イワンがジルからの簡単な使いを済ませて学院へ帰る途中の事だ。
「む…」
暗闇の中、ビル街の間にひっそりと佇むようにして建っていた小さなその金物屋は、普段なら目に留める理由など何もないはずだった。
否、イワンにとって自らの意思で「目に留めるもの」など早々あるものではない。ましてや、己が嫌悪する有色人種の住まう国などに心惹かれるものが存在するはずもなかった。イワンは早くこの国から出たかった。己の主たる総帥・ジルが何故この日本という小さな国にこだわり、自分たちESP能力者を育成する為の学院を創設したのか、それも理解出来ない。…ただ、ついカッとなる気性を抑える訓練をここのところはうまくこなせていたせいか、イワンはそれらの欲求をうまく消化し、言うなれば割と「平穏」に日々を過ごせていた。
―はず、であったのに。
「………」
ひっそりとした都心の高層ビル群の一角は、駅に寄った歓楽街から少し離れているせいか、とても静かだった。ここには今、虫一匹の気配すら感じられない。その事を多少異常にも思ったけれど、それよりは今、ここにある「金物屋」だった。
これが、どうにも怪しい。
普段ならば命令された事以外に身体を動かすなど許される事ではない。それなのにイワンは気付けばもう、その古ぼけた店の戸口を思い切り引いてしまっていた。
「……?」
扉を開いた先、中に人の気配がなかった通り、店内は静寂に満ちていた。
一歩足を踏み入れると、錆びた鉄の匂いがプンと鼻先を掠める。もうとうに営業を終え棄てられた空き店舗なのかもしれない。ここの店主は抱えた借金をどうにも出来ずに商品をそのままにどこかへ夜逃げしたが、そうでなければ死んだのだろうと何となく思った。
「誰?」
「!?」
その時、気配のなかったはずの店内の奥で呼びかける声が響いた。
イワンは不覚にもびくりとして咄嗟に身構えたが、直後パチリとつけられた明かりの先、すっと現れたその人物には何故かその警戒を保ち続けるのが困難だと思った。
その現れた人―高校生くらいの青年は、とても綺麗な顔立ちをしていた。
「誰? お客さん?」
「……っ」
日本語は分からない。イワンは英語を発しようかと思ったが、しかしそれもすぐに思いとどまって止めた。見知らぬ人間と会話をする理由はない。ましてや幾ら綺麗な男とは言っても、所詮は「島国の猿」だ。高貴な生まれである自分と対等に言葉を交わす資格をこの男は持っていないはずだった。
「あれ、外人さんかあ。困ったな。Do you speak Japanese? あ〜…なら英語は? English,O.K?」
身振り手振りで愛想の良い笑顔を振りまきながらそう言う青年に、しかしイワンは冷淡な表情を崩さずにじっと窺い続けた。害があるとは思えないが、怪しい事には違いない。最近、この国には何故かジルが言うところの《力》を持つ若者が増えたという。得体の知れないこの店に自分が興味を持ったのもそのせいかもしれないと考えた。まさか己ほどの能力があるとも思えなかったが、油断をして寝首をかかれるのは御免だ。
「英語も駄目かあ。まあ俺も話せないから意味ないけど」
そんな事を考えている間にも、青年は店の奥にあるレジスターがある場所から大きなスケッチブックを取り出し、それからそこにサラサラとマジックで何事か書いた後、「はい」とイワンに差し出して見せた。
そこには汚く乱れたローマ字で「TATSUMA」とあった。
「た・つ・ま。俺のこと。俺の名前だよ。た・つ・ま!」
そうして、その字と自分を交互に指で指し示しながら、タツマはイワンを必死に見つめてそう言った。
その姿があまりに一生懸命なので、イワンは流されるように押しやられるようにその気迫に負けてしまい、自然と唇を開いてしまった。
「タツマ……」
「お。イエッス! そう! 俺、龍麻!」
すると「龍麻」は信じられないほど嬉しそうな、ぱっと花開くような笑顔を閃かせると、何度もうんうんと頷いた。
イワンはその笑顔に魅せられて、完全にその場から動けなくなってしまった。
こんな気持ちは初めてだった。
イワンは龍麻の笑顔を見て、忽ち龍麻に恋してしまったのだ。
それから龍麻はイワンに「どうぞ」と言いながら傍にあった小さな丸椅子を寄越してくれた。
「あのねえ」
イワンがそれに大人しく腰をおろすと、龍麻は自らもレジの前の小さな折りたたみの椅子にギシリと腰を落ち着けてのんびりとした口調を発した。
「この店はねえ、普通の人には見えないんだよ。つまり、君はフツーの人ではないって事だね」
「……?」
ぺらぺらと喋る龍麻の言葉の意味をイワンは解する事が出来なかった。だから怪訝な顔をしたまま首をかしげたのだが、龍麻はすぐにそんな相手の動作を察すると、「OK、OK」と意味もなく頷いた後、「ドントウォーリー!」と拙い英語を話した。
