偽りの城



  その日は午後から雨で、龍麻は1人昇降口の前に突っ立ったまま、ぼうと灰色に濁った空を見上げていた。京一や美里たちは皆それぞれ部活やら生徒会やらの用でいなかったし、旧校舎に潜る約束を他の仲間たちとしていたわけでもなかった。だからこの雨さえなければすぐにでも自宅に向かっていたところなのだが、待てば待つほどに激しくなっていくその降りに、龍麻はどうしても一歩を踏み出す気持ちになれないでいた。
  濡れるのが嫌だったわけではない、恐らくは歩くのが面倒だったから動かなかっただけなのだろうが。
「 おい」
  しかし、龍麻はそうしていた事をこの瞬間後悔した。
「 ………」
「 何シカトしてやがんだ、呼んでんだろーがッ!」
  冷たい眼で一瞥をくれただけの龍麻に、相手は明らかに鼻白んだようだった。自分たちは数人でたった1人の龍麻を囲んでいるというのに、ただ視線を向けられただけでその迫力に押されている。
「 おいこら、緋勇!」
  けれど「主」に忠実な彼らは自分たちに課せられた使命を全うするべく、精一杯の勇気を振り絞ると、別段敵意を向けているわけでもない龍麻に威嚇の篭もった声を上げた。
「 ちょっと面貸せや! 佐久間さんがお呼びだ!」
「 佐久間…?」
  嫌だな、と龍麻はまずそう思った。
  転校初日から訳の分からない因縁をつけられて、彼…佐久間猪三への第一印象はとにかく最悪だった。その後も京一たちや、何より自分自身へ向けられるその悪意のこもった眼差しにいつも辟易した。覚えのない事で恨まれ、鬱陶しがられ眼をつけられて。
  いちいち絡まれていては堪らない。
「 ………」
  腕を奮いたいのならば真面目に部活にでも出れば良いのだ。主将である醍醐が喜んで彼らの性根ごと鍛え直してくれる事だろう。
「 おい緋勇! テメー聞いてンのかッ!」
  無反応の龍麻を前に、数人の男子生徒たちは更に怯みながらも声を張り上げた。龍麻はそのキーキーとした声に一瞬だけ眉をひそめたが、律儀に頷くと「聞いてるよ」と返答した。けれど再び外の雨へ視線を返すと、重苦しくハアと深いため息をついた。
  嫌だな、もう。
「 でもどうして俺が行かなくちゃいけないんだ? 用があるなら佐久間の方が来ればいいだろ?」
「 煩ェッ! いいから来いって言ってンだろッ! 言う事を聞かねえのなら…!」
「 何?」
「 うっ…」
  以前、京一が助太刀に入ったとは言え、彼らは5人掛かりでも龍麻に散々いなされた過去がある。ちろと再び見つめられて、彼らは無意識のうちに後ずさりした。しかしこのまま引いては今度は佐久間に叱られる。
  彼らは八方塞がりだった。
「 ……分かったよ」
  そんな男子学生たちの苦悩を読み取った龍麻は、やがて仕方なく首を縦に振った。どうせ雨が降っていて帰る気持ちがしなかったのだ。何の話か、はたまた話ではないかもしれないが、行ってやるかと大きな心でそう思った。10年に1度の気紛れだ、と。
「 そ、そうさっさと素直になりゃあいいんだ…ッ」
  龍麻の返答に学生たちは強がりながらも、心底ほっとしたような顔を見せた。そんな彼らを見て龍麻は再度嘆息した。





