昔亡くした、大切な友人の子ども。
いつか合い間見えるのを楽しみにしていたのは本当だが、その念願が叶う時はきっと悲しい出会いに決まっているから、龍山は会えないのなら会えないままでも、それはそれで良いと考えていた。
無論、運命の輪がそれを許さない事も知っていたけれど。
「楽天家とはよう言われておった事じゃが……」
見た目や雰囲気に違い、自分を知る人間は「こんなひょうきんな爺さんだったのか」と驚く。そのギャップを龍山自身、楽しんでいるところもあったけれど、しかし今はそんな己を全面に押し出す事も出来ない。
そう、龍山は今この時、心の中で震えていた。
あの友人の忘れ形見は、とんでもなく恐ろしい「異形」として自分の前に現れたから。
「……むう? 雄矢たちと下山したのではなかったのかの?」
緋勇龍麻という男の生い立ちを淡々と語ってやった時、その当人は何を考えているのか分からない無表情だったが、最後に一言だけ「ありがとうございました」と礼を言った。
弟子の醍醐をはじめ、彼らの優し過ぎる仲間たちは、龍麻という青年の重過ぎる使命に息を呑み、そして彼の事を深く思い遣っていた。彼は孤独ではない。その事を知って安堵もしたし、己の罪を許されたようで心が少しだけ軽くなったのも本当だ。
けれどどこかで違和感を覚えていた。
丁寧に礼を言い、静かに去っていく弦麻の息子。
見るからに精悍で非の打ちどころない立派な青年に成長したかのように見えるその器は、しかしあまりにも「完璧に過ぎる」と感じたのだ。
それが根拠のない、得体の知れない恐怖だったからこそ、龍山は青年をただ見送り、口を堅く閉ざしていたのだが。
「戻ってきてしまいました」
すっかり闇に包まれた庵の前で、龍麻は凍えるような冷風に黒髪を揺らしながらそう言った。薄っすらと浮かべた笑みは酷薄に見えたが、無条件に美しい。年甲斐もなくハッと息を呑み、龍山はその彼の肢体に思わず見惚れた。
「おじいさん」
皆の前では友人の醍醐同様「龍山先生」と呼んでいたはずの龍麻が、しかし今はそう気さくに口にしてふっと微笑んだ。
「何故みんなに言わなかったんです。俺を怖いと、思ったでしょう?」
「ん……」
すうと眉をひそめて目の前の青年を見やると、真っ直ぐな視線を向けられた当の龍麻は少しだけ寂しそうな顔をしてから目を伏せた。
「昔からそういう事には敏感なんです。ああ、今この人は俺を恐れたな、この人は俺を避けようと思ってる……、そういう人のマイナスな感情面には凄く敏感なんです。――そういうの、察知出来ないと危険だったから」
「………そうか」
その境遇を詳しくは知らずとも、幼い頃から異形が見えるとなれば大概の事は予想がつく。絶えず異形と対峙していれば、己の他とは違う異質さに否が応にも気付くのは当たり前だ。ましてや、それが自身の命を危険に晒す事ともなれば、必然的に警戒心を培い、周囲に疑心暗鬼な目を向けるようになるのも頷ける。
別に龍麻が悪いわけではない。
「醍醐はおじいさんの弟子って事だけど、本当にいい奴です」
龍麻は雲で覆われている闇色の空を見上げながら唐突に言った。
「醍醐だけでなくて。今日一緒に来てくれた京一や美里さんや桜井さんや…。俺の事助けてくれる、ここで知り合った仲間たちはみんないい人。俺の事、気持ち悪いとも怖いとも思わず一緒にいてくれる。それどころか、こんな俺を助けようともしてくれる」
「それはお前さんの人徳に拠る宝。皆に好かれているんじゃな」
「………」
「共に命を懸けてくれようという仲間…大切にせねばの」
「……お父さんは、そうだった?」
不意に視線を向けられて龍山は眉をひそめた。やはり表情は動かない。何かを思って独り戻ってきたのは間違いないだろうが、それでも龍麻が何を考えてここに来たのかは一向に読めない。父の事を訊いてきているのだ、顔も知らない親の事をもっと知りたいと戻ってきたのなら、何も訝しむ必要などないというのに。
「弦麻は……恐らく、今のお前さんが考えている通りの、男だったよ」
それでもとりあえずは正直に答えた。
大切な昔の友人。あの男を1人だけ逝かす気はなかった。あの日の事は忘れない。あの死よりも辛い、胸を焼かれる想いをもう二度としたくないから、だから己と同じ友人は俗世を捨てて酒に溺れた。
そうして、同じようにすっかり老いた自分は――。
「じゃあ、がっかりだろうね。お母さんと命を懸けて守った息子が、こんな奴で」
龍麻が自嘲するように言う声を龍山は静かな想いで聞いていた。
もう先ほど感じた恐怖は消えていたが、それは龍麻が殺気を消したからではない。単に自分の覚悟がついただけだと龍山は思った。
「龍麻よ……。お前さんは、この世界を壊してしまいたいと思うのか」
