくりと肩眉を動かし、やや迫るような格好で鋭い視線を向けてきた。
  嵯峨野はそれに弱々しく笑いながら俯いた。
「 うん、本当だよ…。もう亜里沙に迷惑掛けないって決めたから…。美里さんたちにも、もうあんな真似はしないよ…」
「 ………」
  嵯峨野のその言葉を藤咲は黙ったままじっと聞き入っているようだった。
  嵯峨野が弱い心に支配され、藤咲の知り合いである美里たちにした「あんな真似」。自分の妄想の世界に彼女たちを引きずり込み、自分の思うがままにしようと企んだその夢は、確かに幼く愚かなものだった。幸い自分を止めてくれた美里たちの強き心と、何より藤咲の温かい気持ちのお陰で、嵯峨野は再び恙無い学生生活に戻る事ができたのだが。
  季節は冬。もうすぐ高校も卒業だ。
「 麗司」
  窓から見える人波に何となく視線をやっていた嵯峨野を藤咲が呼んだ。
  そこにはやはり何か迷っているような、物憂げな瞳を燻らせた顔があった。
「 どうしたの亜里沙…」
  さすがに心配で嵯峨野が表情を曇らせると、藤咲はようやく決心がいったというようにスッと白い封筒をテーブルの上に置いた。
  どきん、と嵯峨野の胸が鳴り響いた。
「 これ。アンタ、これが何か分かるわね?」
「 ………」
「 麗司」
「 わっ…! う、うん…。分かるよ…」
「 これがどうしてアタシの手にあるのかは?」
「 ……や、やっぱり駄目だって?」
「 いいえ、駄目って事はないわ。本人はオッケーだそうよ」
「 !! ほ、ホントに!?」
  思わず椅子から立ち上がって声を大にしてしまった嵯峨野は、店内にいた殆どの人物にぎょっとされ何事かという視線を向けられた。
  が、嵯峨野は構わなかった。
「 ほ、本当に…本当に…!」
  自然顔が赤くなり、テーブルについた手ががくがくと震えた。一生に一度だというくらいの勇気で挑んだ試みだったが、ハッキリ言って駄目で元々だった。
  それが、それが「本人はOK」だなんて。
「 ……座りなさいよ、みっともない」
  藤咲が未だぶるぶる震えている嵯峨野に心底げんなりしたようになって息を吐いた。嵯峨野ははっとして、すかさず「ごめんっ」と謝り腰を下ろしたが、それでも心臓は未だどきどきと早鐘を打ったままだった。
  藤咲が言った。
「 麗司。よく聞きなさい。確かに本人はオッケーだと言ったわ。別にいいって。面白い事言う奴だなあって。全く無警戒にね。でも、周りの人間はそうはいかないわよ」
「 ……? どういう意味?」
「 分からないの? まったくアンタってコは…!」
  藤咲はここで多少イラついたようにギンと目つきを鋭くして、凄みを帯びた声を発した。途端嵯峨野はその迫力に押されて縮み上がったが、それでもこの提案に何か問題が起きたのだという事は分かったから、それが気が気ではなかった。
  どうしたのだろう。何がいけないのだろう。だって本人はいいって言ってるじゃないか。
「 周りって…蓬莱寺さん、とかが…?」
「 京一だけじゃないわよ。小蒔も醍醐も、他の仲間たちもね。美里なんかそりゃあもう…」
「 み、美里さんも怒ってるの…?」
「 アンタねえ…。アタシが止めてなかったら、美里なんか一番の危険分子よ。こうやって呑気にオレンジジュースなんて飲んでられるのは全部アタシのお陰よ、アタシの! ちょっとは感謝しなさいッ!」
「 か、感謝してるよ亜里沙にはいつでも…! 亜里沙のお陰でボクは…彼と出会えたんだし」
  嵯峨野が出した「彼」という言葉に、亜里沙はぴくりと反応を返した。心なしかスプーンを手にした指先も震えている。
「 龍麻はね…。皆の龍麻なの」
  努めて抑えたような声を藤咲は発した。
「 あんなイイ男はいないわけよ。外見の事言ってるんじゃないわよ? そりゃあまあ…顔も身体もアタシの好みストライクだけどね。でも龍麻はそれだけじゃない、中身もね。もうホント最高なの。分かる? 皆龍麻の事が大好きなわけ!」
