紅2
「 ひーちゃん、どうした? 疲れた顔してよ」
放課後、いつものように「ラーメン」という単語を口にした親友は、しかし相手が蒼褪めた顔で俯いている姿に気づいて眉をひそめた。
「 何か…疲れてンのか? 具合、悪いのかよ?」
「 大丈夫……」
「 …には見えないぜ? 今日はさっさと帰って休んだ方がいいな。送って行ってやろうか?」
「 ううん…京一」
「 ん?」
龍麻が気だるいながらも何とか相棒の方を向くと、そこには心底自分のことを気にかけてくれているような顔があった。龍麻はズキンと胸を痛めたが、それでも無理に笑顔を見せた。
「 俺…大丈夫だから、みんなとラーメン行ってよ」
「 ………」
京一はそう言った龍麻の顔を黙って覗きこんだ後、にっと笑って「おう! じゃ、行ってくるな!」と言ったかと思うと、小蒔たちを引っ張るようにしてさっさと教室を出て行った。
この一見おちゃらけたような京一という奴は、いつもはいい加減で単純強引なところがあるくせに、時々こんな風にらしくもなく気を回してくれる。それをありがたいと思う一方で、龍麻はどうしてもそんな親友に心を許せない自分がいることを自覚していた。
「 あ……雪」
校舎を出て、空からぱらぱらと舞い落ちる真っ白な粉雪に、龍麻は思わず立ち止まってつぶやいた。微かに肩を震わせて、足早に歩を進める。早く家に帰りたい、そう思った。
あの人が来る前に。
先日、突然自分の前に姿を現した鳴瀧に龍麻は強引に組み敷かれ、抱かれた。嫌だと言ったのに、あの人は聞いてはくれなかった。いつだってそうなのだ。勝手で、傲慢で。
「 龍麻」
その時、駅への階段を下りようとした自分に背後から声をかける者があって、龍麻ははっとした。
「 紅…壬生……」
いつも心の中だけで呼んでいる名前を慌てて喉の奥に追いやり、龍麻は仲間の苗字を呼んだ。端整な顔をした、意志の強い眼を有した青年。自分が一番好きな人間だった。
「 どう、したの…? こんな所で」
「 あ、ああ。こっちに用があったから。それで、もしかしてここにいれば君に会えるかもしれないと思ってね」
「 ………」
「 迷惑…だったかい?」
「 あっ! ち、違うよ。その、だったら学校まで来てくれればって。ここは人通りが多いから、すれ違っちゃうかもしれないだろ」
「 そうだね……」
壬生は少しだけ寂しそうに笑った後、同意するように頷いた。龍麻はそんな壬生の姿を見やるだけで心臓が破裂しそうになった。どうしてこんな顔ができるのだろうと不思議で仕方なかった。
「 龍麻。これから時間空いているかい。良かったらこれから―」
壬生が龍麻に食事に行こうと誘う言葉に、龍麻は舞い上がりながらも一方でふっとその表情を固まらせた。不意に目に付いた壬生の口元に、微かな傷痕が見えたのだ。
会った瞬間では気づかない、それは小さな小さな痕だったのだが。
「 壬生…口の端、どうした?」
「 え…?」
壬生は指摘されてからようやくはっとして、慌てたように片手で自らの傷痕を隠したが、「大した事ないんだよ」と言ってやんわりと笑んだ。
「 でもそれ…殴られた痕? 壬生がやられるなんて……」
「 平気だよ。もう消える」
「 でも……あ」
龍麻は一瞬嫌な予感がして、しかし黙っていられずに訊いてしまった。
「 もしかして鳴瀧さんが……?」
「 ………」
龍麻が心底ショックを受けたような顔をしていると、壬生は焦って取り繕うような声をあげた。
「 彼は僕の師だ。僕が誤った事をすれば、これくらいするのは当然だよ。僕たちは命を懸けた仕事をしているんだし」
「 だけど……」
「 本当に何でもないんだ。君が気にする事じゃないよ」
「 ………」
必死に鳴瀧をかばう壬生に、龍麻はぐっと唇をかんだ。
たとえ壬生が仕事上で何かミスをしたとしても、今までの鳴瀧ならば、こんな風に手を出す真似をするだろうか。それはあの日の鳴瀧を思うと、龍麻にはどうしても考え難くて。
( でも………)
かと言って、自分の壬生への感情を知った事で、鳴瀧がこういった感情的な行為に出るとも、龍麻は信じたくはなかった。あの人はいつだって己の気持ちを消して、ただ冷徹に事を起こしてきたはずだ。
『 愛している 』
そう言った鳴瀧の言葉が思い返された。龍麻はそれを振り払うように慌てて首を振ると、目の前にいる壬生の手首を掴んだ。
