君の手



  あの醜い姿になってから身体は粉々に砕け、塵となった。
  何て取るに足りない、無意味な存在。
  ――そう思い、絶望したまま死んでいったはずなのに、気づけば傍には彼がいた。





「まだ死んじゃ駄目だよ」
「………君は」
  水岐がカサカサに乾いた唇を何とか動かせたのは、その人間があまりに美しかったからに他ならない。自分の最期を看取ってくれたはずのあの少女も相当際立った容姿をしていたと思ったが、本当はずっと気になっていたのはこの「彼」の方だったと、水岐は今さらながらその事を再認識した。
「何故、僕は…?」
「まだ死んじゃ駄目だから」
  だから俺がここに連れてきたんだと、「彼」は当然のように言ってから、ふっと視線を外へずらした。
「………?」
  それに水岐も促されるように目だけを横へずらすと、なるほどその窓の向こうには穏やかな青白い海が上等の絹のように光り輝き、そこに在った。

  海は好きかと訊いた事を覚えていて、だからここへ連れてきてくれたのだろうか。

「みんなには内緒。君は死んだと思ってる。たぶん、君の家族や知り合いもそう思ってる。新聞には行方不明って出ているけど、1年もすれば死んだ事にされるよ、きっと」
「………」
「それが嫌なら、怪我が治った後に帰ればいいし……。そのままでいいなら、そのまま死んだ事にすればいい」
「何故…」
「でも、本当に死ぬのは駄目だから」
  それはずるいからねと「彼」は笑い、それから改めて水岐の方へとその静かな表情を戻してくる。
  ああ、やっぱり綺麗だと思った。
  そんな陳腐な言葉しか出てこない自分が不思議だった。けれどもうどんな飾りも浮かんでこない、声を出すのも億劫だった。
  ただ見ていたいと思った。この緋勇龍麻という奇跡のような存在を。
「バカだな。俺はそんな大したものじゃないのに」
「!」
  心を読まれてぎくりとした水岐にはそ知らぬ風で、龍麻はただ穏やかに笑んだまま小首をかしげた。
「皆、騙されるんだよな。ちょっと《力》が強くて、ちょっと笑っているだけで。ちょっと皆に合わせて頷いているだけで。凄く良い人で、優しい人で、とにかく……凄い人って」
  騙される……?心の中でそう繰り返すと、龍麻は「そう」と頷いた。
「皆、俺の事、神様か何かだと思ってる。あ、それは大袈裟かな……でも、タダモノじゃないとは思ってる。普通の高校生じゃない、何か特別なものを持ってる奴だって」
「………」
「君は周りから天才って言われて、それを素直に受け取っていたみたいだけど」
「………」
「しかも、自分は選ばれた人間で、新しい国の王になるとすら思ってた」
「………緋―」
「そういうのって、バカだよね。羨ましいけど」
「………」
  助けてくれたのではなく、ただ罵倒し嘲笑う為だけにいるのだろうか。
  一瞬嫌な気持ちになり、水岐が傷口とはまた別の痛みに眉根を寄せると、龍麻の方はふっと冷たい息を吐き出してから再び目線を窓辺の海へと持っていった。
  そうして本当に心底ウンザリしているのだという風に剣のある声を出す。
「そうなんだ。俺は全然イイ奴でもないし…どっちかっていうと、意地悪なヒト」
  凄く冷たいでしょ?と鼻で笑って龍麻は続けた。
「君を助けてここへ連れてきたのだって、単なる気紛れだし…。そう、厭味の一つも言ってやれば自分がすっきりすると思って助けただけ。君はもう何の《力》も《言葉》も持たないただのヒトだし、ただの高校生で、ただの怪我人で、ただの罪人」
「……緋勇、君」
  それならどうして―と、唇を戦慄かせたところを、しかし龍麻はぴしゃりと止めるように水岐へ手を差し出し、そのままその喉元にぴたりと冷たい手のひらを押し当てた。
「……っ」
「君を死なせてあげるのは簡単だ。でも、殺さない」
「……あぁ」
  ちっとも力の込められないその手の感触に、水岐は喉元に焼け付くような痛みを感じた。
  けれどそれが自分自身ではなく、手のひらを向けてきた龍麻自身の痛みのように感じて、そのせいで声を出す事が出来なかった。
  龍麻は言った。
「親切で助けたんじゃない。むしろ君はこの先ずっと俺を恨むんだよ。ひとおもいに殺してくれれば、この絶望の世界でこの先も生きなくて済んだのにって」
「………」
「楽には、してあげないよ?」
  ここにいなよ?――そう言って龍麻は水岐の喉元から手を離し、おもむろに立ち上がると窓辺へ移動して深い深いため息をついた。
「―………」
  水岐はその龍麻の背中をじっと眺めた後、ようやく自らもゆっくりと上体を起こした。身体のあちこちに巻かれた白い包帯は替えられたばかりのようだ。清潔感のある白いベッドは適度に柔らかく、そして心地が良い。ふと上を見上げると白い天井には綺麗な銀紙で出来た数匹の魚がメリーゴーランドのようにゆらゆらと回っていた。
  まさか彼が作ったのだろうか。ベッド横に備え付けられている冷蔵庫の上には果物がのり、部屋の隅の棚には花も飾ってある。
  そして傍には静かな海。
「これが……罪人である僕への罰だって言うのか…」
  水岐が呟くようにそう発すると、龍麻は不快な顔をして振り返ってきた。特に何の言葉も返さなかったが、水岐の方はそれで逆に次の言葉を紡ぎやすくなった。