「………壊す」
無機的に復唱しただけの龍麻に龍山は一歩近づき、頷いた。
「お前の両親はこの世界を命を賭して守った…。じゃが、だから息子のお前も同じようにしなければならんという道理はないのう…。この世界が憎いか、龍麻よ?」
「別に……」
虚ろな眼をして龍麻は答えた。
そうして今度は自分の方から龍山に一歩近づき長い腕を差し出すと、目の前でぎゅっと拳を握って見せる。
「この《力》は世界を……この街を護る為に在るんだって、貴方に会う前からそんな話は色んな人から聞かされてきた。そりゃあ何べんも何べんも。トドメは今日のあんただったけどね…。でも、驚きはないよ? だってもう知ってる事だったから。みんなはそんな俺を可哀相って目で見てた。いきなりそんな重いもん背負わされて大丈夫かなって。俺たちが支えてやらなきゃって使命に燃えて、みんなが俺を心配してた」
「その想いが……煩わしいかね……」
「本当に憎いだけなら、壊せばいいよね」
でも、それだけじゃあないよと、龍麻はここで初めて怒ったような顔をして、ちらりと後ろを振り返った。龍山もつられてそちらへ目をやると、いつの間にそこにいたのか、自分たちから少し離れた背後には、今日龍麻や醍醐たちと共にここへ来て話を聞いていた赤髪の木刀を持った青年が立っていた。彼も昔の戦友の全てを継いだ、選ばれし剣士だ。
「おじいさんが最初に俺を怖いと思ったその直感。凄く当たってる」
「ああ……おぬしに殺されるのを覚悟していたよ」
「ふ……よく誤解されるんだ。俺が物騒な氣を放っている時はみんないつも余計に心配する。俺の預かり知らないところで、俺のこの《力》は暴走するんじゃないかって」
「暴走なのかの…?」
「違う。それは違う」
龍麻はきっぱりと言った後、「ちゃんと意識して出してるものだ」と揺らぎない瞳で言った。
「おじいさんには何の恨みもないけど、時々どうしようもなくイライラする事ってあるだろう? 鳴瀧さんに対してもそうだけど。俺を諭そうとする人たちには、目の前に現れる敵って括りの人や異形よりも大嫌いだって感じる時があるんだ。理不尽な八つ当たりだって知ってるよ。でも、堪らない。今夜は特に、堪らなかった」
「そうじゃろうな……」
「そうやって勝手知ったる、みたいな態度取られたから、余計に腹が立ったんだよ」
でもねと、龍麻は拳を引っ込めると再びちろりと背後を見て、ハアと大きく嘆息した。
「俺、元々おじいちゃん子なんだ。おじいさんには無条件で懐いてしまう。あんたは俺の知りたくもない過去をみんなの前でぺらぺらと喋った酷い人だ。本当に悪い人だ。でも、もう許してるよ」
「……殺しても構わないんだよ?」
「醍醐のお師匠さんでしょ? 醍醐は友達だから。むかつくけど、俺の友達なんだ」
「後ろの剣聖も、かね?」
「あいつは……うん。友達だよ」
ちょっと煩いけどねと言って龍麻が笑うと、そこでようやくといった風に背後にいた剣士はツカツカと近づき、おもむろにそんな龍麻の肩先を掴んだ。
「ひーちゃん、用はもう済んだんだろ? なら、帰ろうぜ」
「……済んだのかな。分からない。俺、もっと龍山先生に話したい事があったはずなんだけど」
「今はいいだろ。もう帰ろうぜ。爺さんだっていい年なんだ、早く寝かせてやらなきゃ悪ィぜ」
「ほっ! 細やかな気遣い、痛み入るのう」
「ふん!」
龍山の思わず口をついて出た軽口に、剣士は形の良い眉を吊り上げるとあからさま不快な顔をして舌を打った。どうやら龍麻にとっての自分はあまり良い存在ではないと認定されてしまったようだ。この悪役を買って出て、彼らにこういった態度をされる事はとうに予測済みではあったけれど、実際にそれが実現するとやはり気持ちの良いものではなかった。
「龍麻よ……」
剣士に促されて山を下りようとする龍麻に、だから龍山は思わず声を掛けていた。
彼の逆鱗に少しでも触れれば、確かに自分はこの未練のない世をいとも簡単に去る事が出来るのに。
「全てが終わったらまたここへ来なさい。儂はいつでもここに居るよ……器の望むままに」
「……長生きしたせいで、損な役回りだね」
うちのお父さんは酷い人だねと龍麻は振り返りざま哂い、そうして今度こそ、今共に在る相棒に促されて去って行った。
「そうでもないよ……お前さんに会えたのじゃから……」
ああ、そうだ。たとえどんな化け物に育っていたとしても、自分の望みはやはり「それ」だったのだから。
彼を見守り、そして時には鞘ともなろう。
すっかりと静けさの戻った山林の中で龍山はふうと白い息を吐き、そうして先刻龍麻が見上げていた空を自らも仰ぎ見た。
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