「 壬生…うちに来ない?」
「 え…っ?」
壬生が面食らった顔をするのにも構わずに、龍麻は努めて明るい声で言った。
「 俺、何か御馳走するからさ。外で食べるより、俺、そういうのの方が好きだから」
それとも、と龍麻はわざと言葉を一旦切って、伺い見るように壬生の顔を見やった。
「 壬生は嫌…かな?」
「 ………」
問われて壬生はらしくもなく、本当に困惑したような迷ったような目をした。しかしすぐに再び優しい微笑に戻るとゆっくりと頷いた。
「 君が…迷惑でないなら」
「 全然ッ!」
龍麻はその壬生の言葉で、本当に心が温かくなるのを感じた。
鳴瀧に命令されるまま真神に転校してきた龍麻は、一人暮らしを始めてから大分経っていたが、実は料理の方はからっきしだった。
「 ごめん、あんな大きな事言っておいて」
龍麻は自分の代わりにてきぱきと台所で料理に勤しむ壬生を感心して見つめながらも、心底申し訳なさそうに言った。壬生は龍麻に背中を向けたまま、「僕はこういうのが好きだから」と実にやんわりと静かな口調で返してきた。龍麻はそんな壬生の一言だけで安心してしまい、それから手持ち無沙汰のようになりながらベランダの外から見える景色に息を吐いた。
「 わ…っ」
「 外、積もってきたかい?」
壬生が龍麻の半ば感嘆の声だけで、外の状況を予想して声をかけてきた。
「 うん…っ。寒いと思った。でも、何だか……」
龍麻はそこで言葉を止めて窓に近づき、ガラス越しからぼんやりと外の雪景色を眺めやった。
綺麗だ。
「 龍麻は雪が好き?」
その時、壬生が料理を運んできながら言った。龍麻は振り返りながら訊かれるままに頷き、照れたような顔を見せた。あまりそういう話を人にしたことがなかった。
「 俺、普段はあんまり周りの景色とかに興味ないんだ。みんな同じに見えるっていうか。だけどさ…こういうのは、好きだな」
「 ………」
壬生は優しい微笑を浮かべたまま黙ってそんな龍麻の台詞を聞いていた。けれど龍麻が「壬生は?」と問い返すと。
「 ごめん、僕は…あまり好きじゃないんだ」
「 え………」
「 ごめん」
「 あ、いいけど……」
龍麻が困り果てたような壬生に慌てて首を振ると、壬生は再び台所へ戻って行った。慌てて後を追うと、壬生は「これも運んでくれるかな」と料理の取り皿とフォークを龍麻に渡した。
「 壬生、あの……」
「 ………紅が映えるだろ」
「 え……」
「 雪の色ってさ」
壬生は最後の台詞だけは実に素っ気無く言ってから、龍麻を素通りし、一人先にリビングに戻った。龍麻はそんな壬生の背中を見つめてから、考えるより先に言葉を出してしまっていた。
「 壬生…。俺、壬生が好きなんだ」
「 え……?」
龍麻の突拍子もない告白に、壬生はひどく驚いたような顔をして振り返った。二人はほんの少しのその距離を縮めることもなく、ただ立ち尽くして互いを見つめた。
「 龍麻……」
「 ご…っ! ごめん、いきなりこんな事言って…!!」
壬生の困った顔を見て、龍麻は泣き出しそうな気持ちを必死に抑えながら、もう相手を直視できなくて下を向いた。
「 急にこんな事言って驚くよな。気持ち悪いって思うよなっ…。で、でも、ホント、ごめん! 俺、ずっと壬生のこと―」
「 龍麻……」
その時、壬生の呼ぶ声が聞こえたと同時に、龍麻ははっとして顔を上げた。すぐ傍に壬生の姿があり、こちらをじっと見下ろしていたから。龍麻が再び焦ったように俯こうとした瞬間、壬生はそんな龍麻のことをぎゅっと抱きすくめた。
「 み…壬生…?」
「 僕もだよ」
「 え……?」
強く抱きしめられ、相手の顔は見えなかった。けれど掠れたような、震えるような声で龍麻は目を見開き、相手の更なる言葉を待った。
するととても温かい声が。
「 僕も君が好きなんだ、龍麻」
「 ……!」
「 僕は……毎日この手を血で濡らしている……。こんな僕が救いなんか求めちゃいけないって…。ずっと、思っていた」
「 壬生……」
「 でも、僕は……龍麻、君が好きなんだ。どうしても…止められない。この感情を」
「 俺…俺、壬生…っ」
龍麻が嬉しさのあまり自分もぎゅっと壬生に抱きつくと、背中に回された相手の腕の力は更に強まった。龍麻はそんな壬生の身体の熱に自分が満たされるのを感じた。
「 好き……壬生……」
「 龍麻……」