けれど、だからイワンも「まあ大丈夫なのだろう」と根拠もなく思った。
それから龍麻が出してくれたとびきり美味しい紅茶を口にしながら、イワンは暫し龍麻の独り言のように動く唇を眺め続けた。
「ここはね、俺の秘密基地なの」
龍麻が何を言っているのかは分からない。それでもイワンはそれを不快に思う事がなかった。
「君も見たところ中学生か高校生だよね? 俺と同じくらいの年として…小さい頃は秘密基地とか作らなかった? 家の近くの森とかにさ。大きな枝をかき集めたり、ダンボールを立てかけて壁を作ったり」
楽しそうに話す龍麻の顔を眺めているだけでイワンは満足だった。よくは分からないが、昔を懐かしむように目を細めて話すその穏やかな表情に、忘れていた穏やかな感情が蘇る想いがした。
龍麻は離し続ける。
「でもさ、何日かするとその基地はいつも誰かに壊されちゃうんだ。…だからいつか欲しいと思ってた。誰にも壊されない、誰にも気付かれない、俺だけのお城」
龍麻はイワンに出してやった紅茶を自分も啜りながら、時に手にしていた白いスケッチブックにさらさらと小さな家の絵を描いてみせたりした。それはこの古ぼけた金物屋とは似てもにつかないものだったが、それでもイワンにはそれがこの場所を指しているのだろう事が何となく分かった。
どうやらここは、龍麻にとってとても大切な居場所らしい。
「みんなとても優しくしてくれてね…。鳴瀧さんは俺がここで不自由をしないようにって、とっても贅沢な部屋を借りてくれた。生活に何の不満もないんだけどね…。でも、やっぱり俺に基地は必要だった。俺はいつだって、本当は隠れていたくて堪らない」
ねえ君はどうなのかな?―何かを問われたと思ってイワンはハッとした。勿論、何を訊かれたのかは分からない。それでも龍麻が初めて自分に向けて何らかの答えを欲していると感じ、イワンは焦った。
龍麻を失望させたくはなかった。龍麻の満足のいく答えを提示してやりたかった。
けれど自分は、何も持ち得ない無力な子どもだ。
「あ……」
6歳の頃だ。
訳も分からないままにジルの元へ連れて来られ、それ以来両親とも会う事はなかった。その事自体はもうどうでもいいとは思っている。自分は選ばれるべくして選ばれた尊い存在なのだから。ジルはそう言っていた。いつかイワン、お前の力がこの世界にとって必要不可欠となる日が来るだろう、その為に学べ、そして我の為に働け、と―。
その言葉を疑った事などない。
何故って、それを信じねば自分が進むべき道など何も分からない。
真っ暗で、あの先刻歩いていた闇のビル群の中でたった独りのように、何も見つける事など出来はしない。
「あぁ……」
けれど、ああ。だから。
だから、自分はこの明かりを。この店に気付いたのか。引き寄せられたのだろうか。
「……君もそうなんだね」
すると龍麻が納得したように小さな声を漏らした。イワンが弾かれたように顔を上げると、龍麻はもう立ち上がっていて、そうしてイワンにすっと何かを差し出した。
それは銀の、けれどやはり古ぼけた鍵で。
「ここの基地は君にあげる」
「タツマ…?」
「誰かに見つかった時点で、ここはもう俺だけの秘密基地じゃないもの。君にあげるよ。だからいつでも使うといい。俺はまた―…別の場所を探すから」
「あ―…!」
呼び止めようと手を差し出した時にはもう遅い。
「タツマ……」
イワンがその名を呼んだ時には、もう龍麻の姿も、そして金物屋の姿も。
もう何もかもが、なくなっていた。
「………」
けれど手元には銀の鍵が残っている。
「タツマ……」
尊敬などしていない。むしろ軽蔑している、この国の連中なんて。白人以外は認めていない、この下らない国も大嫌いなはずなのに。
もう、忘れられない。
「タツマ…」
何度も何度もその名を呼び、けれどイワンは激しくかぶりを振ると、それを振り切るようにして走り出した。もう命令を受けて帰還するはずの時間をとうに過ぎてしまっている。ジルからどのような罰則を受けるか分からない。
秘密基地。自分だけの。
けれど、龍麻は知っているその場所。
「ふ…」
ただ、自分はきっとそれを使う事はないのだろう、そう思う。龍麻がいない空っぽの器など、きっと行っても虚しいだけだろうから。
ほんの一瞬の出会いに胸を抉られるような、けれど仄かな温かさを抱えて、イワンは高層ビルを背に帰るべき場所へ向かってただ走り続けた。ただただ必死に、無我夢中で走り続けた。
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