人間はこの世に未練があると成仏出来ないと言うが、まさしく道理だ。
本当はこの世の中はくだらないとどこかで分かっていたし、面白おかしく勝手に生きてきた人生だったから、剣で終われるならそれでもいいとどこかで納得もしていたはずだった。
けれどやはり、無念には違いない。
「蓬莱寺…京一…ッ!」
だから八剣はあの世に行く事が出来なかった。
潔く逝く事が出来なくて、今でもこの世を漂っていた。
「ああ、嫌だな。またか」
そんな時だった。八剣の怨念に最初に気付いたらしい青年は、歩いていた足をぴたりと止めてふうと小さな溜息をついた。
「どうした、ひーちゃん?」
それに呑気な声で返したのは、まさに八剣をこの世に留めてしまった張本人、蓬莱寺京一だ。相変わらず底抜けに腑抜けた面をして木刀を肩に担ぎ、何の悩みもなさそうな軽い雰囲気を漂わせている。
本来だったら八剣が傍でこれだけの憎悪を滾らせているのだから、隣のこの男ではなく、祟られている対象・蓬莱寺こそが気付くべきところなのに。八剣は自分こそが溜息をつきたいと毒を吐き散らしながら、2人の背後からどす暗いオーラを漂わせ、ぎりりと歯軋りをした。
「京一。困るんだけど、背中が重くて。この人たぶん、京一の方に憑いてる。でも見えるのは俺だろ。だから俺にとばっちりがくる」
「はあ? 一体何の話だ?」
蓬莱寺には隣を行く相棒が何を愚痴っているのかがまるで分からないらしい。どうやらこの青年は特別に霊を寄せ付けたり可視したりする能力が優れているようだ。これは好都合だと八剣はますます青年に近づき、「このバカ野郎を呪いたいから当分憑かせてもらうぜ」と話しかけた。
「京一を呪うのは勝手にどうぞだけど。俺に話しかけるのはやめて」
すると青年は心底迷惑そうな顔をした後、「しっし」と片手を払って、まるで八剣を邪魔な野犬でも扱うかのように冷たくあしらった。八剣は当然むっとした。この、最早ヒトといよりは怨念によって鬼のような姿となった俺を畏れるでも驚くでもなく、平静として接するこの態度。そういえばこいつはあの戦いの時に蓬莱寺の隣にいた「緋勇龍麻」ではないかと、今さらながらに気がついた。
緋勇と言えば、あのいけ好かない壬生の奴が一番気にしていた男だ。自分は蓬莱寺の剣の事にばかり意識が向いていたからあまり興味も持たなかったが、どうやら真神の中の「トップ」はこの男らしい。蓬莱寺の如何にも馴れ馴れしい仕草にも合点がいく、この男はこの男でとても《力》の強い者なのだろうと、八剣は途端緋勇の方に関心を持った。
何せ肝心の蓬莱寺は自分の姿が見えないのだ。それならば、こちらを認識してくれる緋勇を当面の喧嘩相手にした方が断然面白いに決まっている。
「ほうら、見ろ。やっぱり俺の方になっちゃった。京一のせいだぞ」
すると八剣のそんな気持ちが筒抜けになっていたかのように、途端緋勇が実に嫌そうな声を出して蓬莱寺の後頭部をばしりと叩いた。
「イテッ! 何すんだよひーちゃん!」
「お前が鈍感だから、見えちゃう俺の方に憑くって! 俺に乗り換えられた! どうしてくれるんだよ!?」
「だから、何がだよ!? もちっと俺にも分かるように説明しろっての!」
「嫌だめんどくさい! とにかく京一のせいだ!」
「はあぁ!?」
八剣がぽかんとしている間に、蓬莱寺とこの緋勇は喧嘩を始めた。どうやら原因は自分らしいが、これはこれで面白い。ニヤニヤとして2人の仲違いを宙に浮きつつ胡坐をかいた格好で見物していると、不意に緋勇がギッとした顔を向けて八剣を睨んだ。