「 紅葉。ここで何をしている」
その時、二人の間に第三者の声が突然割って入ってきた。
「 ……館長」
いつ、中に入ってきたのだろうか。そこには二人の共通の師である鳴瀧冬吾の姿があった。
龍麻が驚きのあまり声を出せずにいると、鳴瀧は厳しい眼をしたまま抱き合う二人を冷めた目で見やっていたが、すぐに厳かな口調で壬生に向かって言った。
「 紅葉。外に出ていなさい」
「 え……?」
「 龍麻、話がある」
「 お、俺はない…っ」
「 紅葉」
「 は…はい……」
「 壬生、いてよ! ここにいてよ!」
「 龍麻…?」
壬生は当惑して自分の腕を掴む龍麻を見つめ、それから師である鳴瀧を見やった。しかし目の前の師の顔は一向に崩れる事はなかった。いつもの彼だと思った。
「 紅葉」
「 …………はい」
「 壬生!」
「 龍麻。仕事…だから。ごめん、また……」
「 壬生…っ」
嫌だ。今、この男と二人にされるのは。
龍麻はどうしても壬生の腕を放す事ができず、無駄だと分かりながら尚も自らの手に力を加えた。しかし、不意にそんな二人の間に大きな鳴瀧の身体が割って入り、瞬間、龍麻に向かって射るような視線が突き刺さってきた。
龍麻は壬生から引き離された。
「 いいのか、龍麻?」
「 ……ッ!」
そしてその後に投げかけられてきたその言葉は、明らかに脅しだった。言うことをきかなければ、今ここで壬生に自分たちの関係を話すつもりなのだ。
龍麻はがくりと力を抜き、壬生から更に距離を取った。鳴瀧はそれを確認してから再び弟子に命令した。
「 紅葉。下に車がある。先に帰っていなさい」
「 ……はい」
壬生は様子のおかしい龍麻を気にしながらも、黙って部屋を出て行った。
急に部屋の温度が下がったような気が、龍麻にはした。
「 『壬生』…か」
二人きりになってから初めて、鳴瀧が声を出した。
「 私とのセックスの時には、『紅葉』と呼んでいたじゃないか。……まだそこまでの関係ではないという事だな」
「 ……何で」
「 ここに来たのかと言いたいのか。言ったはずだ。あれは駄目だと」
「 あんたには関係ない!」
龍麻は精一杯虚勢を張り、搾り出すように声を出した。
それでも近づく鳴瀧に、自分の手首を痛いほどに掴む鳴瀧に、龍麻は逃れる術を持たなかった。片手で龍麻を拘束し、もう片方の手でネクタイを緩める男の姿をただ怯える目で見つめるしかなかった。
初めての時は何も分からなかったから、まだ良かった。
「 ……ッ! …ぁ…ん、ん!」
その痛みも、感覚も。混乱したまま、半ば意識を飛ばされた状態で、気づくと全てが終わっていたから、哀しみに襲われる暇もなかった。
けれど今は、身体だけでなく心も痛い。
「 嫌…ッ! あ、ぁ…ぃッ! …――ッ!」
何度も何度も貫かれる衝撃に、龍麻は必死に声を殺す。それでも無理に押し込められる痛みに、時折悲鳴がもれてしまった。
鳴瀧はすっかり服を脱ぎ去り、全裸の状態だったが、龍麻は中途半端に衣服を剥ぎ取られた格好のまま、無理やり開かされた両足の間に、鳴瀧を受け入れさせられていた。中に挿入されたのも、本当に突然だった。普段は多少慣らした状態から挿れてくる鳴瀧だったが、今日はただ龍麻を痛めつけるためだけに抱いているという感じだった。
「 ……んんッ! あッ、あ…やぁ…ッ!」
「 まだだよ、龍麻」
鳴瀧は意地悪く耳元で囁いたかと思うと、更に深く突き刺すように龍麻を犯した。逞しい肉体がそれよりも数段小さい龍麻の上を蹂躙し、二人を乗せるベッドすら揺らし、軋ませた。ギシギシとなるその音と同時に、龍麻も徐々に苦痛の声を上げていった。
「 あぁッ、んッ、ン――ッ!」
「 いやらしい子だ、龍麻……」
こんなところを。
「 は……」
龍麻がうっすらと目を開くと、当にこちらを見ていたのだろう、鳴瀧が囁くように言ってきた。
「 紅葉が見たら、あの子は何も信じられなくなるだろうな」
白いと思っているお前が。
「 い…や……」
「 無駄だよ、龍麻」
鳴瀧の声が龍麻の耳に張り付いて離れない。同時に、壬生の優しい笑顔が浮かんだ。龍麻は涙をこぼし、全ての視界を遮断するべく目を閉じた。
外の雪は、いまだひっそりと辺りの景色を白色に変え続けていた。
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