「君は甘いんだな。どんなに己を偽っても本質は隠せない……君はやっぱり、僕が想っていた通りの人だよ」
「……どんな風に思ってたの」
「………」
「? 何。どうしたの」
「言葉が出ない。困ったな。何も思い浮かばない」
  まるで呼吸が出来なくて辛いという風に首を振る水岐に、龍麻はここで初めて笑った。
  完全に向き直ると、半ば諦めたように顎をしゃくって先を促す。
「別に詩人のような表現はいらないから。普通に、頭に浮かんだ事を言いなよ」
「……そうだね」
「君は、俺を、どういう風に思ってたの?」
「き……綺麗な、人だなって…」
  らしくもなくどもりながらそう答えると、そんな水岐に龍麻は「陳腐だね」と言って再び笑った。
「うん」
  「死ぬ」以前なら頷く事など出来なかったに違いない。誰かに己の発した言葉を莫迦にされるなど絶対に我慢ならない、数日は子どものように不貞腐れて原稿も講演も全て放棄し周りを困らせる事だけ考えただろう。今や水岐は文学界で知る人ぞ知る高名な詩人だったし、その地位は高校生にして揺ぎ無いものになっていたから。
  それでも水岐は龍麻の笑みに全く腹が立たなかった。
  それどころか。
「うん……でも、それしか思い浮かばなかったんだ。ごめんよ」
「え……別に、謝らなくても。そんなの、いいよ」
  水岐の素直な謝罪に今度は龍麻が途惑う番だった。つまらない事を言ったと自分こそが思ったのか、ちらと後悔したような顔を見せる。
「窓、開けようか」
  そうしてそんな自分の表情を隠すように、龍麻はふいと水岐から逃れて再度窓の外へと顔を戻し、ガタリとたてつけの悪い木枠の窓を押し開けた。
「―……ッ」
  強い風と潮の香りがザッと室内に入り込んでくる。
  水岐はすうと目を細めた。
「……生きてるんだね、僕は」
  感じた思いをそのまま告げた。
  龍麻は何も答えなかった。ただその数秒の後、水岐がそろそろと色のない包帯だらけの腕を伸ばしてきた事には素早く気づいて「何」と言った。
「君に触りたい」
  だから水岐もすかさず正直な気持ちを言ったのだが、龍麻はそれに途端表情を曇らせた。
「何で」
「さぁ…。生きてる事を実感したいから、かな」
「生きてるよ。俺が生かしているんだから」
「なら、尚の事触らせておくれよ」
「……嫌だ」
「そう……」
  そこまでは図々しいかと、水岐もすぐに引き下がり腕をぽとりとシーツに落とした…が、落胆の気持ちは拭えなかったので、名残惜しそうな視線だけは残してしまった。
「……俺は」
  すると龍麻はもう一体何度目かの溜息をつくと、距離にして1メートルもないその間を恐ろしい程の時間で埋めて……やがて水岐に自らの手を差し出してきた。
  そして水岐がそれを取る前に、どこか泣き出しそうな声で言った。
「俺は本当に甘いな」
「……うん」
  その通りだと思ったので、また素直に頷くと、龍麻は勢いに乗ったように早口でまくしたてた。
「皆に怒られるよ。バレたら」
「うん」
「何で敵とこんな所でこんな風に手を貸してやってるんだよ。何で俺を触らせてやらなくちゃいけないんだよ。本当に、面倒なんだよ。こういう事。皆に知られたら」
「その時は僕が責任を持って死ぬから」
「バカ。殺さないって言ってるだろう」
  水岐が遠慮がちに触れてきた手を逆に龍麻はぎゅっと握りしめて、怒っているんだか笑っているんだか分からない、ぐしゃりと潰れた顔をした。
  それからまた大きく溜息をつく。
「お前、バカだけど……俺も相当バカだな」
「うん…?」
「だから、さ…。……まぁ、この先は自分で考えなよ」
  時間は腐るほどあるしね。
  龍麻はそう言って水岐に握られた、そして自分が握り返した手を空いたもう一方の手でぽんぽんと叩いた。
「……緋勇君」
  水岐はその龍麻のさり気ない所作に初めて自分も泣きそうになり、ぐっと唇を噛んだ。
  こんな気持ちは初めてだった。
「何もない……色のない世界だったのに」
  「緋勇君」ともう一度呼ぶと、龍麻はそんな水岐に「何だよ」と返した。
  律儀に返して、そうして水岐に笑いかけた。
「緋勇君」
  だから水岐はもう堪らなくなってしまい、龍麻の手の甲に押し当てるように唇を寄せた。とくとくと心臓の高鳴る音が恥ずかしい程耳に響いた。
  生まれて初めて自分以外のものを愛しいと感じた、それは信じられない瞬間だった。



<完>




■後記…唐栖や死蝋もそうですけど、前半ナイーブな敵キャラが続きますよねえ。潔癖で脆い芸術家タイプだ。水岐はまさしく芸術家ですが、正直奴の発していた台詞は小蒔ちゃんが言うように「難しい」というか、訳が分からなくて当時はあんまり好きじゃなかった。今も訳分からんけど(笑)、でも、コイツがもっと早くにひーちゃんと出会っていたら、とんでもないストーカーのようにひーちゃんに懐いて悪い道には進まなかったような気がする!最期のシーンは美里様の腕の中ではなく、是非ひーちゃんの腕の中が良かった…!と思い、とりあえず捏造で助けてみました。この後は是非立派なストーカーになってもらいたいものです。