「あんた、あの時は俺とは然程会話も交わしてなかったし、関係なかったじゃないか。何で俺に取り憑くんだよ!」
「…そりゃあ、俺の事を見えるのがお前しかいないからさ」
意識して声を出すと、驚いた事にきちんと言葉になってそれは外に飛び出した。先刻まではどんなに蓬莱寺に話しかけようとしても駄目だったのに、これもこの男の《力》かと内心で感心する。
「とんだとばっちりだ。いつもいつも。戦いが終わっても、俺の背中はちっとも軽くならない」
「……フン。お前、俺以外にも何かの霊に取り憑かれてんのか?」
「祓っても祓っても新しいのが来るよ」
緋勇は本当に肩が凝っているようだ。自らのそれを労わるように片手で揉みしだいた後、不意にじろりと蓬莱寺を睨み据える。どうやら一見すると独り言を発しているだけのように映る緋勇を蓬莱寺が引き気味に見つめているのが癇に障ったらしい。
「何だよ京一。そんな微妙な距離取って」
「いや…だってよ。何かひーちゃん、意味不明な事ぶつぶつ言って気味悪ィからさ」
「あっそ! それならさっさと1人で帰れば? 俺も独りで帰るし! 京一に憑いてた悪霊、俺が引き受けて独りで帰るし!」
「だーっ、2回も繰り返すなよ! つーか…ホントなのか? ホントに、そこらへんにその…霊なんか、いるのか?」
「いる」
「んな裏密じゃあるまいし、ひーちゃん…」
「信じないなら、もういいよ」
「わーっ、分かった! 嘘! 信じる、信じてる! 俺がひーちゃんの事を疑うわけないだろ!?」
悪いっと何度も何度も無様に謝り、蓬莱寺は機嫌を取るように緋勇の肩先をいやらしく撫でた。
八剣はそんな剣士の情けない姿を半ば唖然として見やっていたが、なるほどこの男の弱点はまさにこの「緋勇龍麻」なのかと分かって、途端に悪戯心が沸いた。
蓬莱寺にリベンジするには、つまりこの緋勇を苦境に立たせてやればいいわけだ?
「お前ら、デキてんのかよ? くくっ……お盛んなこって」
「…は? 気持ち悪い想像するのやめてくれない?」
八剣のからかうような言に、緋勇はあからさま不快な表情を浮かべてみせた。
しかし今さらながら、そんな風に不貞腐れた顔も、なるほどとても可愛いと思える。あの壬生もこの緋勇の事は異常に気にしていたけれど、もしかすると《力》うんぬんというよりも、この手の顔が好みだったのではないかと無粋な想像もしてしまう。
途端に面白くなってきた。
「まあ、一見してお前は女みてェな真っ白い肌してるしな。そのお綺麗な顔で、同じ《力》のある奴らをたぶらかしてうまい事働かせてるわけだ? やるじゃねえかよ」
「京一! この亡霊マジでむかつく! 今度は俺に“言葉の暴力”攻撃してきたぞ!」
「な、何!? っくしょ、何処だ!? どこにいるんだ、そいつわあっ!」
「く…くははははっ!」
緋勇が頭にきたように叫ぶと、それに併せて蓬莱寺も焦ったようになって意味もなく周囲に木刀を振り回してみせる。これは愉快だ。こんなみっともない男の姿を見る事が出来るとは、成仏出来なかった事もまるきりの不幸ではなかったかもしれない。
しかし、どうせなら苦悶に歪む顔も見てみたい。
「……あのさ、八剣って言ったっけ?」
けれど緋勇が突然名前を呼んだ事で、八剣は浮かべていた薄ら笑いをぴたりと止めた。同じく隣にいた蓬莱寺も「何、八剣!?」と仰天したような声をあげていたが、この時はそれも全く気にならなかった。
ただじっと視線を交わらせるように睨みつけると、緋勇は眉をひそめたまま再び口を開いた。
「お前の戦いはもう終わったんだろ。逝けよ」