「 わ、分かるよ分かる…。龍麻くんって凄く綺麗だよね…」
「 ……そういう言い方はやめなさい」
「 え、だって…」
「 せめてカッコいいって言うのよ…」
「 わ、分かった…」
  藤咲に逆らえない嵯峨野はしゅんとなって俯いた。
  初めて会った時から龍麻の事は「カッコいい」というよりは「美しい」という表現がぴったりだと思っていたのだが…。藤咲が禁止するなら仕方がない。
  黙りこくる嵯峨野に藤咲は再度ため息をついた。そうしてもう一度、テーブルの上に置いた封書を手にし、その中から一枚の白い便箋を取り出した。
「 拝啓、緋勇龍麻様」
「 あ、亜里沙…っ」
  声に出してその文面を読み出した藤咲に嵯峨野はぎくっとしてか細い声をあげた。字だけを追うのと声にされるのとではその恥ずかしさが数段違う。
  そう、だってそれは…。
「 何よ。やっぱり自分で書いたラブレターを他人に読まれるのは恥ずかしい?」
「 ………」
  藤咲の突き刺さるような視線が痛い。嵯峨野はぐっと唇を噛んだ。
  そう、その目の前に置かれた手紙は、嵯峨野が龍麻へ宛てた手紙だった。
「 ラブレターとは違うよ…」
  小さい声で反撃すると藤咲はきっと目を吊り上げて声を荒げた。
「 これのどこがラブレターじゃないっての? 『龍麻君、初めて君を見た時から、ボクは今までの自分の悩みがとても小さくてくだらないものなんだと感じる事ができました。龍麻君はボクの救世主で、ボクの憧れです』。……熱い愛の告白じゃない」
「 ファンレターだよ…」
「 この際そんな事どっちでもいいのッ!」
  バンッとテーブルを叩き怒鳴る藤咲に、再び周囲の客や店員が視線を向けてきた。嵯峨野はすっかり小さくなってそんな友人を上目遣いに見やった。蓬莱寺だけではない、藤咲も怒っているのだと分かった。
「 ……これ、龍麻ン家のポストに入ってたらしいわね。切手なしで」
「 うん…」
「 家、どうやって調べたの?」
「 後つけて…」
「 龍麻の?」
  こくんと頷く嵯峨野に藤咲は心底呆れたような目を向けた。
「 運が悪かったわね。これ、最初に見つけたの京一なのよ。だからアタシたち皆にもこの話が広まったわけだけど」
「 そうなんだ…。蓬莱寺君ってよく龍麻君の家に行くよね…。う、羨ましいな…」
「 そんな事まで知ってるの…」
「 う、うん。家に来るだけじゃない。外でもいつも一緒だよね。でもね、面白い事に立ち位置が決まってるんだよね。いつも彼は龍麻君の右隣を歩くんだよ。あとね…」
「 麗司」
「 何?」
「 今はそんなアンタのストーカー報告を聞いてる場合じゃないの」
「 ス、ストーカーだなんて…」
  嵯峨野の言葉を藤咲は軽く消し去ってから続けた。
「 言ったでしょ。アンタが出したこの手紙のお陰で皆大騒ぎよ。龍麻がいいって言ってるし、アタシが抑えているから事なきを得ているけどね。とにかく、皆アンタの事を怒ってるわけ! もう二度と龍麻の家には近づくな、龍麻がいる半径一キロメートル内には入らせるなって皆言ってるわ!」
「 そ、そんな…。ボクはただ遠くから龍麻君を見てただけだよ…!」
「 見てるだけじゃ満足できなくなったから、こんなバカ気た手紙送ったんでしょ!」
「 そ、そうだけど…」
「 ………」
  もごもごと口元だけで文句を言う友人・嵯峨野に、藤咲は再度ふうと大きくため息をついた後、とんとんと封書を指で叩き言い切った。
「 とにかく。龍麻の髪の毛も爪も諦めなさい」
「 えっ!」
「 えっじゃないッ! まったく何考えてるのよっ。『大好きな龍麻君の身体の一部が欲しい』ですってえ!? 『髪の毛でも爪の垢でも何でもいいから下さい』ですってえ!? よくもまあそんなマニアックな事を…!」
「 ボク、元々マニアだし…」
「 そんな事は聞いてない!」
「 ひっ」
