ヒーローの条件
紅井が自らの卒業後の進路を「プロ野球選手になる。入る球団ももう決まった」と言った事は、龍麻には少なからず衝撃だった。
「 何で?」
だからその驚きのまま訊き返したのだが、当の相手はそんな龍麻にきょとんと目を丸くした。
「 何でって? 何でってなぁ、何だよ?」
「 だって意外だからさ」
「 ああん?」
部活動に勤しむ後輩の面倒や練馬の平和を守る為のパトロールなどで忙しい紅井とは滅多に会う事はない。柳生を倒し、卒業間近でそれぞれがそれぞれのやるべき事をしている今、元々同じ高校でもない龍麻と紅井が顔を会わせる機会などある方がおかしかった。
それでもその日は久しぶりに仲間内で卒業試験前の打ち上げ会だか何だかいう訳の分からない宴会が如月邸で行われる事になっており、龍麻はそこへ向かう道すがらで紅井と偶然鉢合わせしたのだ。その時はいつもの連れである京一や美里も先に買出しなどに行っていたせいで龍麻は一人だった。同様に紅井も黒崎や本郷とは別行動だったらしい。
だから2人が何気なく肩を並べて歩き、卒業後の将来の夢を語るなどとは、本当にただの成り行き上というか弾みだったわけだが。
「 何で意外なんだよ? 俺っちが野球やってんの、師匠は知ってるだろ」
龍麻の反応に紅井は不思議そうな顔をして首をかしげた。
「 先月だって電話で話したじゃねーかよ。テスト受けに行ったって」
「 まあ。聞いたけど」
「 じゃ、何が今更意外なんだ? 俺っちが野球続けたいって思うのは意外かぁ? 普通だろ」
「 ……まあね」
「 訳分かんねえな」
紅井はむむうと首を捻ってから軽くぽりぽりと頭を掻いて見せた。ひょうきんな人柄の出るその仕草に龍麻は気持ちが緩むのを感じたが、柄にもなくはっきりと自分の方向性を見出している紅井の今の姿は面白くないと思った。
龍麻は前を向いて歩き続けながら素っ気無く続けた。
「 だってお前の事だから、テスト受けに行ったって言ってもそんなのその場の勢いっていうかノリだけでさ。俺はてっきりお前の将来って言ったらホンモノのヒーローになるとか何とか。そういう事言うと思ってたからさ」
「 あ、あのなあ。師匠。その言い方だと、まるで俺っちがホンモノのヒーローじゃねえみたいだろ! 俺っちは正真正銘のヒーローだっての!」
「 あ、それ。そのテンションだよ、俺が望んでるのは」
「 んん?」
「 だからー。お前はいつでもウルトラマンとか仮面ライダーになりきってるっていうか、そういう系があってるっていうの。何だよプロ野球選手って」
「 何だよってのは、何だよ?」
龍麻の言い様に納得のいかないものを感じているのだろう、紅井が唇を突き出して不平そうな顔をする。龍麻はそんな紅井の顔を見ていなかったが。
如月の家では皆どんな話をするのだろう。やはり卒業後の進路の話だろうか。そんな事をぼんやりと思った。
「 ……だってお前、ヒーロー業が忙しくて甲子園にも行けなかったから今イチ目立たなくてドラフトにも漏れたって言ってたじゃん。なのにさ、急にテストとか言って既に入団が決まってるって、何それ?