「……るせえ」
「成仏したくないって気持ちも分からないではないけど。ここに長く留まれば留まるほど、お前は苦しむ事になるよ。俺も死んだらそっちへ行くから、それまで待ってる事は出来ない?」
「ハッ……お前も地獄に来るってか?」
「うん」
「な……………」
半ば脅すように言ったのに緋勇があっさり頷くものだから、八剣はまた笑いかけていた顔を素に戻して絶句した。緋勇に嘘を言っているような雰囲気はなかった。むしろ本気なのだと言う事はすぐに分かった。
この男は、死した後の己の行く末にとうに覚悟を決めている。
いつまでもこの世に留まり、くだらない毒を吐いている自分などとは違って。
「……あの世の渡り賃、持ってる?」
「あぁ?」
黙りこくる八剣が納得したと思ったのだろうか、途端柔らかい雰囲気になった緋勇が優しげな声でそう訊いてきた。
それに胸がざわりと騒ぐのを感じたけれど、努めてそれには気づかないふりをし、八剣は精一杯の虚勢で緋勇の顔をねめつけた。その「綺麗過ぎる顔」に結局は先に視線を逸らしてしまったのだけれど。
「好きな場所を決めなよ。そこをお前の墓として、俺が死ぬまで参ってやるから」
「………」
「時々は綺麗な花も持って行ってあげる」
「……ケッ。んなもんは、いらねえよ」
ざわざわざわ、と。
先ほど少しだけ感じていた胸の中の蟲がより一層激しく騒ぎ立てている。それを必死に抑えながら、八剣は不意に自分の身体がすうと透けて行く感覚に囚われた。驚いた、どうやら自分は成仏しようとしているらしい。こんな。こんな男に少し慰められただけで。ほんの少し微笑まれただけで。
自分は何を納得しようとしているのだろうか?
「緋勇……」
「うん。龍麻だよ。緋勇、龍麻」
「龍麻―……」
消えてしまう。そう思った瞬間、八剣は知らずに緋勇に向けてさっと腕を伸ばしていた。触りたい、そう思って片時も離さなかった血塗れた剣すらぽろりと捨ててしまった。
あっさりと、捨ててしまった。
「またね」
緋勇が笑った。八剣はハッとした。その指先に触れたと思った瞬間、パンと短い破裂音のようなものが聞こえ、あっという間に辺りが真っ白な何もない空間に包まれる。その時にはもう、剣の姿もどこかへ行って見えなくなってしまっていた。
それなのにどうした事だろう、とても気持ちが良いと八剣は思った。
「ひーちゃんは俺をよく責めるけどよ」
夕暮れ時の道をのろのろと歩きながら、京一は白い息を吐き出しつつ溜息交じりに不平を述べた。
「あれだ。ひーちゃんが憑かれ易いのは、ひーちゃんのその優し過ぎる性格が原因だな」
「今回の発端はそもそもお前なの」
「そうかもしんねーけど、結局奴らを救ってくれんのは、いつだってひーちゃんの女神みたいな微笑なんだよな」
「気色悪い事言うなよ」
龍麻はふんと鼻を鳴らし、自分の横を歩いて何故か「あーあ」とむくれてみせる京一に、「怒りたいのはこっちだよ」と文句を言った。
それでも、龍麻も少しだけ思う。
優し過ぎるうんぬんはともかく、結局生きていても、死ぬ時ですら―…自分が本当に解放される時なんて永遠に来ないんじゃないだろうか、と。
「まあ……それでも、いいけどさ」
「いてっ!」
意味もなく相棒の後頭部をばしりと再び引っ叩き、龍麻は小さく笑みを零した。
そうして「京一も死んだら墓参りしてやるから」と相棒を憮然とさせるような事を言い放って、龍麻は今度こそ声を立てて笑った。
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