「 遅かったな」
  佐久間がいたのは2階の1番端に位置する地学準備室だった。そこは生物教師の犬神が生息している生物準備室よりは一回り小さく、そして荒れていた。もくもくと煙草の煙が充満しているそこは、本なり資料のプリントなりも錯乱していたが、それ以上に佐久間らが利用しているのだろう、怪しげな雑誌にカップラーメンの容器やビール缶などのゴミ、まさかそこではやったりしていないのだろうが、野球のバッドやグローブなどがあってとにかく雑然としていた。
  佐久間はその長細い準備室の1番奥、机の前の椅子に偉そうにふんぞり返って座っていた。足を大きく開いてぐいと背中を椅子の背に寄りかからせ、ぷかぷかと煙草を吸っている。その傲慢且つふてぶてしい態度は、どう贔屓目に見ても真っ当な高校3年生の姿ではなかった。
  少なくとも龍麻にはそう感じられた。
「 お前らはもう行っていいぞ」
「 は、はいっ!」
  佐久間に素っ気無く声を掛けられた舎弟たちは任務を果たす事ができた安堵感に頬を緩ませ、ほっとしたように準備室を後にしていった。
「 ………」 
  ぴしゃりと閉められた戸を横目で見やってから、龍麻は改めて自分を睨み据えている佐久間を見つめた。
「 …ここがお前の城?」
「 まぁな」
  厭味で言ったつもりだったのに、佐久間は頷いてにやりと笑った。
  龍麻は露骨に嫌な顔を見せ、きょろきょろと辺りを見回した後、左隣にあるドアを指差して言った。
「 隣の地学室には誰かいないの? 地学部とかってなかったっけ?」
「 ンな連中は俺様の一言で何処へなりと消えちまうさ」
「 はあ、なるほど」
  そうしてここを自分の家のように自由に使うわけか。
  妙に納得してから龍麻は再度目の前に散らかった物質を見回すと、大きな木の長テーブルに置いてあった雑誌の山を一つ手に取り、また汚い物でも触ったかのようにすぐ投げ捨てた。
「 掃除しろよ、たまには」
「 …ケッ。舎弟共にやらせてるぜ。奴らがサボりやがるとこうなる」
「 その舎弟共は地学部の気弱な学生さんに掃除させてんのかな? 嫌な図式」
「 何がだ」
  煙草の吸殻を机の上にぐりぐりと押し付け、佐久間はぎりと椅子を回して龍麻を正面から見据えた。ふんぞり返った姿勢を崩そうとはしない。そんな佐久間を真正面から捉え、龍麻は再び不快な顔を見せた。
「 分からない? お前は自分より弱い奴を従えさせてそいつらに命令する。でもそいつらもまた自分より弱い人間を見つけて命令する。…末端に置かれちゃった人が迷惑するって話だよ」
「 そんなのは当たり前の話だ」
  佐久間はくだらない事を言うなと言わんばかりの顔でいつものように舌を鳴らした。それから再び新しい煙草を手にすると、傍のライターを手に取ってカチカチと火をつけようとした。
  それはなかなかつかなかったのだが。
「 強い奴が弱い奴を支配して何が悪ィ。負けた奴は、死にたくなきゃ俺たちに従う他はねェ。そうだろうが?」
「 俺たち?」
「 ああ。お前も強者の側の人間だろ」
「 ……知らないよ」 
  いつでも睨みつけておきながら勝負に出てこないのは、それなりにこちらの力を見抜き警戒しているからだという事は分かっていた。かといって、佐久間あたりに目をかけられていても嬉しくも何ともない。
  龍麻はムカムカとした気持ちになりながら、それでも辛抱強くその場に留まっていた。
  こんな事なら雨に濡れて帰った方がどれだけマシだろう。それが分かっているのに、何故かそうする事ができなかった。
「 それより何か用? まさかこの汚いお城自慢? それなら本当勘弁してくれよ。こんな所、煙草の臭いがひどくてホントは1分だっていたくないんだから」
「 お前、これ嫌いなのか」
  佐久間は一生懸命ライターをいじっていた手を止め、意表をつかれたような顔を見せた。龍麻はそんな佐久間を不審に思いながらも頷いた。
「 嫌いだよ」
「 いつもあの犬神の周りをうろうろしてんじゃねえか」
「 え? ああ…先生は別だよ」
  何故そんな事を知っているのかと訊きたかったが、龍麻はすぐにそう答えてやると不機嫌そうに顔を逸らした。自分が犬神の生息地である生物準備室に通う事は、京一たちにすら話していない事だったというのに。
「 あんな得体の知れないジジイのどこがいいんだ?」
  そんな龍麻に佐久間が素早くそう言った。
「 オヤジ趣味かよ。人は見かけによらねェなあ?」
  その言葉に龍麻はカチンときて初めて怒ったような顔を見せた。
「 お前に関係ないだろ? 何なんだ一体? ああ確かに先生は特別だよ、悪いか? けどそんな事もお前には関係ない。お前に話して聞かせてやるのも嫌だ」
「 逃げてェだけだろ?」
「 は!?」
  イライラが頂点に達して声を張り上げると、佐久間は逆にいばりくさったような態度をふっと消すと、ふいとそっぽを向いて押し黙った。体重を移動させたせいだろうか、ギイィと佐久間の座る椅子が悲鳴を上げ、静かな空間の中に響き渡った。
「 ……用、何?」
  それで再び冷静になり、龍麻は静かに訊いた。佐久間が自分と喧嘩をしようとか、脅しをかけようとか言う理由で呼んできたのではない事は分かった。けれどだからこそ、もうここにいるのは嫌だと思った。
「 俺ンじゃねェ。むしろ邪魔だ」
  その時、突然佐久間が言った。
「 は…?」
「 持っていけ。どっかに捨てろ」
「 なっ…!」
  そう言って佐久間が突然投げつけてきた物に龍麻は思い切り面食らった。反射的にそれを両手で受け取ったものの、こちらをちらとも見てこない佐久間をただ茫然と見つめてしまう。