何なのそのカッコ良過ぎる進路。そんなのアリかよ」
「 どうも師匠の言ってる事は分っかんねえな」
つまりは、師匠は俺っちがプロになる事に反対なんだな?と、紅井は今更龍麻のいちゃもんを理解したようになって、それからつっと足を止めた。腕組をしたまま、何事か真剣に考え込むような顔をする。
龍麻はそんな紅井をちらと振り返るようにしてから自らも立ち止まり、いじけたように声をくぐもらせた。
「 別に気に食わないって訳じゃないけど。そんな風に大人な感じのお前が意外だったって事が言いたかっただけ」
「 俺っちはやりたい事をやりたいままに挑戦しただけだぜ?」
「 ああそうだよな! だからそれは立派だよ! だからそれでいいよ!」
「 あんまいいって感じじゃねえじゃん」
「 ……気にするなよ。ただの八つ当たりだから」
「 師匠〜」
「 もういいよ。早く行こうぜ。あんま遅くなると、みんな文句言うだろうし」
「 師匠は卒業したらどうするんだ?」
「 ………」
さすがのコイツもとうとう訊いたか。
そう思いながら龍麻が黙り込んでいると、紅井は尚も立ち止まったまま、ふうと大きく息を吐いて真っ青に晴れ渡った空を見上げた。清々としたその顔がやっぱり忌々しいと思った。知り合った時から思っていたが、紅井はいつでも底抜けに明るくて元気で真っ直ぐだ。その情熱が龍麻には暑苦しくてうざったくて、そして妬ましかった。救いは紅井が何も考えていない、真性の「バカ」に見えていた事だけだったのに。
それなのに、何がプロ野球選手だよ。ふざけんな。
「 師匠」
「 早く行こう」
「 てか、俺の質問の答えは?」
「 あ?」
「 だから。卒業後の夢」
「 知らない」
「 知らない?」
「 そうだよ」
自棄になったように答えると龍麻は自身でも堪らなくなり、それを誤魔化すように歩く足を早めた。
紅井ですらしっかりと考えている将来を自分は何も考えていない。考えられていない。それが龍麻には情けなく恥ずかしく、そして辛かった。これから如月の家へ行けば更にまたそこにいる仲間たちから彼らの新たな門出を聞かされる事になる。それが嫌だと龍麻は思った。
何も持っていない自分が悔しかった。
「 …――しょう」
「 ………」
「 師匠っ!」
「 うわあ!」
その時、ぼんやりとする龍麻の背中にずしりと体重がかかった。龍麻が驚いて声を上げ振り返ると、背後を歩いていた紅井がダイブするように自分に押しかかっているのが見えた。龍麻はそれを認めた瞬間、自分の首に縋りついた紅井を振り落とそうと激しく身体を揺らしたが、当の紅井は龍麻にしっかと張り付いてびくともしなかった。
龍麻はそれで余計に慌てた。
「 おまっ…重い! 何すんだよ離せっ!」
「 離してやってもいいけどさ! それは俺っちの質問にちゃんと答えたら!」
「 質…って、しつこいなっ! だからそんなの…っ」
「 知らないなんて、他人事みたいに言うなよ」
「 え?」
紅井の台詞に龍麻は暴れていた身体をぴたりと止めた。じっとしていると背中にかかる紅井の体重がじわりと染み渡って余計に重く感じてしまうのだが、それでも龍麻は動けなかった。
すると紅井はそんな龍麻を背後から覗き込むようにして言った。
「 師匠が悲しいのは嫌だぞ」
「 ………」
「 何かよー。俺のヒーローセンサーがびびっと感じ取ったんだよな。師匠、今めちゃくちゃ泣きそうだろ?