  先刻よりも強く、今度はダンッとテーブルを叩く藤咲に嵯峨野は怯えながら情けなく肩をすぼめた。藤咲の本気の怒りが怖い。しかし腑に落ちない。嵯峨野の頭の中は混乱していた。別に己の身分をわきまえずに好きだとか愛してるとか、デートして下さいとか、あわよくば付き合って下さいとかそういう大それた願いを言ったわけでもないのに。それでも、藤咲がこんなに叱ってくるくらいのいけないお願いだったのだろうか。分からない。
  するとそんな嵯峨野の心を読んだように藤咲が言った。
「 あのねえ、普通言う!? 根暗にも程があるってのよ! 勇気を出して愛の告白ってなら、アタシだってこんなに騒がなかったわよ? むしろ京一たちからだって堂々と庇ってやったわ。それがわざわざ龍麻に手紙を出しに行ったって言うから一体どんな内容かと思いきや…!」
  どうやら藤咲にしてみれば嵯峨野の考えた「大それた願い」の方がまだマシで許せる事のようだ。しかし哀れな嵯峨野はその事に全く気づいていなかった。
  藤咲が鼻息荒く言った。
「 とにかく麗司、いいわね。向こう1週間は家と学校の往復以外は外出禁止よ。龍麻の家に行くのも。絶対駄目だからね!」
「 そ、そんな…!」
「 殺されたいの?」
「 嫌です…」
「 じゃあ我慢しなさい」
  ぴしゃりと言ってまた嘆息する藤咲に、嵯峨野は絶望的な声で訊ねた。
「 それじゃ…電話は…?」
「 電話!? アンタ、龍麻の家の電話番号なんて知ってるの…?」
「 携帯も…」
  ぼそぼそ言う嵯峨野に藤咲は顔を引きつらせながら訊いた。
「 ……それで掛けた事は?」
「 あるよ…。恥ずかしくて話しかけられないからすぐに切るけどね…」
「 最悪ね…。電話も駄目よ。二度としないで」
「 じゃあメールは?」
「 駄目」
「 手紙は?」
「 もう駄目」
「 電報は?」
「 駄目ったら駄目!!」
「 そ、それじゃ、小型の高速探査機を飛ばして家の中を盗聴するのは…?」
「 ………麗司」
「 はっ!」
  思わず零してしまったその言葉に嵯峨野ははっとして口を押さえた。
「 ………」
  恐る恐る顔をあげると、そこには般若のような顔をしてこちらを睨みつけている友人の姿があった。
「 あ、亜里沙…?」
「 ……龍麻があんまり叱ってくれるなと言うから、アタシも大目に見るつもりだったけどね……」
「 えっ、龍麻君が!?」
「 そこで目を輝かせるんじゃないッ」
「 わっ!」
  藤咲の怒鳴り声とほぼ同時だった。
  どかんっという大きな音と共に大きくテーブルが揺れ、カップがガチャンと一瞬宙に浮いた。そのびりりと伝わる怒りの空気に嵯峨野が唖然として息を呑むと、藤咲はその美しい姿に似つかわしくもなく、両の拳をばきばきと鳴らしながら据わった眼で言った。
「 良かったわねえ、京一たち全員によるお仕置きよりアタシ1人の方がまだマシでしょう…?」
「 ………っ」
「 アンタには龍麻の爪じゃなくて、アタシのこの鋭い爪を味あわせてあげるわっ!」
「 ひーっ! 許して亜里沙!」
「 その腐った根性叩き直してやるッ!」
「 ぎゃー! 助けて龍麻君!」
  店中に轟いた悲鳴と怒号にその場にいた人間たちはただもう絶句して動く事ができなかった。傍目で見れば美しいが迫力のある女性が気弱で今にも倒れそうなもやしっ子を脅しつけてゆすりたかりしている図にしか見えない。少なくとも、微笑ましい姉弟喧嘩には見えなかった事だろう。
  そしてその一方的な争いを止める事が出来る勇気ある人間は、不幸な事にその場に1人としていなかった。


  その日、いつもは閉店時刻22時の店が19時前には看板を下げていたという経緯は、後にその店の常連たちが噂し囁きあう事となる。



<完>




■後記…これのどこが嵯峨野主…?いや、嵯峨野と龍麻の距離は現時点ではまだこれくらいだろうって事です。でも、龍麻は別に爪も髪もあげて良かったみたい。太っ腹ですね。それと嵯峨野と藤咲の関係は割とゲームに忠実にしたつもりなんですが…どうでしょう?藤咲亜里沙はやっぱりお姉さんぽいですよね。