  それはボロボロのこうもり傘だった。

「 緋勇…。テメーみてえなムカツク奴はな…いつかこの俺がぜってえ殺す」
  佐久間は準備室に唯一ついている、机の前の小さな窓の外を見つめたままぽつりとそんな事を言った。曇り掛かったガラス窓はどんなに目を凝らしても外の様子を伺う事はできない。しかし、しんと耳を澄ますと雨の音はよく聞く事ができた。
  ザーザーと激しさを増しているその雨の音。
「 ………お前」
  龍麻は何事か言いかけて、けれど黙りこんだ。雑然とした地学準備室がこの時はいやに小さく見えて、また佐久間自身の背中も小さく見えて、龍麻はこの日2回目。
  嫌だな、と思った。
「 ……お前、あんまり悪さするなよ」
  だから龍麻はそう言った。
  受け取ったこうもり傘をその場で開いてみると、ところどころに穴が開いていて殆ど壊れかけていた。それでも肩を冷やさないくらいに役立てる事はできるだろうと思った。
「 俺さ…嫌なんだよな。自分より弱い奴を虐めるのって」
  そんな傘を見やりながら龍麻は佐久間にというよりは独り言のようにそう呟いた。
  すると声はすぐに返ってきた。どことなく楽しそうな、けれどガラガラとした聞き取り難い声。
「 けっ。なら心配すんな。俺様はテメエより強ェ。いつでも命の取り合い…してやるぜ」
「 今は?」
「 今は見てる奴がいねえ。どうせなら大勢の仲間の前でテメエの事はぶっ殺す」
「 はは…。京一たちが混じったらますます弱い者いじめになっちゃうよ」
  あくまでも憎まれ口を叩く佐久間。やや可笑しくなって龍麻はここで初めて笑った。
  けれどそんな龍麻を逆に嘲笑うように。
「 けどテメエはその輪から逃れられねえ」
  今度は佐久間が嘲笑するようにそう言った。
「 え……」
  佐久間の言葉に龍麻は一瞬声を失った。まじまじと見つめたが、しかしそう言った相手はやはりこちらを見てはくれなかった。そしてその先の言葉も、その出した言葉の意味も説明しようとはしなかった。
「 佐久…」
  そして呼ぼうとした時、佐久間は声色を変えて別の事を言った。
「 ……テメエが犬神の城に逃げ込むのはそのせいなんだろうよ。勘違いしてンじゃねェ」
「 な、何をだよ…?」
  龍麻が訊くとすぐに佐久間は言った。
「 そんなもんは惚れてるとか…そんなんじゃねえンだ」
「 な……」
「 そんなんじゃねえよ…」
  龍麻は佐久間に言葉を返す事ができなかった。
「 ………」
  丸まった相手の背中を暫く見やった後、龍麻は黙って教室を出た。
  何故あんな奴にあんな見透かされたような事を言われなければならないのか。やや癪な気持ちがして、けれど何かがざわついて、龍麻は準備室前から暫し立ち去る事ができなかった。
「 緋勇」
  その時、1人茫然と突っ立っている龍麻の姿を認めたのか、廊下の向こうから犬神がゆったりとした足取りでやってきた。
「 ……先生」
  龍麻が何とか掠れた声でその名前を呼ぶと、犬神は無機的な顔のまま背後の準備室を顎で指し示して言った。
「 お前がこんな所に何の用だったんだ?」
「 別に……」
「 地学に興味があるのか」
「 まあ……」
「 ………」
  その先を言いそうにもない龍麻に犬神は黙って見下ろしてきた後、そのまま踵を返すと何も言わずに去って行った。すぐに後を追いたかったが、龍麻は開きかけた口を再び閉じ、黙りこくった。
  それから恨めしそうにドアの向こうにいるであろう佐久間のことをを睨みつけた。
「 くそっ…! お前のせいだぞ!」
  貰ったこうもり傘でドアを叩くと、龍麻はだっと廊下を駆け出した。あのまま犬神に愚痴をこぼさなかった自分には幸いだが、このどうにも苛立たしい気持ちだけは払う事ができない。それを思うとただ堪らなくて龍麻は走らずにいられなかった。
  誰が逃げられないんだって?
「 知った風な事言いやがって…!」
  龍麻は誰もいない廊下でそう毒づきながら尚も走り続けた。
  そうして握った傘の柄を更に強く握り締めると、これを返す時は奴を思い切りぶん殴ってやろうと思った。そう思うと少しだけ気が晴れた。そうだ、殴ってやろう。佐久間など一発や二発殴っても誰もどうとも思わないだろうし、これが例えどんな八つ当たりだろうと、悪いのは皆奴という事になるに違いない。ざまあみろ。
  訳も分からずに龍麻はぐるぐるとそんな事を考え、そうすると自然口の端が少しだけ上がって楽しくなった。
  そうだ、殴ってやる時は一言言って殴ってやろう。そうも思った。

  俺に惚れているからって分かった風な口をきくな、と。



<完>






■後記…嫌われ者の男が常に大勢に囲まれ愛されているアイドルを本気で好きになってしまい、いつも遠くからじっと眺めている…。そんなある日、アイドルが1人で雨に降られ困っているのを見つけた男は、これ幸いとばかりに自分の傘をそのアイドルにそっと差し出すのであった…ああ純愛。…なんてギャグじゃなくて真面目に書いた佐久間主なんですよ。佐久間。悲哀が似合う男。いいでしょ!美形だったら絶対人気出てたって!(そんな仮定無意味です)