すんげえ抱きしめてやりたい気分」
「 ……あほか。大体今お前、俺に抱きついてんじゃないかよ」
「 ああ。そうだな」
悪びれもせず飄々と龍麻のその抗議を受け止めると、紅井は飛びついていた身体を地面に落として、今度はしっかと龍麻の身体を両腕で包み込んできた。
「 ………」
あれ、こいつはこんなにがっしりしていたのかと龍麻が思ったのはその時で。
「 師匠」
そう思ったと同時に紅井は言った。
「 隼人とかにもよく言われるんだけどよ。俺っち、あんま頭良くねえから」
言いながら、紅井の額がこつんと頭に乗ってくるのを龍麻は感じた。甘えてくるような、それでいて頼れるような。そんな空気が伝わるその所作は、ちっとも嫌なものではないと龍麻は思った。自分よりも一歩も二歩も先を行こうとしているコイツを、たった今憎らしいと感じてしまっていたくせに。
そんな風に考えている間にも紅井は続けた。
「 けど幾ら頭悪ィ俺でも、今現在師匠が暗い気分になってんのは分かるぜ。だから何かよ、そういうのはすげえ許せねえ気分になんだよな。師匠を苦しめてる悪の大ボスに戦いを挑んでやりてえよ」
「 何言ってんだ…」
紅井の台詞に龍麻は冷めた笑みを浮かべた。今現在俺の心を暗くしてんのはここにいるお前だろうが…という思いが咄嗟に脳裏を過ぎったが、結局はそれも自分の卑屈さ情けなさにある事は分かっていたので、龍麻は黙って唇を閉じた。
「 師匠は将来の事で悩んでんのか?」
するとその直後、紅井がズバリとそんな事を訊いてきた。
「 は?」
内心でぎくりとしていると、紅井は龍麻を抱きしめていた腕の力を緩めてすっと身体を離した。背中が急にすうすうとし始めたと思った。
「 師匠、卒業後何するか決めてねえの?」
「 だったらどうなんだよ」
別段紅井は悪くない。それは龍麻にも重々分かっていた。
けれど龍麻は紅井のそのたった一言にむかついてしまった。教師にお説教を食らっているような、そんなザワザワとした気持ちに苛まれた。だから感情を隠す事もせず思い切りぶすくれた表情を作った。
そして、もしここで「駄目だぞ、自分の将来は真剣に考えないと」なんて言い出しやがったら、その場で即行殴ってやると龍麻は拳を作りながら思った。
「 そりゃやべえな」
「 ……っ」
すると紅井は一言そう言った。
龍麻がぴくりと怒筋を浮かべて瞬時に振り返ると、すぐ間近の紅井が妙なしかめっ面をしているのが目に入った。龍麻はそんな紅井の態度に意表をつかれて出しかけた拳を途中で止めてしまった。
「 師匠」
「 な…んだよ?」
いやに真剣な顔をしている紅井。いつもならただ陽気に豪快に。説教を食らわせる時でさえ堂々と「明るく」諭す紅井が、どことなく切羽詰ったようにすら見える。龍麻は自分も眉をひそめてそんな相手をじっと見詰め返した。
そんな龍麻に対し紅井はゆっくりと口を開いた。
「 師匠。その事絶対皆に言うなよ」
「 は…? 何を?」
「 何をって。進路決まってないって事」
「 何で」
勿論紅井に言われるまでもなく、そんな恥ずかしい事を言うつもりは龍麻にはなかった。皆が皆それぞれの道をしっかりと定めている時に自分だけまだ何も決めていないだなんて。自分だけが動けずにいるだなんて。そんな事言えない。
「 お前に言われるまでもなく言わないよ。そんなみっともない事」
「 みっともない?」
「 そうだよ」
いじけたように言う龍麻に紅井は訳が分からないという風に首をかしげたが、すぐに真面目な顔になると「何言ってんだ」と首を振った。
「 よく分かんねーけど…。俺っちが言いたいのは、そういう事じゃねえ!」
「 じゃどういう事なんだよ! 分かってるよ、将来をちゃんと考えてないなんて良くないって言いたいんだろ! しょうがないだろ、分かんないんだから! 俺、そんなの今まで考えた事もなかったし! だっていつもいつも…!」
自分には戦いしかなかったから。
「 ……っ」
紅井のように打ち込める何かがあるわけではない。そんなものを探す余裕もなくここまで来てしまった。だから。
「 あのな、師匠」
しかし悔しそうに顔を歪める龍麻に、紅井の方は半ばイライラしたように自分も眉をひそめて責めるような口調を発した。
「 だからんな事言ってねーっての! 俺っちが言いたいのは、将来が決まってない事を隼人や桃香や…とにかくあいつら全員に言うなって事。それだけだよ」
「 だからそれは…」
「 みっともないとかそんな事じゃねえの」
龍麻の台詞を先読みして紅井が言った。普段のバカっぽさがまるで演技のように、この時の紅井は妙に鋭く、そしてひどく利発に見えた。
その紅井はふうと一旦息を吐いてから後を続けた。
「 いくら天才の俺っちでも、さすがにプロ1年目はそっちに集中しなきゃなんねえし。やっぱ一流になるには何年も修行しなきゃなんねえし。本当はすぐ迎えに行きたいけど、行けないと思うんだよな。しかもあんま会えなくなるだろうし。今もそんな会えてねえけど」
「 は?」
「 そん時に師匠が卒業後何もする事決めてないってあいつらに分かったら大変じゃねえかよ。俺っちのいない間、師匠、他の奴らに狙われまくりじゃん。そういうの、すげえ駄目だぞ。絶対駄目」
「 ……お前何言ってんの」
「 だから」
紅井は未だ自分の意を読んでくれない龍麻にむうっと頬を膨らませた後、もう一度両手を広げてがばりと正面から龍麻の事を抱きしめた。龍麻がそれで仰天して「ひゃっ」と妙な声を出しても、構わずぎゅうぎゅうと強く締め付けて。
「 おまっ…何すんだよ、痛いって!」
「 痛くねえよ。俺っちのハートの方が痛いって」
「 はああ? もうホントにお前さっきから…」
「 師匠、今まで世界の事で手一杯だっただろ」
龍麻に言わせず、また顔を合わせる事もせずに紅井は言った。
「 自分の事だって考える暇なかったよな。それって忙しいヒーローにありがちの悲劇だけどさ。けど、これからはいっぱい考えられるだろ。だからそんな悲しむ必要ないし、落ち込む事もない。ましてや自分の事知らないなんて言うなよな」
「 ………」
「 …そんでさ、これからは自分の事とか周りの事とか見てみろよ。俺っちが言いたいのは、つまりそういう事だ」
「 俺とか…周りとか?」
龍麻が聞き返すと、何故か紅井は困ったような顔をして笑った。それは初めて見る妙に大人っぽい笑みだった。
その紅井は抱きしめている龍麻の背中をぽんと叩いて言った。
「 そ。師匠は何つーか、俺以上に頭悪いよな」
「 なっ…。お、お前にだけは言われたくない!」
「 だって、俺っちがここまでやってもまだ分かんねーじゃん。ヒーローって、相手の気持ちに敏感じゃなきゃ勤まらねーんだぜ?」
師匠もまだまだだな。
紅井は偉そうにそう耳元でつぶやいた後、いきなり龍麻の頬にちゅっと軽いキスをした。
「 わっ」
龍麻がそれで驚いて声をあげ、突き飛ばすように紅井の胸を押すと。
「 へへ…」
紅井はいたずらが見つかったやんちゃ小僧のような顔をしてにっと白い歯を見せた。
「 まだ分かんねーの? ったく、師匠はいつまでも子どもだよなー」
「 ………」
「 さ、行こうぜ。あんま遅れるとメシがなくなる。今日はめいっぱい食いまくるぜ!」
「 ………」
「 早く来いよ師匠〜」
「 ………な」
何だよ。
口の端に乗せた龍麻のその一言を、先に行く紅井は聞いていないようだった。ただとぼけたように昔懐かしのヒーローアニメの主題歌をピーピーと口笛で吹きながら、紅井は茫然としてその場に立ち尽くした龍麻を残し、どんどん歩いて行ってしまった。
「 これから考えろって…。お前のせいで頭の中ぐちゃぐちゃだよ…」
いつも能天気でバカな事ばかり言っている奴だと思っていたのに、このフェイント。
「 何だよ、何なんだよまったく…」
そうして龍麻はたった今まで暗い気持ちだった自分が嘘のように、ただ紅井に唇を当てられたところが熱くて火照って、もう何も考えられなくなってしまった。
だから、子どもで悪かったな…と、自分の混乱を誤魔化すように、前方にいる紅井の背中に向かって毒づいた。
|